はじめてのみつあみ
脱衣所の鏡には、見たことのない女の子が映っている。亜麻色の長い髪、それに少し緑色を混ぜたような大きな瞳の、ひどく痩せた女の子。
自分の髪と瞳は、こんな色をしていたのねとリルは思う。塔には鏡なんてなかったし、あったとしても、煤けて汚れた髪と顔が映るだけだっただろう。
シャル先生が持ってきてくれた着替えは、生成りの長袖ワンピースだった。シャル先生が着ていたローブに似ているゆったりしたデザインで、裾と胸元に細かい刺繍が入っている。
ワンピースを着た姿を鏡に映すと、骨っぽい脚と腕が隠れて、シャル先生やリオと同じ綺麗な姿になれた気がした。
置いてあった編み上げのブーツを履いて脱衣所から出ると、大きなテーブルのある一番広い部屋にみんなが集まっていた。暖炉やアーク用と思われる止まり木もあるし、ここが居間というものなんだろう。
「あの、お風呂、出ました」
「ああ、おかえ――」
リルを見た二人と一羽は、いっせいに言葉を失っていた。あまりに驚かれたので、今度は服の着方でも間違っていたのだろうか、と焦る。
「あの、わたし、やっぱり何か変ですか?」
「――いや、驚いた。お嬢ちゃん、なかなかべっぴんさんだったんだな」
「まあ、さっきの姿を見ているから、そう思うだけかもしれないけど!」
アークは感心したように褒めてくれた。リオも……たぶん。良かった、これで綺麗になれたんだ、とほっとするが、シャル先生はいまだリルの姿を見つめながらぼうっとしている。
「あ、ありがとう。……シャル先生?」
「ああ、ごめんごめん。つい見惚れてしまって。うん、私もリルは可愛いと思うよ」
自分のまわりの温度が、ほわっと上がった気がした。可愛い。はじめての言葉。どうしてこの短い言葉が、こんなにも心を浮き立たせるんだろう。このピンク色に蒸気した空気は、魔法使いのシャル先生にも見えているのだろうか。できることなら、誰にも見えていないといいと思った。理由は自分でもよく分からないけれど。
「その着替えも、私のローブを魔法で縮めたものなのだけど、サイズはちょうど良さそうだね。ごめんね、こんなお古しかなくて。ブーツは、リオの予備に買っておいたものだから、新品だよ」
「そうなんだ。ありがとう、シャル先生、リオくん」
「べつに、それくらい良いし……。ていうか、裸足の奴に靴もあげなかったら、僕が相当嫌な奴に見えるじゃん」
「リオは、その素直じゃない性格治るといいな。せっかく歳の近い女の子が入ったんだから」
「うるさいなあ、アークは」
この服は、シャル先生のお古だったのか。誰かのものを身に付けるって、こんなに安心することだったんだ、と思う。なんだかシャル先生につつまれている気がする。さっきから感じていた陽だまりのようなやさしい匂いは、きっとシャル先生の――。
「マシになったのはいいけどさ、その長ったらしい髪はどうにかならないわけ? いっそのこと切っちゃうっていうのは――」
「切るのは、ダメ!」
リオが髪に触れた手を、振り払ってしまった。ぎゅっ、と両手で髪の束を握りしめる。濡れたままの髪の毛から、ぽたぽたと滴が落ちた。
「な、なんだよ。僕だってそんなに無理やり切ったりしないよ。気分悪いな」
「ごめんなさい」
髪を切ると、魔力が暴走して大変なことになる、だから切ってはダメだ、と言いつけられていた。リオが切っていいと言うのだから、それはきっと本当のことではないのだろう。でも、もし何か起きたらと思うとやっぱり怖い。この三人に迷惑はかけたくなかった。
「切るのが嫌なら、結えばいいんじゃないかな。ほら、みつあみだったら邪魔にもならないし」
「そういえば、シャル先生はなんでそんなに伸ばしているんだ?」
「髪を切るのが面倒っていうのと、願掛けかな。あとほら、冬はあったかいしね。リオ、私の髪も切ったほうがいいのかい?」
「シャル先生は、それでいい」
リオは頬杖をついて憮然としていた。
「あの。みつあみ……って、どうやるんですか?」
尋ねると、案の定リオに呆れた顔をされた。
「ああ、そうか。私はあまり詳しくないから、リオ、やってあげてくれないかな」
「僕が!?」
「そうだよ。リルにひどいことをたくさん言ったんだから、それくらいしてあげてもいいんじゃないかな」
「……っ、分かったよ! ブラシと結うもの持ってくるから、お前はそこに座ってて!」
言われた通り、余っている椅子に腰かける。
「リル、今のうちに髪を乾かしてあげるよ。そのままにしておくと風邪をひいてしまうからね」
シャル先生が後ろからリルの髪にふわりと触れると、あたたかい風に吹かれたように頭周辺の温度が上がった。
「はい、おしまい」
余韻を残したままシャル先生の手が離れる。髪の毛に触れてみると、すっかり乾いてぽかぽかになっていた。
「今の、魔法……?」
夢を見ているような気持ちでシャル先生を見つめていると、リオがばたばたと戻ってきた。
「リボン、シャル先生の店のやつから勝手に取っちゃったけど、いい?」
「うん、いいよ。どれにしたの?」
「よく分からないから、いろいろ持ってきた」
リオが持ってきた箱をテーブルに置く。中には色とりどりの長い紐が入っていた。これが、リボン。
「リルに選んでもらったらいいんじゃないかな。リル、どれがいい?」
どれがいいと言われても、リボンのことなんて何も分からない。ひとつひとつ手に取ってみるけれど、すべすべしたものもあれば光沢のないものもある。迷っていると、シャル先生が助け舟を出してくれた。
「自分の好みで選べばいいんだよ。好きな色とか、雰囲気とか」
考えて、ひとつのリボンを手に取る。自分に似合うものはまだ分からない。でも、この色なら。
「翡翠色か。いいね、リルの亜麻色の髪にも映えそうだ」
シャル先生の瞳の色。アークの背中から見た、光に照らされた森の色。この色は自然と好きだと思えた。
「じゃあ、それで。髪触るから、じっとしててよ」
リオが椅子ごと後ろにまわり、リルの髪の毛を梳かし始める。
「どれだけ櫛入れてなかったの、この髪。洗ってマシにはなったけど、梳かすのにだいぶ時間かかりそうなんだけどっ」
「えーと、たぶん十年くらい」
「……それ、冗談だよね?」
文句を言いつつも、リオは手を動かしてくれている。力まかせだったブラシの動きがだんだんと優しくなり、髪の抵抗もなくなっていく。ためしに頭を揺らしてみると、さらさらとした感触が頬をなでるのが分かった。
「動くなって言ったじゃん。これから編んでいくから、ほんとにじっとしててよ。ふたつに分けるのは面倒だから、みつあみ一本でいいよね?」
リオの指が頭のうしろで複雑な動きをしているのが分かる。見たくてうずうずするけれど、言われたとおりじっとしているしかない。
「へえ、器用なもんだな」
「すごいね。私も今度やってもらおうかな」
「よく、妹の髪でやってたから慣れてるだけ。……あとは、リボンを結んでっと」
はい、できたよ、とリオが席を立つ。背中に垂れている髪を前に持ってくると、縄のように編まれていた。毛先にリボンが結ばれていて、翡翠色の蝶みたいだ。
立ち上がって、頭を振ったりくるくる回ったりしてみると、しっぽのようにみつあみがついてくる。とても動きやすい。
「うん、可愛いね。よく似合ってる」
「落ち着けよ、犬じゃないんだから」
リオの手を取ると、びくっと怯えたように見つめ返される。リルよりもひとまわりだけ大きな、華奢な手だった。
「リオくん、ありがとう」
「……うん」
今、少しだけ、リオの周りの空気がやわらかくなった気がする。
「そのリボン、まだ魔力を込めていないんだ。せっかくだから」
シャル先生がリルのみつあみを手に取り、リボンにふうっと息を吹きかける。一瞬、リボンがぼやっと発光したように感じたけれど、すぐにおさまってしまった。
「……シャル先生、なんの魔法を込めたの? 僕、見ててもよく分からなかったんだけど」
「う~ん、まだ内緒かな」
シャル先生があいまいに微笑んで受け流すと、リオは不満そうな視線をこちらに投げてきた。
「じゃあ、陽も沈んできたことだし、早めの夕飯にしてしまおうか。リルもお腹がすいてると思うし」
シャル先生が見えない糸を手繰るように手を動かすと、キッチンの方角からフォークやナイフ、料理の乗ったお皿がふよふよ飛んできた。どうやって動かしているんだろうと見つめていると、食器たちはお行儀よくテーブルの上におさまっていく。
夕飯というと、お椀に半分くらいのスープ、硬めのパンひとつ、を想像していたのだが、テーブルの上にはありえないくらいたくさんのお皿が載っていた。
ポタージュ、肉料理のようなもの、果物のパイ。パンも籠にどっさり。瓶に入った見慣れない色の飲み物もある。
「これは、一週間ぶんですか?」
「リル。これは三人と一羽ぶんの夕食だから、遠慮なく食べていいんだよ。特に君は育ちざかりなんだから」
見慣れない色の飲み物は、ワインというらしい。大人が飲むものだからリルはこっち、と果物のジュースを注いでもらう。
「今日はほとんど僕が作ったんだから、ありがたく全部食べなよ」
「リオくんが? すごい」
「私は料理がすこぶる苦手でね。いつも手伝うだけで申し訳ない」
シャル先生がふにゃっとした笑顔で頭をかく。
「お前がちょっとは料理できるやつだと、僕も助かるんだけどね」
「うん。覚える」
「じゃあ、いただこうか」
リオはリルを料理の弟子と見なしたのか、これはじゃがいものポタージュ、こっちはチキンをソテーしてオレンジのソースをかけたもの、と食べながら逐一説明してくれる。アークは脚で器用に押さえながら、骨付き肉をついばんでいた。
全部味見したかったのに、すぐにお腹がいっぱいになってしまう。
「もう、食べないの? シャル先生が今日は豪勢にしろっていうから無駄に食材使ったのに」
「リルはまだこの量の食事に慣れていないんだから仕方ないよ」
「……わたし、もっと食べる」
「別に無理して欲しくて言ったわけじゃないから。余ったぶんは朝食に食べればいいだろ」
「……じゃあ、そうする」
お腹がくるしくて、返事をするのも億劫だった。こんなにたくさん食べたことがなかったから、身体が重くて自分のものじゃないみたいだ。それに、なんだかとても眠くなってきた。
「リル、もしかして眠いのかな?」
うとうとしながら目をこすっていたら、シャル先生に気付かれてしまった。
「お腹いっぱいになったら眠くなるって……赤ん坊じゃないんだから」
「リルは今日いろいろあって疲れているんだし、仕方ないよ。お風呂も入ったし、今日はもうこのまま寝てしまうといい。寝室に案内するから」
「片付け手伝わせようと思ったけど、仕方ないな。明日からはこき使ってやるからな」
「じゃあ、俺も今日はリルの部屋で寝よう」
「そうしてくれると助かる、アーク」
手も足も思うようにならなくて、椅子から降りるときに転びそうになってしまった。シャル先生の腕が支えてくれる。
「シャル先生、これはもう運んでやったほうがいいんじゃないか?」
「そうだね。リル、抱えても嫌じゃない?」
「……はい」
じゃあ失礼するよ、という言葉とともに、リルの身体がふわりと持ち上がった。いきなり目線が上がったからびっくりしたけれど、シャル先生の腕と胸で支えられているから安心感がある。あたたかくて、このまま眠ってしまいそう。
シャル先生が歩くたびに、揺りかごみたいに腕が優しく揺れる。リルがもらったワンピースと同じ匂いがして、シャル先生の胸元に鼻先をこすりつける。とても落ち着く匂いだと思った。
「リル、部屋についたからベッドに降ろしちゃっていいかな。ブーツも脱がすよ」
頷くと、そっと身体が降ろされ、ふかふかのベッドに沈み込んだ。今まで硬いベッドで寝ていたから、全身を包み込む夢のような感触に、目を開いていることができなかった。
「なあシャル先生。リルは長いこと幽閉されていたって言っても、六歳くらいまでは親元にいたんだろ? 風呂の入り方だの、髪の結い方だの、忘れていることが多すぎないか?」
「そうだね、それは私も思っていた。たぶん薬か何かを飲まされたんだろうね。記憶をあいまいにして、感情も殺して……。そういうことだと思う」
「飼い慣らしやすくしたってことか。でも、リルは感情が死んでいるようには思えないぞ。言葉や表情が幼すぎるところはあるが」
「ああ、それはきっと――。リルがもう眠りに落ちそうだから、話は明日にしようか」
シャル先生が毛布をかけ直してくれる気配がする。その手を掴んでそばにいて欲しい気持ちになったけれど、まぶたは少しも開いてくれなかった。
「おやすみ、リル。君が幸せな記憶を少しでも思い出せるように。祝福を」
おでこに、シャル先生の指先が触れた――気がした。その余韻に浸る暇もなく、シャル先生の衣擦れの音を聴きながら、リルは深い眠りに落ちていった。