はじめての泣き場所
リオの部屋の扉が閉じる音がすると、二人残された居間は急にしん、としてしまった。自分が鼻をすする音だけがやけに響いて、泣いてしまったことが恥ずかしくなる。
「……リル。泣かせてしまってごめんね」
「シャル先生の、せいじゃないです……っ」
自分のほうがよっぽどつらそうな顔をしているのに、いつだってリルのことを気遣ってくれるシャル先生。助けられたことよりも、助けられなかったことばかり気にして苦しむシャル先生。本人にその記憶はないのに、まるでみんなのぶんを丸ごと請け負って苦しんでいるみたいだ。
「わたしが、過去の世界で死んだのも、シャル先生のせいなんかじゃないですっ。シャル先生は、助けてくれたのに……。何度も、いつだって、わたしのことを助けてくれたのに……。自分のせいだなんて、ごめんだなんて、言わないで……っ」
リルだって、リオだって、アークだって、オーガスト先生だって、シャル先生に伝えたい想いはふたつしかない。ずっと一人で苦しませてごめんね、と、もうひとつ。
「わたしが言いたいのは、ずっと、ありがとうの言葉だけなのに……!」
助けてくれてありがとう。何年も一人で戦ってくれて、自分たちの死をなかったものにしないでくれて、ありがとう。
シャル先生は、はっとしたように息をのむと、顔をゆがませた。
「ごめん」
ひとりごとのようにつぶやくのと、リルを引き寄せたのは同時だった。目の前に、シャル先生の繊細そうな鎖骨がある。頭を、肩を、抱え込まれていて動けない。
「シャルせんせ……」
抱きしめられている。森で倒れたときよりも、戴帽式のときよりも、強い力で。
「ごめん、今は顔を見ないで。もう少しだけこうさせて」
シャル先生の声には、涙がにじんでいたような気がした。リルの涙も、シャル先生は首すじに感じているのだろうか。やっと泣き場所になれたことが嬉しくて、余計に涙が出てきた。
「ごめんね、リル。……ありがとう」
シャル先生の家に来てからずっと、自分はどうして魔法使いなのだろうと考えてきた。シャル先生が言っていた、魔法使いとしてすべきことは何だろうって。それがやっと今、分かったような気がする。
(きっと、シャル先生を救うために魔法使いになった。――そう思っても、いいですか)
*
シャル先生が真っ赤な顔でリルを離してくれたあと、ぎくしゃくしながらお茶を淹れて、ぎくしゃくしながら二人でソファに座った。
もうお茶は飲んでしまったのに、シャル先生はカップを持ったまま硬直して動かない。
「あの、シャル先生。よかったらもう一杯、お茶を飲みますか?」
「あ、ああ、うん。大丈夫。ごめんね、ぼうっとしていて」
「いえ……」
「というか、情けないところを見せちゃってごめん」
「そんなことないです」
シャル先生のカップを受け取ってサイドテーブルに置く。やっと反応が普通になったシャル先生を見つめると、まだ耳が赤かった。シャル先生は大人だから、人前で泣くことは恥ずかしいのかもしれない。
「シャル先生……。あの、聞いてもいいですか?」
「うん、大丈夫だよ」
「わたしのいた国のこと……。シャル先生はこれから、どうするつもりなんですか?」
シャル先生は額の前で手を組むと、沈黙した。たっぷり悩んでからシャル先生が顔をあげる。まだ何かに迷っているような表情で、気遣うような口調で、話し始めた。
「――リル。もし君に少しでも、あの国のことを恨む気持ちがあったら、私は何もしない。家族を心配に思う気持ちがあるのなら、どうにかして止める。こんなことをリルに決めさせるなんておかしいと思うかもしれないけれど」
シャル先生が判断をリルに委ねてくれたのは責任を取りたくないからじゃなくて、リルを傷つけたくないからだということを、わかっている。
「シャル先生、わたし、ずっと思っていたんです。塔にいたときから」
だからこそリルは、シャル先生がいちばん傷つかない選択を選びたかった。シャル先生が何に傷ついて何に喜ぶのかも、もう知っている。
「みんなはあの国の人たちを、悪い人だと思うかもしれない。でも、わたしが聞いてきた街の人たちの会話は、あったかくて、やさしくて、わたしたちと何も変わらなかったんです」
「……うん」
人のしあわせに喜んで、誰か泣いているときには一緒に悲しんで。そうやって、一日一日を積み重ねて生きていた。家族のたいせつさも、世界がやさしくて綺麗なことも、ちゃんと知っている人たち。
「だから――。あの国の人たちは魔法使いを憎んでいるのではなくて、こわいだけなんだって思っていました。わからないものだからこわい。自分とは違うものだからこわい。子どもの頃、大きな動物がこわかったのと同じ気持ちなんだって」
自分より大きくて強そうなものは、こわい。言葉が通じないと思っていたら、もっとこわい。
「さっき過去を見たとき、そうじゃないのかもって一瞬だけ思ってしまったんです。やっぱり魔法使いのことを憎んでいて、どうしても消したいのかもしれないって。でも……シャル先生のことを攻撃した兵士の人たちは、みんな、怯えていたんです。シャル先生に向かっていきながらも、本当はこんなことしたくない、死にたくないって、こわがっていた……」
リオくんが聞いたら、「馬鹿じゃないの」って怒るかもしれない。アークは呆れて、オーガスト先生は反対するかもしれない。でもきっと、シャル先生なら。
「わたし、あの国の人たちは魔法使いを知らないだけだと思うんです。こわいものじゃない、悪いものじゃないって知ってくれたらきっと、変わってくれるんじゃないかと思うんです。そのためにできることが、わたしにもあると思うんです」
「リル……」
シャル先生は、「そう言うんじゃないかと思ってた」とつぶやいた。なのに、つらそうな顔をしているのはどうしてだろう。
「私がね、あの国を助けたいと思う気持ちは本当だよ。でも、それ以上に大きくなっている気持ちがある」
身体を横に向けたシャル先生と、視線が絡まる。
「リルを失いたくないんだ」
まっすぐな眼差しは、あのときと同じ色をしている。リルが動かなくなったとき――その出来事をもう一度直視しなければいけなかったシャル先生は、同じ瞳でリルを見ていた。
「リルがこの家に来てから、どんどん成長していくのを、まぶしい気持ちで見ていた。自分が救った命が、はじめてのいろんなことを知っていく。リルがそのたびに素直に喜んでくれるのが嬉しくて――。いつの間にか、リルの成長が私にとっての生きる希望になっていた」
どきどきと、心臓が音を立てる。苦しいくらいの熱が、身体の内側から湧き上がってくる。
「戴帽式のとき、リルは助けてくれてありがとう、と言ってくれたね。あのとき、自分のしてきたことは間違ってないんだ、とやっと思えた。救った命に、救われたような気持ちになった」
シャル先生は、リルのみつあみを手に取った。髪に触れられたのは、はじめてだっただろうか。キスするように顔に近付けてから、手を離す。髪に感触が伝わるわけないのに、自分がキスされたみたいに胸がきゅうっと締めつけられた。
「過去をやり直せるとしても、リルが死ぬところは、もう見たくない――。こわいんだよ、何回も繰り返してきたくせにね」
これ以上の言葉はないと思った。好きだという気持ちを一生言えなくても、好きな人からこんな言葉をもらえただけで充分だと。きっと今、世界で一番幸せなのは自分だと思えた。
「大丈夫です。わたしは絶対に、死にません」
絶対に、シャル先生をひとりにしないと決めたのだから。シャル先生を救いたいと、決めたのだから。
「やりたいことがあるんです。そのために、みんなの力を借りたいんです」
「リル、君はいったい、何を――」
シャル先生の言葉を遮って、問いかける。
「先生、あの国の人がどうして魔法使いを罪人扱いしているのか、言ったことがありますよね」
「悪魔に魂を売ったと思っているから、だよね」
どこから生まれた説なのかもわからない。なのに国の人みんなが信じているのは、今まで証明する人がいなかったから。
「そうです。だったら、悪魔よりすごいものになって、信じさせればいいんです。魔法使いは罪人じゃないよって」
「――まさか」
目をみはるシャル先生に向かって、リルはにっこり微笑んだ。
「神さまになるんです」