第3話 盲目のピッコロ
若浦 文は公園の片隅でピッコロを吹いていた。ピッコロはフルートを短くしたような管楽器で高い音を出せる。この4月から高校生になったばかりの文は、新しい制服のまま慣れない高校生活のストレスを吹き飛ばすように音を出していた。この公園は中学時代から通学路の途中にあって通い慣れている。ベンチに座ると草の匂いがプンとする。匂いに敏感な文は、それが春の香りだってことはすぐに判った。だから吹く曲も春をイメージしたアドリブにした。
そこへ『大人の音楽教室』の帰り道の茜が通りがかった。茜にはそれがピッコロの音色だとすぐに判った。覗いてみるとベンチに一人の少女が座って吹いている。ここからじゃ背中しか見えないけど、中学生か高校生かだな。吹奏楽部かも知れない。結構いい音出してるじゃん。でも曲はきっとアドリブだ。気分のまま吹いてるんだ。
よーし。
茜はひと勝負挑んでみることにした。何故そんな気分なったのかは解らない。少し隙間のあるメロディの間に、そーっと入ってみたくなったのだ。茜はフルートを組み立てて、少女の少し後ろに立った。そしてピッコロのフレーズが切れた瞬間を狙って掛け合いの短いフレーズをアドリブで吹いた。ピッコロは一瞬驚いたように止まったが、すぐに次のメロディを入れてきた。
お、いい度胸じゃん。茜は再び掛け合いフレーズを吹く。二人はしばし音と戯れ、そしてピッコロは、もうお仕舞とばかりに一気に流れるメロディを奏で、少女が振り返った。
茜はフルートを口から離し、ギョッとした。少女はブルーの瞳。でもどこを見ているのだろう、目が合わない。
「私、目が見えないんで、すみません。合わせて下さって、こんなの初めてです。なんか、いいですね」
茜は驚いた。
「え?目が見えないの?それでこんなに吹けるの? いい音だよ」
「有難うございます。私、高1なんですけど、私より上の方ですか?」
「うん、10歳位上だね ねえ、目がブルーなのは?」
「イミテイションです。変ですか?どうせ自分じゃ見えないからって格好つけました。瞳が動かないから話しづらいってよく言われます」
「そうなんだ。どうやってピッコロの練習したの?楽譜は読めないよね」
「はい。点字の楽譜はあるんですけどクラシックばかりで、今は殆ど聴いて覚えて吹いてます。どのみち楽譜を触りながらは吹けないから覚えるしかないですし」
「凄いねえ、へえー。突然割り込んでごめんだったけど私は三沢 茜って言うんだ。あなたは?」
「若浦 文です。若い人の『若』に海の『浦』、名前は作文の『文』で『ふみ』です」
「若浦さん、文ちゃん。ふうん、いい名前だねえ。日本人らしい」
この名前もきっとLinaにもウケるだろう、茜は思った。だって想いを綴ってやりとりする古来からの手紙。そう千数百年前からある言葉だよ。ウケない訳がないよ。
「目はいつから見えないの?」
「小さい頃です。幼稚園入る前」
「全然見えないの?」
「えっと、ぼーっと影は見えます。ユーレイって多分こんな感じ?」 と文は笑った。
「恐いものも見えないから恐くないけど、でもこれからの事を考えるともっと怖くなります」
「あの、言いにくかったら言わなくていいんだけど、事故かなんかだったの?」
「いえ、母は小さい頃の病気のせいって言ってますけど詳しくは解りません。母も言わないし、このごろお医者さんにも行かないのでどうなってるかも解りません」
「そっか。ごめんね、嫌な事聞いて。ね、イミテイションって言ってたけど人工の目なの?」
「はい。義眼を被せているんです。コンタクトみたいなものって言われましたけど、コンタクトが解らないから結局どんなものか自分ではわかりません。多分ですけど目の表面を覆うものですね。毎日外して洗うから、形はなんとなく判るんです」
「え?外すの?」
「はい。不衛生だから毎日洗わなくちゃいけないんです。小さい頃は母に付けたり外したりしてもらってました。でも小学校の途中からは自分で出来るようになって、もうすっかり慣れましたよ。目が見えなくても結構いろんなことできるもんなんです。でも瞳が動かないから、あんまり人に顔を見せたくなくて結構俯いています」
「そっかあ。だけど文ちゃん、あ、文ちゃんでいいかな?」
文はこっくり頷いた
「文ちゃん、きれいな顔だよ。はっきり言って美人だよ。私の百倍は美人」
文の顔が綻んだ。
「自分で見えないから一緒なんですけどね」
「ね、そのブルーは格好つけたって言ってたけど」
「中学入る前に作り替えたんですけど、その時にせめてと思ってねだったんです。お医者さんは不自然だよ、却って義眼って目立つよって言ってたんですけど、どうせ自分じゃ判んないしと思ってワガママ聞いてもらいました」
「ふうん」
茜はしばらく空を見上げて唐突に言った。
「あのさ、私、一応プロのフルート奏者なんだけど、私のリサイタルで一緒に吹いてみない?」
「え?そんなのやった事ないです」
「大丈夫だよ、それだけ吹けたら。1曲か2曲でいいからさ」
本当に唐突な話だった。知らない人の前で吹くなんて、小学校時代の発表会以来かも知れない。文は少し思案して、しかし小さい声で答えた。
「はい、やって・・・みようかな」
「よし。じゃ他に二人ほど仲間もいるし、今度練習に連れて行ってあげるよ。この公園に来てくれたら私が引率するからさ」
「はい、有難うございます。あの、三沢さんはもしかして有名な人なんですか?」
「え?いやあ、この辺では少々名前は売れてるけど、でもテレビとかで騒がれる程じゃないよ。音大出てから3年間ヨーロッパで修行してたんだ。オーストリアのウィーンってところで。でもこっちに新しいオーケストラ出来るって言うから、帰って来てそこに入ったんだよ。そうだよね、いきなりだとお父さんとかお母さんが心配するよね。あのさ」
茜はバックからゴソゴソと紙を取り出した。オケの定期公演会のお知らせと、大人の音楽教室のチラシだった。2枚のリーフレットを文の手に押し付けて、
「お母さんにこれを読んでもらって。フルートの所に三沢って出てるから。リサイタルはこれとは別に2週間後に公民館のホールでやるんだ。タウン誌とかに出てると思うよ。誘拐とかしないから心配しないで。変なの来ても私が守るから大丈夫だよ。あ、それからこれ名刺だから。私の連絡先書いてるし、お父さんとかお母さんが連絡くれてもいいから」
文は微笑んだ。天使の微笑みみたいだよな、茜は思った。
「有難うございます。心配ないって言います」
文は見知らぬ人の見当もつかない誘いにいきなり乗ってしまったことに自分でもびっくりしたが、内心、あのフルートの音色は絶対大丈夫だと思っていた。
「じゃあ、土曜日の午後にここに来れる?時間は3時で。ピッコロだけ持ってきてくれたら何もいらないよ」
「はい、解りました。あの、握手してもらっていいですか?」
「え?握手?」
「はい、感触を覚えておきたいので」
「う・うん・・・」
茜はおずおずと文の手を握った。あ、これは相当練習している指だ。少女の手を握るなんてありそうでない体験だしちょっと顔が赤らむ。この子から見えないのは助かるよ。
「有難うございます。じゃあ、土曜日によろしくお願いします」
文は手慣れた手つきでピッコロを分解してケースに入れ、傍らの白い杖を持って立ち上がった。茜はちょっと焦った。
「えっと、一人で帰れるの?・・・かな?」
「勿論です。中学生の時からの通学路なんです。道路の凹んだ所まで覚えてます。じゃ、失礼します」
文は軽く会釈すると杖を突きながら、本当に手慣れた様子で公園を出て行った。
茜は自分から言い出したものの、こりゃ大変だと気を引き締めた。美鶴と陸に何て言おう。1回きりだからって言おうか。でもなあ、あの音色、一回きりにするのは惜しいなあ。ま、いいや、取り敢えず土曜日に考えよう。
一方、文は歩きながら少しウキウキしていた。こんな気持ち初めてだ。新しい扉が私の前にある。未知の音楽の世界の扉。あの人となら一緒にやっていけそうな気がする。春っていいことあるんだ。文は見えない目で空を見上げた。