第13話 ピイの反撃事件
「文ちゃん、お荷物だね」
陸は文が下げている大きな紙袋を指した。レストランでのリサイタルの前日、いわゆるゲネプロのため、茜たちはいつもの練習室に集合がかかっていた。ピッコロを肩掛けにして、右手に杖、左手に紙袋と言う出で立ちだった。
「はい。すみません、今日は家に誰もいなくて、一人で放っておけないので連れて来ちゃいました」
文はガサガサと手探りで紙袋から中のものを取り出した。途端にバタバタっという羽音が聞こえた。
「ね、まさか、鳥?」
美鶴が文を見る。
「はい。暗くしてると大人しくなるので、練習中は袋を被せておきます」
「邪魔させないでね。ややこしいからさ。明日はお金貰うんだし下手なこと出来ないよ」
「はい」
文は美鶴の声の方を向いて小さく頭を下げた。美鶴は少しピリピリしている。そこへ茜がやって来た。
「お疲れー、あれ?ピイ来ちゃったの?」
文が声の方を向いて答える。
「迷惑かからないようにしますから。今日は家に誰もいないんです」
「ふうん。ま、ピイの声で混乱して、音、乱してる様じゃプロとは言えないけどね。客席で叫んだりする人もいるんだから。ピイ、上手く出来たら拍手してよ」
茜は鳥かごの中のピイに話しかけ、そしてフルートを組み立て始めた。文もピッコロを取り出し、美鶴も譜面台を立てる。陸は既に準備が出来ていて、みんなの様子を見ながら鳥かごに近づいた。
「文ちゃん、ピイって僕の手にも乗るかな?」
「え?はい、多分誰にでも乗ると思います。何か恐い思いをしたらそれ以後は近づかないみたいですけど」
それを聞いて美鶴がリードを取り出しながら言った。
「陸、調子に乗せないでよ。いつも遊んでもらえると思っちゃう」
「うん、大丈夫」
陸はそうっとカゴの扉を開けてみた。すると、いきなりピイが飛び出して来た。美鶴がそれを見て
「ちょっと陸!これから練習なんだよ!戻してよ」
文も羽音を聞きながら周囲を見回して、ピイと呼んでいる。ピイは一旦陸の肩にとまり、次に美鶴の譜面台に飛び移った。
「ちょっと、あんた、カゴに戻りなさい!」
言いながら、美鶴が譜面台の上のピイに向かってリードを突き出した。
その瞬間、ピイはギュルルルルと鋭い声を出し、飛んでリードを持った美鶴の指に噛みついた。
「痛っ!、何すんのよ!!」
美鶴は手を振り払った。ピイは退避し文の肩に逃げる。
「文!!すぐにカゴに入れて!痛い!血が出たじゃない!」
文は驚きオロオロしながらピイを手なずけカゴに戻す。
「ごめんなさい、美鶴さん、ごめんなさい」
文はカゴにガサガサと袋を被せ、美鶴の声の方に向けて頭を下げた。
「ごめんじゃないわよ!こんなとこに連れてくる方が非常識でしょ!」
怒り心頭の美鶴に向かって、茜が声を掛けた。
「美鶴、カッカしないで!こんなちっこい鳥に噛まれたって大怪我にはならないわよ」
そう言いながら、どれどれと美鶴の手を取った。美鶴は瞬間大人しくなった。
「でも、血が出ました」
「はいはい」
茜はウェットティッシュを出して美鶴の指を丁寧に拭うと、絆創膏を取り出して指の腹を避けるように巻いた。
「血はすぐに止まるし、ちょっと指の動きがぎこちなくなると思うけどキイを押さえるには影響ないと思うよ」
「はい」
美鶴は少し赤らんだ顔を答えた。
「ま、文も気をつけてね。基本的にペットはここ駄目だから」
文はすっかり項垂れていた。
「すみませんでした。連れてけって騒いだんでつい」
「ま、そもそもは陸が開けちゃったことが原因なんだからね」
陸も同様に項垂れていた。
「はい。申し訳ありません。申し開きもできません」
茜は一同を見渡して手を叩くと
「さ、練習するよ。美鶴も文ちゃんも平常心だよ」
美鶴は茜に絆創膏を巻いて貰った手を見た。絆創膏からピンクのネイルがはみ出している。そしてピンクのボヘミアン風のミサンガウォッチを外し、クラを手に取った。明日が本番なんだ。
鳥かごの中では反省しているのか暗くなったせいなのか、ピイはすっかり大人しくなっていた。
翌日のリサイタルは滞りなく終わった。しかし文には気まずい思いが残っていた。美鶴は文に演奏上での最低限の事しか話しかけてくれない。やっぱ、美鶴さん怒ってるんだ。文は生まれて初めて加害者になってしまった呵責を感じていた。そんな文に陸が話しかけた。
「文ちゃん昨日はごめんね。あれって美鶴さんがリードを突き出したからだと思う。ピイはきっと攻撃されたと思ったんだよ。いきなり目の前に突き出されたからピイも本能的にやってしまったんじゃないかと思う。だから文ちゃんも自分を責めないで。カゴから出したのは僕なんだし」
実際のところは陸の言う通りだった。クラのリードは色と言い形と言い鳥の嘴に似ていなくもない。それがいきなり目の前に突き出されたら、他の鳥から嘴を突き出されたと勘違いしてしまうのだ。
そうだ、ちゃんと躾ければピイは解る筈だ。文は思った。初めは懐かなかったピイもすっかり慣れたじゃない。どんな顔なのかは見えないけど、機嫌のいい声とか甘えている声とか解るようになってきたじゃない。ピイは賢いんだよ。そもそもピイが人に怪我させるなんて初めてだ。確かに遊んでいて鋭い声を出す事もあるし文の指に噛みついたりもする。痛っと思うけど怪我をするほどではない。本当はピイはちゃんと解ってるんだ。よし、突き出されても怖くないって教えよう。
リサイタルの翌日から文はピイに教え始めた。
「いい?ピイは人に怪我させちゃ駄目。噛む時は甘噛みだけだよ」
そう言いながら突然文はピイに指を突き出した。その瞬間、ピイは文の指に飛びつき、そして噛んだ。先日の記憶が残っていたのかも知れない。
「痛っ!駄目って今言ったでしょ。痛い!きつく噛んじゃ駄目なの!ピイ、誰からも遊んでもらえなくなるよ」
騒ぎを聞きつけた母がやって来た。
「あらら、文、指から血が出てるよ。ピイどうしたの?」
母は文の指に絆創膏を巻き、ピイを窘めた。ピイは気まずい顔で文の肩に飛び移り、ピッピ、キュウと小さく鳴いた。
「ピイ、ご機嫌とってもだめ」
文もピイを窘めた。
それからしばらくそんなことが繰り返された。文がピイを指さすとピイが噛みつく。痛がる文を見てピイは焦る。ピイが理解しているのかどうか、文には判断つきかねたが、文も根気よくピイに教えた。ピイの噛み方は徐々に甘くなっていった。