はじめての希望
「……リル」
ふらついたリルを、シャル先生が気遣わしげな瞳で支えてくれる。
「大丈夫です……。さっきのは、実際にあった魔法戦争ですか……?」
次の過去は、足元も見えないくらい薄暗い、小さな部屋だった。ランプの光だけがぼうっと机の周囲を照らしている。羊皮紙や、小さな部品が床に積み重なっているのが見える。
「……そうだよ。私が食い止められなかった過去だ。ふたつの国の魔法軍が対峙して、膨大な量の魔法が同時に使われた。過去に前例がないくらいの規模のね。そうすると、どうなったと思う?」
さっきの光景を見れば、想像するのは容易かった。でも口に出すことができず、リルは黙って首を振った。
「マナが一度に使われた結果、世界の均衡が崩れ、世界そのものの自衛本能が働いたんだろうね。ありとあらゆるマナが暴走し、戦場になった両国とも壊滅状態になった。魔力の強い者だけ、とっさに結界を張ったことで助かったけれど、民間人はほとんど犠牲になってしまった……。国はもう、国家として機能できる状態ではなくなっていたよ」
絞り出すような声で話すシャル先生に、「つらいなら、もう話さないでいいですよ」とは言えなかった。それが懺悔に聞こえたから。
「これだけの数の魔法使いがいたのに、これだけの魔法を一度に使ったらどうなるか、誰も気付けなかったんだ。私たちはみんな、驕っていたんだよ。魔法も、マナも、人間が生み出したものじゃない。もともと世界に存在したものを、私たちが使わせてもらっているだけ。人の命を奪うことも、無理やり生かすことも、世界の理に背く行為だったんだ。それが分からなかった私たちは、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。たくさんの人の命という代償を払って」
シャル先生たちを、死んだ人たちを罰したのは誰なのだろう。誰が誰に、代償を払ったのだろう。それがたとえ「世界」でも「マナ」でも、シャル先生には納得できないことだったのだと思う。
「私はそのあと、学生時代から構想していた時間を戻す時計の発明に没頭した。どれだけの年月がかかったのかは覚えていない。誰とも会わなかったし、外がどうなっているのかも分からなかった。ただ執念だけで動いていたと思う」
視線の先では、ぼろぼろになったシャル先生が机に向かっていた。髭は伸び放題になっているし、いつから洗っていないのか分からない髪の毛は鳥の巣のように絡まっていた。目のまわりは落ちくぼみ、くまで真っ黒になっている。この状態のシャル先生を見て、本人だと気付く人はきっといないだろう。
顔も、身体も、痩せ細って枝のようになっているのに、目だけがぎらぎらと輝いている。どこにこんなエネルギーがあるのだと思うほど、すさまじい集中力で発明を進めていた。
「……できた」
机に向かっていたシャル先生が、顔をあげる。執念しか見えなかった瞳に、希望の光が宿っていた。
「これで、やっと、戻れる。みんなを、救える。過去を、運命を、変えられるんだ……」
過去のシャル先生の手には、今リルたちの手にあるものと同じ時計があった。
「やり直すんだ。もう一度。……何度でも」
過去のシャル先生が、時計のネジを回す。リルたちの視界も歪んで、世界が変わった。魔法戦争が起きる前の時間へと。
シャル先生は時計を使う。失敗するたびに、何度も何度も。瞬きするように過去の世界が移り変わる。
話し合いに失敗して、殺されそうになった過去もあった。話し合いは成功したのに、裏切られて攻め込まれた運命もあった。大事なものがひとつずつ失われているように思えるのに、シャル先生には変えられなかった過去ばかりが詰め込まれていく。リルのたいせつな人の心を犠牲にして、世界は何度も何度も繰り返す。
どれだけ孤独だっただろう。何度絶望して、何度立ち上がったのだろう。たった一人の、ただ一人の魔法使いが世界の運命を変えたことを誰も知らない。今ここにいるリル以外は、誰も知らないのだ。
(わたしが、ぜんぶ覚えている。シャル先生だけの過去になんて、させない)
たった一人で戦ってきたシャル先生を、愛してここまで来たこと。それはきっと、アークと出逢ったあの日から、いや――リルが生まれたその日から、マナが導いてくれた運命なのかもしれない。
隣に立つシャル先生の手を握ると、シャル先生は少し驚いた顔でリルを見たけれど、
「……ありがとう」
と呟いて握り返してくれた。
泣きそうになるのを我慢しながら、だいすき、あいしてる、と言いたくてたまらなくなった。世界でひとりぼっちだったシャル先生に、世界でいちばん大好きだって、伝えたくなった。
言えないから、伝えられない想いだから、このまま過去に置き去りにできたらいいのに。
「でも、時計を使うと肉体の時間も巻き戻る仕様にしておいて良かったよ。そうじゃなかったら、今頃私はおじいちゃんになっていたかも」
シャル先生がそう言ったときには、過去の世界は何度目か分からないくらいの話し合いを迎えていた。
「これがきっと、最後の話し合いになると思う」
過去のシャル先生が、隣国の幹部たちの前にひざまずいている。警戒心をあらわにする老人たちの中で、ただ一人シャル先生の前に進み出た人がいた。
「いくら説明しても、説得しても、分かってもらえなかった。だから私は、幹部の一人に時計を使わせたんだ。私がここに来た時点で、あの人にとっては二度目の訪問で、私にはその記憶はないけれど、この日、自分がそうするだろうということは分かっていた」
お前を信じることにしよう、とその人は言った。周りがざわつく中、過去のシャル先生は涙ぐんでいた。長い長い戦いが、やっと終わったのだ。
「過去に戻れることを信じてもらえたから、魔法戦争が起きることも、起こったらどうなるかということも、信じてもらえたよ。信じざるを得なかったんだろうね。もっと早くこの方法を試していれば良かったんだろうけれど、一瞬でも自分の手から時計が離れる不安を思うと、なかなか実行に移せなかった。私が何度も失敗したせいで、人々は何度も苦しむことになった。壊滅した城下町の姿も、助けを求める人々の姿も、今も夢に見るよ」
過去のシャル先生と隣国は、時計の存在、魔法戦争で滅ぶ未来があったことを他言しないよう協定を結ぶ。国民の混乱と、時計の悪用を防ぐための手段だった。そうして、教科書も知らない“英雄の物語”はここで終わる。――はずだった。
「過去は、これで終わりじゃ、ないんですね」
世界が、シャル先生が切望した姿を取り戻しても、リルたちは現実に戻る気配がなかった。それに、シャル先生が過去のリルと出会うところを、まだ見ていない。
「……うん。もう少しだけ、付き合ってくれるかな」
過去のシャル先生は官僚をやめて、森の中で暮らすことにした。時計を作ったときに暮らしていたあの場所に、新しい家と魔法道具店を建てた。まだ、アークもリオもいない、先生ひとりだけの暮らし。
最初は、ただぼうっとするだけで一日を終えていた先生が、魔法道具と向きあってだんだんと生きる気力を取り戻していく姿は、涙がこぼれた。とても尊い宝物を見ているような気持ちになった。
ゆったりとした長い時間が、本のページが風でめくれるように移り変わってゆく。アークが使い魔になって、リオが弟子になった。魔法学校から通知が行く前にシャル先生がリオを救えたのは、一度過去を変えているからだった。
「最初の世界では、リオは手遅れになっていた。お姉さんもリオも、意識を失ったまま眠り続けることになって……。たとえ肉体が滅びたとしても、お姉さんの魂は終わらない死の苦しみの中を、リオの魂は孤独と後悔の中を、途方もない時間彷徨い続ける。どうしてこんなに幼い子たちが、こんな残酷な運命を背負わなければならないのかと思ったよ。禁忌を破った代償だとしても、それはあまりに理不尽で、冷酷で……。私は、もう使わないと決めていた時計を再度使用してしまった」
シャル先生の記憶はだんだんと、リルのいた現在の時間へと近付いていき、そして追い越した。ここからは年が明けた、少しだけ未来の話。シャル先生はオーガスト先生から一報を受け取る。その手紙には、リルが育った国の名前が書いてあった。
「これって……」
手紙を読んだシャル先生の表情から、何か良くない知らせであることは分かった。
「……うん。私が受け取った手紙には、魔法使いを罪人として扱う国が、魔法国家に攻め込む予定がある、と書かれていた」
「そんな……!」
それほどまでに、あの国が魔法使いを憎んでいたなんて、思ってもいなかった。あまり知らないものに対する恐怖だけで閉じ込められていたのだと思っていた。
「魔法使いの人権がない、と他の国からもずっと抗議されていたのにやめなかった国だ。話し合いの余地がないとして、この国も近隣の魔法国家と一緒に、攻め込まれる前に制圧することになったと書かれていた」
ここのところ先生が頻繁に出かけていたのは、今回も同じ運命を辿っていたから? それを止めようとして動き回っていたのだろうか。
「私が気にかかったのは、幽閉されているという魔法使いの少女――リルのことだね。リルがそれに巻き込まれないかということだった。何とかして、制圧の前にリルを助け出さなければと思ったんだ」
「わたしのことを……」
シャル先生がリルを助けようとしてくれたことを、自分はまったく覚えていないことが悲しかった。シャル先生の優しさが嬉しくて、切なくて、リルはずっとシャル先生に守られて生かされてきたのだと実感する。
「シャル先生、ありがとうございます」
「……私は、リルにお礼を言われる権利もないんだよ。私は結局……。いや、それも、すぐに分かってしまうことだね」
シャル先生が、時間を巻き戻したこと。夢の中でリルに謝っていたこと。そしてシャル先生の言葉と表情が、これからリルに起こる運命が幸せなものではないことを示唆していた。
「ごめんね。……怖いよね」
もしかしたら、自分が死ぬところを見ることになるのかもしれない。あんなにたくさんの人が犠牲になった過去を見たあとでも、こわくて手が震えてしまった。
「ずっと、手を握っていてくれますか」
ちゃんと最後まで、見届けられるように。シャル先生ひとりだけの過去に、しないために。
「もちろんだよ」
一度つないだまま離せずにいた手を、シャル先生がもう一度強く握りしめてくれた。