はじめての真実
シャル先生の部屋の鍵は開いていた。
「やあ。待っていたよ」
椅子に座ったシャル先生が振り向く。いつもと変わらない声で迎えてくれるけれど、まわりの空気が張りつめているのを感じた。
「……シャル先生」
「ごめんね、そんなに心配そうな顔をさせて。……いや、今までずっと、させていたんだよね。私のせいで」
「無理、していませんか。話すこと」
「いいんだ。きっとこういう運命だったんだ。――今回は」
シャル先生の言い方にひっかかりを覚えた。まるで今回以外にも、運命がいくつもあったかのような。
「本当はまだ迷ってるんだ。リルにこの話を打ち明けてもいいのかどうか。聞いてつらくなる話もあるだろうし、聞かなければ良かったと思うかもしれない。ひょっとしたら私のことが怖くなるかも」
シャル先生の前に進み出て、いつもシャル先生がしてくれるように、膝を折った。椅子に座っているシャル先生と、目線が近づく。
「どんなにつらい話でも、シャル先生が一人で抱え込んでいるよりはずっといいです。後悔なんてしないし、シャル先生に対する気持ちも変わったりしません。シャル先生に命を助けられてからずっと、わたしはシャル先生の……、シャル先生だけの、弟子なんですから」
「リル……」
その翡翠色の瞳の奥にあるものが、ずっと知りたかった。罰と言って苦しみながら、どうしてこんなにやさしいままいられるのか。ずっとシャル先生に無償で与えてもらっていたものを、少しでも返したかった。
こわいものなら、一緒にいればいい。つらいことなら抱きしめて、抱えるのが重い荷物なら、リルにひとつ渡してくれればいい。そうしてシャル先生の役に立てるなら、それがリルの生きる意味になる。
「分かった。私も覚悟を決めるよ。弟子にそんなことを言わせて、駄目な師だな、私は」
シャル先生が、自分の正面に置いた椅子をぽんぽん叩いた。居間にあったものだ。
「椅子を持ってきたから、リルも座って。長い話になるだろうから」
長いおとぎ話を聞くような気分じゃ、いられない。椅子に座ったままくつろげずにいるリルに、シャル先生は切り出した。
「まず訊いていいかな。リルは、この時計を使ったんだよね? 部屋にはどうやって入ったの?」
「アークさんが、以前なくした鍵を隠し持っていたみたいです。シャル先生の部屋を大掃除するのに貸してくれました」
今思うと、すごく申し訳ないことをしたと思う。結局シャル先生は、部屋が散らかっているから入られたくないんじゃなくて、秘密を隠すために鍵をかけていたのだから。
「アークか……。あの子は勘付いていたのかもしれないね、私のしていることについて。それでリルに鍵を渡したのかもしれない」
ふだんの飄々とした態度で分かりづらいが、アークの勘はいいほうだ。それに何年もシャル先生の使い魔として一緒にいたのだから、リルが気付かないこともアークには見えていたのかもしれない。
「そうかもしれません。話してくれないことを寂しがっていましたから」
「アークにも、あとで直接話すよ。リオは……。今は大事な時期だから、あまり耳に入れたくないな。子どもには、あまり聞かせたくない話だし。オーガスト先生にも話さないとな……。絶対怒られるだろうな」
「リオくんは、シャル先生が思っているほど子どもじゃないし、オーガスト先生はきっと怒るけど……。それはきっと、話してくれなかったことに対してだと思います」
シャル先生は、はっとした顔をしたあと、目を伏せた。
「そうだね……。二人にも、ちゃんと話すよ」
シャル先生が膝に置いている懐中時計に目を移す。このことも、言わなければいけない。
「時計は、時間が合っていなかったので直そうとしたんです。そうしたら、急に感覚がおかしくなって……。そのあとアークさんに会ったら、数分前の会話がなかったことになっていて、時間がおかしいことに気付きました」
「そうか……。気分の悪い体験をさせて、すまなかったね。戻ったのが数分だけで良かった」
何時間も戻っていたら、もっと動揺していただろう。ためらいながらネジを回したことは幸運だったのかもしれない。
「この時計は、時間を戻す時計なんですね?」
「そう。ネジを回したぶん、使用者だけが過去に戻れる。それまでの時間はなかったことになり、使用者は時間をやり直せる」
「シャル先生が魔法戦争を止められたのも、時計があったからですか?」
「そうだよ。この時計がなかったら戦争を止められなかった。リルは、私のしていたことを、どこまで分かっている?」
正直、分からないことのほうが多い。今シャル先生が何をしているのかはまったく見当がつかないし、夢を見てうなされていた理由もわからない。
「魔法戦争が起きることに気付けたのは過去に戻ったからということと……。そして……」
でも、ひとつだけ確信が持てることがある。ずっと抱いていた疑問も、それで説明がつく。
「わたしとシャル先生は、やっぱり会ったことがあるということです。――過去の世界で」
「それにも、気付いてしまったんだね」
リルはやっぱり賢い子だ、と言ってシャル先生はひっそりと微笑んだ。どうしてつらそうな顔をしているのかは、まだわからない。
「はじめて会ったときに、懐かしい感じがしたんです。シャル先生が会ったことがない、と言ったのが嘘だということにも気付いていました。最初は、わたしが会ったことを忘れているだけだと思っていた。そうじゃ、なかったんですね。もともと、わたしが覚えているはずのない記憶だったのだから」
「リルに、会ったことがありますか、と言われたときは驚いたよ。そのあとリルの魔法を知って納得した。リルには過去を見る力があるから、失われてしまった時間の記憶も、マナが覚えていたのだと思う」
時間を戻せば、戻ったぶんの世界はなかったことになる。でもマナはだませなかった。自然界に存在するマナたちにも、繰り返した時間が蓄積されている。きっと、そういうことなのだろう。
「あと、謝らなければいけないことがあるんです。以前シャル先生がソファでうたたねをしていたとき、シャル先生の夢の中を覗いてしまいました。わたしとシャル先生が、塔で会っている記憶でした……」
「起きたらリルが泣いていたときだね。……どうして泣いていたの?」
「シャル先生の感情まで、読んでしまったから……」
ごめんなさい、許して。あのときのシャル先生の言葉を思い出すと、つめたい手で掴まれたように胸が苦しくなる。
「どうして、罰なのですか? シャル先生はどうしてずっと、苦しんでいるのですか?」
長い沈黙があった。懐中時計の秒針の音が、やけに大きく響く。家の屋根に積もった雪が落ちる音がして、シャル先生はゆっくりと口を開いた。
「リル。――この国はね、一度滅びてしまっているんだよ」
シャル先生の言葉に、思考が追い付かなかった。シャル先生が体験したもとの世界では、この国の人たちは、みんな死んでしまった? リオも、オーガストも?
「どうして……どうしてそんなことに」
唇が震える。膝が笑ってしまうのを、拳でぎゅっと押さえつけた。
「リルの魔法と私の魔力があれば、時計を媒介にして私の記憶を直接見せられるかもしれない。リルが、リオの過去の世界を見たときのように」
シャル先生が、時計をぎゅっと握りしめた。秒針の音とリルの鼓動が同調する。
「リルが一緒に行ってくれるなら、これから私の記憶の中に飛ぼう。もしかしたら、とても残酷なものを見せるかもしれない。目を塞ぎたくなる光景もあると思う。それでも……一緒に来てくれる?」
「はい」
シャル先生の手の上に、リルの手を重ねる。恐れも、迷いもなかった。
(あなたと一緒なら、どんな世界だって旅してみせる。何があっても、この手を離さない)
シャル先生が目を閉じて、知らない呪文を詠唱する。瞬間、落ちるように意識が遠くなるのを感じた。どこまでも続く暗闇の中で、シャル先生の手のぬくもりだけを、失わないように抱き締めていた。




