はじめての痛み
「ていうかお前、その恰好ひどいよ。服はボロボロだし、顔は汚れているし、髪も絡まりまくってるじゃん。靴も履いてないし。アーク、どんなところ飛んできたのさ」
リルの姿をまじまじと見て、リオが顔をゆがめる。
「ああいや、これは……」
「アーク……さんのせいじゃなくて、ずっとこうだったの。わたし、何か変なのかな、リオくん」
アークが困ったような声を出したので、リルが引き継ぐ。一年中、同じ長袖のワンピースを着ていた。破れて着られなくなるか、サイズが小さくなるまで新しいものはもらえなかったし、髪は切ってはいけないと言われていた。そういえば、シャル先生もリオも、とても綺麗な服を着ている。髪の毛はさらさらだし、手のひらも黒くない。
自分はそんなにひどい恰好をしているのだろうか。長い髪の毛を自分の前に持ってきてみるけれど、よく分からない。
「変っていうか……」
リオの視線が、先ほどまでの攻撃的なものではなくなっていた。困ったような、ちょっと悲しそうにも見える――それを形容する言葉を、リルはまだ持っていなかった。
「リオ、言いたいことがあるんじゃないのかな」
シャル先生がリオの頭にぽん、と手をおいた。
「……ごめん、なんか、ひどいこと言ったかも」
ううん、と首をふったけれど、実際リルにはよく分かっていなかった。自分は今、傷つくべきだったのだろうか。内容がどんなものであろうと、だれかと会話ができるのが嬉しくて、感情が追い付いていなかった。
「というか、なんで僕のことはリオくんで、アークはさん付けなのさ!」
「妥当だと思うぞ。お前は年下だし、俺はたぶんシャル先生より長く生きている」
「あの、リオちゃんのほうが良かったかな?」
「……っ、いいよもう、リオくんで!」
リオは半ば投げやりな口調で言うと、盛大なため息をついた。
「そうだ、ちょうどいいからリルはお風呂に入ってきたらどうだい? これから夕方になると冷えるし、着替えは用意しておくから」
「そうだな、それがいいかもしれないな。でもまだ準備に時間がかかるんじゃないか?」
「大丈夫、お湯は沸かしておいたから。アーク、案内してあげて。リオは私と夕飯の準備をしよう」
「はぁい」
「了解した」
*
アークに先導してもらいながら、家の中を進む。部屋がたくさんあって、外から見たときよりも広く感じる。
「アークさん。シャル先生は本当に、わたしのことを知らないのかな」
「ああ。あの国には行ったことはないはずだ。俺も、どうやら魔法使いが幽閉されている国があるらしいから、助け出してスカウトしてくれ、って頼まれただけだからな」
「そうなんだ。わたしはここで何をすればいいのかな」
「まあ、それはおいおいシャル先生が教えてくれると思うぜ。あと、リオのことな。あいつ、シャル先生を他のやつに取られるのが嫌で、すねてるんだ。ちょっと当たりは強いかもしれないけど、悪い奴じゃない。嫌わないでやってくれるか?」
「うん、大丈夫。リオくん、悪い人じゃないのは分かる」
「そうか、良かった。とりあえず今は風呂を楽しみな。だいぶ冷えただろ?」
「うん。ありがとう」
ここが風呂場だ、と言ってアークは飛んで行ってしまった。少しドキドキしながら扉を開けると、脱衣所らしき部屋があった。とりあえず、服は脱いでいいのだろう。ここがお風呂場かな、と中にある扉を開けると、あたたかな湯気がふわっと広がった。
お風呂場は、リルが想像したいたものとは違っていた。お湯がたっぷり入った、大きな桶のようなもの。なにか液状のものが詰まっている瓶がたくさん。いい匂いがする宝石みたいな、たぶん石鹸。
今まで入浴というと、蒸しタオルで身体を拭くか、たまに持ってきてもらえるお湯と桶を使って髪を洗うくらいだった。
どうしよう。どうやって使うものなのか、分からない。シャル先生が脱衣所に着替えを置きに来た音がするので、お風呂場からつながっている扉を開けた。
「あの、シャル先生」
「……ん? うわあっ」
シャル先生はリルの姿を見ると、慌てふためいて両手で顔をおおった。耳まで真っ赤になっている。
「リル、服っ、服を着て!」
「えっ、だって、お風呂に入るのに?」
「そうだけど、そうなんだけどっ!」
なぜシャル先生はこんなに慌てているのだろう。何か自分が恥ずかしいことをしたのかもしれない。けれど今リルには他に大事なことがあった。
「あの、お風呂の使い方が分からないんです」
「えっ、そうなの?」
「一緒に入って、教えてくれませんか」
「リ、リル、何を言っているの? それは無理だよ。君は若い女の子で、私は男なんだから」
そうか、ふつうはお風呂は一人で入るものなのか、と納得する。これだけ広いのだから、みんなで入れそうなものなのに。
「でも、どうすれば」
「アーク……は手先があまり器用じゃないし、リオ……には余計頼めないし」
シャル先生は顔を赤くしたまま後ろを向いて考えこんでいた。
「……分かった。こうしよう」
*
「シャル先生、それじゃ何も見えないんじゃ」
「見えなくていいんだよ。物の位置はだいたい把握しているし、魔力がかかったものは気配で分かるから大丈夫」
シャル先生は服を着たまま布で目を覆っていた。
「まず、髪と身体を洗おうか。小さい椅子があると思うからそれに座って」
シャル先生はルビーのような透き通った石鹸を手に取ると、スポンジで泡立て始めた。あっという間に、もこもこのいい匂いの泡が立つ。
「はい。このスポンジで身体を洗うんだよ。使い方は大丈夫?」
「はい。髪もですか?」
「髪はええと、この瓶に入っている液状の石鹸を使うんだけど……。髪の洗い方って、分かる?」
「いいえ。お湯ですすいだことしかないです」
「……仕方ない。今日は私が髪を洗うから、次からは覚えてね」
見えていないはずなのに、シャル先生は液体石鹸を器用に手のひらに出すと、軽く泡立ててからリルの髪になじませた。
わしゃわしゃ、とシャル先生の指が頭皮をなでる。気持ち良さとあたたかさで眠ってしまいそうだった。
「こうやって髪を動かして、泡立てるんだよ。目に入るとしみるから気を付けて」
身体と髪を洗い終えると、手桶でお湯をすくって泡を流す。大きな桶は、バスタブと言うらしい。
「あとは、バスタブに好きなだけ浸かるといいよ。リルは、花の匂いは好き?」
「はい、甘い香りの花が好きです」
「じゃあ、これ」
シャル先生は小さい瓶の中から一本を選び取ると、とろりとした液体をお湯の中に入れた。
「私が調合した、バスオイルだよ。あったまるし、魔法でいろんな効果を足してあるから、明日からも使い比べてみて。じゃあ、私は出るから、リルはゆっくりするんだよ」
シャル先生のローブの裾が、びっしょり濡れていた。袖も泡だらけである。つまずきそうになりながら去っていくシャル先生を見送りながら、リルは不思議な気持ちになっていた。
ここに来てから自分はまだ何もしていないのに、シャル先生は優しい。名前をくれて、知らないことは教えてくれる。それは特別なことじゃなくて、当たり前に受けていい優しさなんだよ、って顔をして。
顎先までとっぷりお湯に浸かると、リルが好きだと言った甘い花の香りがした。
(なんだか、胸がぎゅうっとつかまれたみたい)
痛いのか、苦しいのか、よく分からない。でもそれは不快な痛みではなくて、ずっと味わっていたい不思議な甘い痛みだ――とリルは思った。