はじめての慟哭
過去のシャル先生、いや、未来のシャル先生と言ったほうがいいのだろうか。とにかく、記憶の世界でのシャル先生は、手紙をもらってすぐにリルの育った国に向かった。行ったことのない場所に転移魔法は使えないので、アークの背中に乗って。
「だから、アークさんがわたしを迎えに来たときは、転移魔法の魔法陣が使えたんですね」
「そうだね。このとき海を渡るのが大変すぎて、アークがずっと文句を言っていたから……。転移魔法が使えることに対してアークは何も言ってこなかったけれど、もしかしたらそのときすでに、気付いていたのかもしれないね」
シャル先生の視点は、リルが幽閉されていた塔の前へと移り変わる。
「塔のまわりに、兵士がたくさん……」
リルの記憶ではいつも数人しかいなかった見張りの兵士が、至るところにうろうろしていた。
「この国も、魔法使いたちに攻め込まれることを予想して、警戒していたんだろうね。この人数を相手にして犠牲を出さないのは無理だと判断して、私は姿を消す魔法を使うことにした」
「そんな魔法があったんですね」
「悪用されやすい魔法だから、禁止されているし、教科書にも載っていないんだ。国の中で使ったら捕まってしまうしね。でもこのときはほら……緊急時だったから」
いたずらを親に見つかった子どもみたいに、先生はあわてて言い訳をしている。
「このことは、オーガスト先生には内緒にしていてね。こういうことには厳しいから……」
「はい」
シャル先生の記憶の世界だからか、シャル先生が姿を消してもリルたちには見ることができた。アークは外に残して、シャル先生は塔を上ってゆく。がっちり施錠された扉を魔法で開けると、そこにはがりがりに痩せてみずぼらしい服に身を包んだ少女がいた。まだ名前もなかった頃の自分。
(わたし、こんなにひどい姿をしていたんだ……)
記憶の世界でのリルは、突然入ってきた見知らぬ人物に警戒することもなく、きょとんとした顔でシャル先生を見つめている。
「あなたは、だあれ?」
「シャルルだよ。君と同じ魔法使いだ」
「まほう……つかい」
「ここはもうすぐ戦場になる。その前に、君を助けに来たんだ。私と一緒に来てくれるかい?」
「……でも。そんなことをしたら、この国の人が困る」
アークが迎えに来たときと同じ台詞を、リルは言った。記憶の中のシャル先生は、一瞬悲しげな顔をしたあと、リルを安心させるように笑った。
「大丈夫。誰も困らないようにするから。――急がないと」
「うん。わかった」
記憶の中のシャル先生が伸ばした手を、リルがためらいがちに取る。そのとき。
「侵入者だっ! お前、あの国の者だな!」
兵士たちが、部屋の中になだれ込んできた。
「君は、私のうしろに隠れていて」
剣を向けて突進してくる兵士を、シャル先生は魔法で次々に気絶させていった。シャル先生の背中に隠れたリルは、びくびくしながらその様子を覗いている。
やがて兵士たちは全員、床につっぷしたまま動かなくなったが、現在のリルにはそのうちの一人の目がぎらりと光るのが分かった。
(この人、気絶したふりをしてる……!)
触れられないと分かっているのに、待って、やめて、と手を伸ばしてしまった。兵士はシャル先生がリルに話しかけた隙を狙って、ふたりの間に飛び出した。
「あぶない!」
一瞬、自分が発した言葉だと思ってしまったが、それは記憶の中のリルの声だった。
記憶の中のリルは、シャル先生をかばって兵士の前に進み出る。シャル先生が咄嗟に魔法を使ってくれたことで剣先は逸れたが、血のかわりにリルの髪の毛がばさばさと落ちる。
伸ばしっぱなしになっていた乱れた髪が、片側だけ短くなっている。呆然としたまま立ち尽くすリルを、現在のリルもまた息をのんで見つめていた。
「あ、あ……。髪の毛、が……」
がくがくと、記憶の中のリルが震え始める。髪の毛を切ると、魔力が暴走して大変なことになる。その言いつけをリルはずっと本気で信じていた。今でも、髪の毛を切れないくらいに。
「……君? どうし……」
「切ったらだめだって、言われていたのに……!」
記憶の中のシャル先生がリルの肩を抱いた瞬間、リルのマナが暴走した。翡翠色の閃光が、爆風が、小さな部屋の中を埋め尽くす。弾かれそうになって姿勢を崩したシャル先生は、結界を張って耐えていた。
衝撃で、足元がぐらぐら揺れる。天井から石がばらばらと落ちてきて、塔が崩れそうになっていることが分かった。
「くっ……」
記憶の中のシャル先生は、リルを抱きかかえて移動魔法を使った。ふたりの姿は塔の外に飛ぶ。
「君、大丈夫!?」
シャル先生はリルの身体を揺らすけれど、その目に光は宿ってなかった。その意味に気付いたシャル先生は、唇を震わせた。
「……嘘、だ……」
虚空を見ているような、瞳。上下しない胸と、ぴくりとも動かない手足。
(――ああ。わたし、死んだんだ――)
やっぱり、と思う。予想していたことなのに、体温が下がって目の前が暗くなった。
「また、人を、死なせてしまった。……私を、この子が、かばったせいで。……私のせいで……?」
ちがう、シャル先生のせいじゃない、と言いたいのに、記憶の中のシャル先生には届かない。かわりに口から出ていたのは、疑問の言葉だった。
「シャル先生……。髪の毛を切るとマナが暴走する、というのは、迷信だったんじゃないんですか……?」
最初にリオに会ったとき、髪の毛を切れと言われたし、今までリルが読んだ本にもそのようなことは書いていなかった。
「……そうだね。髪の毛に魔力が宿る、というのは本当だけど、切るとマナが暴走するということはないはずなんだ」
「じゃあ、どうして……」
「このときのリルは、髪の毛を切るとマナが暴走して大変なことが起こる、と信じていた。実際に髪の毛を切られてパニックになったことから、リルはマナを暴走させてしまったんだ。そしてそのまま、すべてのマナを放出してしまって……」
「……それって。わたしの、思い込みで……」
今でも、髪の毛を切ることが怖いのは、このときの記憶がどこかで残っているからなのかもしれないと思った。
「やり直そう……。今度こそ、この子を、助けないといけない……」
記憶の中のシャル先生が、震える手で時計のネジを回す。つないだシャル先生の手も、小刻みに震えていた。
「――ごめんね、リル。このとき君を死なせてしまったのは、私のせいだ」
「シャル先生のせいじゃ」
言葉は、最後まで紡げなかった。景色が歪むのと同時に、リルたちの姿も輪郭が薄れてきたからだ。
「――私の記憶の世界は、ここまでみたいだね」
シャル先生の声も、透明になってかき消されていく。守れなくてごめん、と唇が動いた気がした。
来たときと同じように、意識が遠くなっていく。ひとすじの光もない暗闇の中で、シャル先生の嗚咽する声を聴いたような気がした。必死で、シャル先生のぬくもりを探す。小さく畳まれた震える身体を、包むように抱きしめる。
(どこにもいかないよ。わたしはここにいるよ。もう、あなたを残していなくなったりしないよ)
声が出ていたのかどうか、分からない。シャル先生に聞こえていたのかどうかも、分からない。ただ、もとの世界で目を覚ますときは、シャル先生の震えが治まっていますようにと、それだけを願って、リルは目を閉じた。