第5話 カルテット
土曜日の午後、茜に連れられて、文は『大人の音楽教室』にやってきた。
本来は教室なのだが、授業が空いている場合は殆どがプロ演奏家である講師陣の練習場として使ってよい事になっている。教室は駅前の小さなビルの3階にあった。文は電車通学なので、駅までは慣れた道のりだが、ビルのエレベータは難敵だった。ブロックも備わっていないため、覚えられるまでは一人では来られない。茜の肘につかまりながらエレベータの前まで来た文はさすがに怖くなった。一応、美方先生にエレベータのあらましは聞いて来たのだが、文の幼い記憶にはないものであり『ドアに挟まれる』やら『混雑していたら降りられない』やらの話を聞くにつれ、いっそ階段の方が楽かもしれないと思っていたほどだ。
「あの、私、もしかしたらエレベータって初めてかもです」
「あら、そうなんだ。箱みたいなのが上下するだけなんだけどねえ」
「入口の横にボタンがあるって聞きました」
「うん。これだよ。判るかな?」
茜は文の手を取ってエレベータ操作パネルに触れさせる。
「あ、触れば解ります。矢印が書いてある」
「うん。まずは上に行くから上向きの矢印のボタンを押すんだ。押してみれる?」
文は指を動かしてボタンに触れてみた。
「あー、もうちょっと強く押して。まだ押せてないわ」
ボタンは押されると光るのだが、見えない文にはそれが判らない。音が出るものもあるようだが、喧噪のなかでは聞こえなかったりもする。茜は改めて『目が見えない』ことの社会での不利さを感じた。
「このボタンもさ、車椅子用に低い所にある事もあるからね、たぶん、場所によって違うかなー。オーケイ、来たよ」
「はい」
文は白い杖で探りながら乗り込む。こう書くと簡単そうだが、実際は下りてくる人や一緒に乗り込む人がいれば杖で探る事さえ難しい。幸いこのビルのエレベータは大して乗降がある訳でなく、茜と文は難なく乗れた。
「階数のボタン、判るかな。振り返ると扉の左右のどっちかにあるんだけど、決まって無いように思うな」
「はい。他に人がいればお願いするようにって先生に言われました」
「うん。ま、それが一番いいけど、文ちゃんきれいだから変な男とかいるとちょっと心配」
「はい。私も心配です」
3階にはすぐ着いた。
「降りるよー。扉開いたから。私が開けてるからまっすぐ前に出て、はい、そこでストーップ!」
文は扉の前で立ち止まった。
「じゃ、そのままついて来てね」
茜が再び文を誘導する。教室はすぐ目の前だった。
「こんにちは」
「あ、三沢先生、お疲れ様でーす」
受付スタッフが迎えてくれる。
「あのさ、この子、私たちのグループに今日から入るんだ。ピッコロ上手いのよ。目が不自由なんだけど」
「はい?えっと、大丈夫なんですか?」
「うん、何とかなるよ。ね、美鶴たちもう来てる?」
「ええ、お二人とも入られてます」
「んじゃ、5時まで使いまーす」
茜は文を従えて練習室の扉を開けた。
「お待たせ―」
「あ、茜さん、お疲れ様です」
美鶴が挨拶したが、そのまま目が茜の背後の文に釘付けになった。
「え?LINEに書いてあったのはこの子ですか?」
陸も文の青い瞳を凝視している。
「そだよ。文ちゃん、そのまま前に来て、うん、そこで一旦止まって。目の前に二人いるんだ。クラの美鶴とヴァイオリンの陸。二人とも私の大学の後輩なんだけど、文ちゃんよりは随分歳上。じゃ、文ちゃん自己紹介してくれる?」
「はい。あの、初めまして、若浦文と言います。市立高校の1年で、小さい頃からピッコロやっています。でもちゃんと習ってる訳ではないので、皆さんと一緒にできるのかちょっと自信ないです。えっと、それで、あの、お解りと思いますけど、目が見えません。この目は義眼です。目を合わせてお話しできないので変な感じと思いますけど宜しくお願いします」
「うん。ま、そう言う事だから、美鶴も陸もよろしくね。スコアは読めるんだけど点字にしないと駄目だからちょっと手間が増える。演奏の見本がある場合は、それ聴いて覚えてもらった方が速いかもだよ。最近はずっと耳コピで吹いてたんだって」
美鶴も陸も呆然と見ているだけだ。茜は続けた。
「今度のライブは、知ってる曲のメロディやって貰って、私が時々伴奏に入るよ。2曲くらいかな。その他の曲は今までの練習通りで行きます。なので少し時間オーバーかもね。それでいいかな?」
美鶴と陸は頷いた。
「二人とも返事は声出して。文ちゃん判んないから」
「はい」
「じゃ、早速だけど、文ちゃん吹いてみてくれる」
文も戸惑いながらピッコロを取り出した。本当に知らない世界だ。新しい扉を開けてみたけど、これはなかなか厳しそうだ。しかし文の奏でる音に美鶴も陸も納得した。なるほど、茜さんが連れてくる訳だ。
結局その日は文の練習はほんの少し。2曲を2回吹いただけだった。うち1回はアドリブで茜さんが伴奏をつけてくれた。本番でもアドリブでやるという。ま、おまけみたいなものだ。文は少し肩の荷が降りた気がした。
週に1回文は茜に連れられて「大人の音楽教室」にある練習室に出入りするようになった。茜,美鶴,陸はオケの演習もここでする。なので文には入って行けない事も多かったが、三人も合わせる以外はめいめい勝手に練習していて、文が関係ない曲をピッコロで吹いても誰も気にしなかった。勿論文には三人の表情は見えなかったので断定はできないが、少なくとも文句言われることはない。それに音大出の三人の演奏には文も学ぶところがたくさんあった。スコアは見えないから演奏が正しいかどうかは判らない。だが音の表情は聴き入ってしまう事が多々あった。こんな風に演奏できないとプロとしてやってけないんだ。中学以降、我流で演奏してきた文にとっては、まさにそこは『音楽教室』そのものだった。
しかし受け入れた側の気持ちは複雑だった。特に美鶴にとってはこの練習時間こそ、茜と一緒の時間を過ごせるとワクワクしていたのに、思わぬ『盲目の美少女』の出現に戸惑っていたと言ってよい。茜が連れてきたというのも気になる点だった。偶然公園で会ったと言っているが本当なのだろうか。もしこの子が男子だったら、茜さんは連れて来ただろうか。茜のファッションに影響され、最近ボヘミアン風を纏うようになってきた美鶴は、憧れの君である茜の興味が文に行っていることは正直面白くない。演奏が上手なのは認める。でもそれ以上は認めない。これが美鶴の基本スタンスだった。
一方の陸は淡々と文に接した。視覚障害は気の毒だけど、音を聴かせる商売なんだから基本的に関係ない。現にヴェートンヴェン以下、そういうアーティストは多数いる。陸の専門であるヴァイオリンでも、日本人でヨーロッパの音楽院を首席卒業した著名な人がいる。だから基本的には同格だ。なので練習では特別扱いはしなかった。