はじめての料理
夢を見た。乳白色のもやがかかったような、ミルクの甘い香りまで感じた、幸せな夢。
リルには家族がいた。優しくておだやかなお母さんと、明るくて頼りになるお父さん、生意気な小さな弟。厳しいけれど一番リルをかわいがってくれたおじいちゃん。忘れていた、たいせつな家族。
お母さんの作ってくれるアップルパイが大好きだったこと。ピンクのワンピースがお気に入りだったこと。猫を飼っていたこと。けして裕福ではなかったけれど、何も不安のない幸福な時間がそこにはあった。
リルに魔力があることが分かって国の兵士がやって来たときも、家族は最後までリルをかばってくれた。でも、リルを渡さないと一族がみな処刑されると聞いて、自分から幽閉されることを決めたのだ。
家族は泣いていたけれど、リルは家族を守れたことが嬉しかった。今も元気で暮らしていてくれればそれで満足だ。
どうして忘れていたのだろう。六年間の、宝物のような思い出を。
ミルクの香りの中に陽だまりの匂いが混じっている気がした。シャル先生の匂いだ、と気付いたときには、リルはもう夢を手放してしまっていた。
*
カーテンの隙間から漏れるやわらかな朝陽と、鳥の歌声でリルは目を覚ました。ベッドの支柱にアークが止まっている。陽が落ちてすぐに眠ってしまったから、まるまる半日は寝ていたことになる。こんなに熟睡できたのはきっと、十年ぶり。
「おはよう、アークさん」
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん」
のびをしてから起き上がり、部屋の中を見回す。ベッドとチェスト、書き物机と椅子があるこぢんまりとした部屋だった。
「この部屋……」
「リルの部屋だ。俺が迎えに行く前に、シャル先生が事前に準備しておいてくれたんだ」
「わたしのため……」
塔の部屋と同じくらいの広さでも、この部屋には自分のためにあつらえてくれたあたたかみがあった。陽当たりのいい窓、明るい木調の家具。ベッドリネンやカーテンにはフリルやレースが施してあり、先生が女の子向きのものを選んでくれたことが分かる。
「シャル先生は、わたしに会ったことはないって言ってたよね」
「ああ」
「それってわたしのことは昨日まで知らなかったってことだよね」
「そうだと思うぞ。どうかしたのか?」
「……ううん」
(シャル先生はどうして、塔に魔法使いが幽閉されていることを知っていても、「わたし」が女の子だと事前に分かったのだろう)
昨日シャル先生に感じた嘘は、やっぱり気のせいではなかった。どうしてシャル先生がそのことを隠すのか分からないけれど、シャル先生がそうしておきたいのなら黙っておこう、とリルは思った。そのうちリルのほうから、昔のことを思い出すかもしれない。昨夜夢で家族を思い出したように。
アークが部屋を去ってから、お風呂場に残っていたお湯で顔を洗わせてもらう。せっかくリオに結ってもらったみつあみがほどけてしまっていたので、部屋に置いてあった手鏡とブラシで髪を整える。自分でみつあみをやってみたが、なんだかぶかっこうになってしまった。リボンもきれいに結べていない気がする。
コンコン、というノックの音がしたので、「はあい」と返事した。
「起きたの? なら、キッチンに来て朝食の準備手伝って」
昨日よりちょっと低くてかすれている、リオの声。起きたばかりなのだろうか。
「あっ、リオくん、ちょっと待って」
ドアのむこうのリオに呼びかけると、面倒そうな表情でリオが入ってきた。
「……なんだよ」
「みつあみが、うまくできなくて」
はぁ~とため息をつきながらも、リオはリルの背中側にまわってくれた。
「ブラシ、貸して」
不機嫌そうなのは言葉だけで、手元は止まることなく丁寧に髪を編んでくれる。
「夜、寝る前とかにみつあみの練習しなよ」
「そっか、ありがとう」
リオについてキッチンまで行くと、野菜を洗え、卵を割れ、とてきぱき指示された。リルができそうなことから頼んでくれるのがありがたい。かまどの火はリオが魔法で起こしてくれた。こういうことを自分もできるようになるのだろうか。
「リオくんも、魔法が上手なんだね」
「そりゃあ、僕はシャル先生の一番弟子だし」
リルが褒めると、リオは「一番」を強調して答えた。今日はまだ、朝起きてから先生を見ていない。近くにいると分かっているのに、いちばんにおはようが言いたかった、とぜいたくなことを思うのはどうしてだろう。
「シャル先生は、まだ寝てるの?」
「シャル先生はアークと畑仕事してる。あ、シャル先生は料理だけじゃなくて家事全般ぜんぜんダメだから、洗濯や掃除も僕たち二人でやることになるから。手伝ってくれようとするんだけど、ほとんど役に立たない」
「そうなんだ」
「シャル先生は魔法以外はなんにもできないけど、天才ってそういうものだろ」
リオが自信満々で答えるので、そういうものなのか、と思う。
「シャル先生の部屋なんて、散らかってるのを片付けられたら物の場所が分からなくなる、って言って入らせてくれないんだよね。一度思いっきり掃除してみたいんだけど」
どんな惨状になっているのか想像しただけで手がうずくよ、と言ってリオは身震いをした。
「そ、そっか」
見た目からは想像できないが、この少年は主婦以上に家事の鬼なのかもしれない。
「ねえ、リオくん。シャル先生ってもしかしてすごい魔法使いなの?」
ついでなので、昨日からちょっと気になっていたことを訊いてみた。シャル先生からは偉そうだったり威張ったりする雰囲気を感じないが、弟子を二人もとれるくらいだし、アークという使い魔もいる。
「お前何も知らないの? シャル先生ってすごい有名人なのに」
「そうなの?」
「そうだよ。この大陸じゃ知らない人はいないと思う。何年か前、魔法戦争が起きそうになったときに直前で止めた功労者なんだよ。そのときに一生暮らしていけるくらいの報奨金をもらったから、隠居して今はここに住んでる」
「ま、魔法戦争?」
恐ろしい響きだった。魔法で戦争をするなんて想像もつかないけれど、それがとても残酷でたくさんの人を犠牲にするものだということは分かる。
「それも知らなかったの?」
「わたしがいたところでは、魔法使いが珍しかったから……」
罪人扱いだったことは、言わないほうがいいだろうと思った。
「ふうん。僕が生まれた国は半分以上が魔法使いだったけれど、だいぶ違うんだね」
リオは、シャル先生の話だと口調が優しくなって饒舌になる。
「リオくん、シャル先生って――」
「これ、皮剥いて」
「えっ、やったことない」
「教えるから練習して」
ずっとシャル先生の話をしていれば仲良くなれるのではないか、と思ったのだが、じゃがいもとナイフを渡されてしまった。ごつごつした断面を剥くのはけっこう難しい作業で、手元が狂うと指を切ってしまいそうになるため、そこから先は黙って手を動かすしかなかった。
じゃがいものオムレツに、トマトのビネガーソースをかけたもの。昨日の残りの鶏肉と生野菜のサラダ。パンと昨夜のさくらんぼパイ。
リオの指示で動いていたら、あれよあれよという間に朝食が出来上がっていた。残念ながらリオの料理の様子は見ている余裕がなかった。でも、自分も手伝ったんだと思うと頬が上気するような達成感がある。
「お料理って、楽しいね」
「お前のはまだ料理って言える段階じゃないけどね。まあ、見どころはあるんじゃない」
「わたし、頑張る」
「その調子で昼と夜もよろしく」
リオと二人で料理を運んでいると、シャル先生とアークが裏口から入ってきた。手と顔が泥だらけになっている。さすがに畑仕事のときは長いローブは着ないようで、シンプルなシャツと吊りズボン、髪も後ろでひとつにまとめていた。
アークは止まり木に飛んでいくと、何やら満足げに翼の毛づくろいをしている。
「アークさんも一緒に畑仕事をするんですか?」
「うん。アークは虫を食べてくれるから助かるよ。私はどうもあれが苦手で」
「虫……食べるんですか」
鳥だから当たり前なんだろうけど、そういえば昨日は鶏肉を食べていた。共食いになったりしないのだろうか。アークにはまだまだ謎がありそうだ。
「リル、昨夜はいい夢が見れたかい?」
みんなで朝食を囲んでいると、シャル先生が訊ねてきた。
「はい。夢の中でいろんなことを思い出したんです。家族のこととか、好きだったものとか。すごく幸せな夢でした」
「そうか……、良かった」
「リルの家族はどんな感じだったんだ?」
「お父さんとお母さん、おじいちゃんと弟。あと、猫も飼っていたみたい」
それでね、と一呼吸おいて、みんなの顔をぐるっと見回す。
「わたしの家族、みんなに似ているんです」
「俺たちにか?」
「うん。アークさんはね、頼りがいがあってかっこいいところがお父さんに似ているの。そしてね、弟はかわいんだけどちょっと生意気なところがあって」
「待って。その流れだと絶対僕が弟だよね」
「え、ということは私はお母さんだったりする?」
リオとシャル先生にまとめてうなずくと、アークはさもおかしそうに笑い出した。
「それは光栄なこった」
「僕はすごく嫌なんだけど」
「私も、少し複雑な気持ちなのはどうしてだろう……」
夢で見た家族と、今ここにいるみんなを重ねあわせて、リルは思う。
(きっとわたし、みんなを大好きになる。ううん、もうすでに、たいせつな家族になってる)
これからどんな毎日が待っているのだろう。ぷりぷり文句を言っているリオと、それをからかうアーク、ふわふわした笑顔で二人をたしなめるシャル先生を見ていると、胸がぽかぽかあたたかくなって、自然と顔がほころんでくるのだった。