はじめての休暇
リルには、今この場所でこうしている実感が、なかなか沸かずにいた。
テーブル越しの目の前には、リオに良く似た金髪巻き毛のお母さんと、小柄で温厚そうなお父さん。隣に座ってしきりにリルの袖をひっぱってくるのは、五歳になるらしい妹。
リオはななめ前の席に座り、頬杖をつきながらため息をついている。
すすめられるままに紅茶とお菓子をいただいていたら、むせてしまってお母さんに背中をさすってもらった。
どうして、ここにいるんだっけ。どうしてこんなことになったんだっけ。
リルは一日前の会話を思い出す。
「えっ、リオくん明日からしばらくいないの?」
その日の夕飯は、いつもは相槌を打つだけのリオが珍しく話の中心にいた。
「うん。去年もこの時期はゆっくり帰省してたから、今年も帰って来いって親に言われて。お前ひとりで家のこと全部できる? それだけがちょっと不安なんだけど」
秋に入ってから夜が冷えるようになったので、今日は久しぶりにポトフを作った。最近ではリルがメインをまかされて、リオは副菜やデザート、パン作りに専念できている。
まだパン作りは難しく、失敗してしまうこともあるけれど、しばらくはリオの作り置きもあるしなんとかなるだろう。
掃除や洗濯についても魔法のおかげでだいぶ楽になった。
「それは大丈夫だと思う……けど……」
「いざとなれば俺が人型になって手伝うこともできるし、リオは心配するな。細かい作業は無理だけど、洗濯くらいならできるぞ」
「そうだよ、私だって手伝うし」
「先生はむしろ手を出さないでくれたほうがいいんだけど」
「そっか……」
アークの申し出はありがたく、しょぼんと眉を下げたシャル先生は気の毒だけど可愛かった。
「家事は問題ないんだけど、今までリオくんとは毎日一緒だったから、なんだかさびしいね」
リルがしみじみとつぶやくと、リオは心底嫌そうな顔をした。
「はあ? 一週間か二週間くらいだし、さびしがるほど仲良くないだろ」
「……ああ、そっか。リオくんはご家族と過ごせるんだもんね。さびしいより嬉しいはずだよね」
家族を亡くしたシャル先生や、帰る故郷がないリル、そもそも家族のことがよく分からないアークと違って、リオには帰る家がある。待っていてくれる家族がいる。
きっと、この家にいるときのほうがリオにとっては寂しくて、家族と会える時間は楽しみなはず。
そうである、はずなのに。リオの表情は雲っていた。
「……まあね。家だと家事もやらなくてすむし、ゆっくりはできるけど」
「けど……?」
「べつに、何もないよ。揚げ足とらないでよ」
「ごめんなさい……」
言葉はいつも通りなのだが、口調や空気に不安が混じっている気がした。あまり、帰りたくないのだろうか。いや、帰りたいけれど何か心配事があるのだろうか。
「いつも、先生も一緒に来てくださいってリオのご両親に言われているんだけど、なかなか一週間も家を空けられなくてね。久しぶりにご挨拶もしたいんだけど……」
シャル先生の一言で、ぴんとひらめいてしまった。リオはなんだか心細そうだし、先生はついて行けない。だったら。
「あの、じゃあわたしが代わりに行くのはどうでしょう」
二人と一匹にいっせいに注目される。みんなの視線がひしひしと突き刺さり、思いつきを勢いで口にしてしまったことを後悔した。
「――それ、いいね!」
ぱん、と手を叩く音が沈黙を吹き飛ばす。空気を変えてくれたのはシャル先生だった。
「リオのご両親も、新しい弟子のことは気になっていたようだし、リルが一度顔を見せておけば安心するんじゃないかな」
「ちょっと待って! シャル先生ならまだしも、なんでこいつと帰省しなきゃいけないのさ!」
「代理だよ、代理。リオだってほら、お客さんがいたほうが気が紛れていいだろう?」
「……そんなこと」
「あの。嫌だったら無理しなくて大丈夫だよ」
リルが遠慮すると、リオは憎々しげに眉を寄せて、なぜかさっきよりも怒った声を出した。
「嫌だとは言ってないだろ! 勝手に来ればいいじゃん!」
「だとさ。良かったな、リル。旅行は初めてだろ?」
アークに言われて気付いたが、長期間どこかに出かけるのは生まれて初めてのことかもしれない。この家に来てからは、外出は一か月に一度の買い出しのみだし、六歳までの記憶にも旅行はなかった。
先生と離れるのは寂しくもあったけれど、楽しみな気持ちもむくむくと沸いてくる。
「うん。ありがとう、リオくん」
「言っておくけど、旅行じゃないから! お前は僕の帰省に付いてくるだけ!」
「そうと決まれば、リルも支度をしないとね。私のトランクを貸すから、服や必要なものを詰めてごらん」
「ありがとうございます。それと、リオくんのおうちにお邪魔している間、魔法の勉強はどうしたらいいでしょう」
「そうだね、私のほうで復習に最適な教科書を選んでおくよ。でも、ゆっくり羽を休めることも大切だよ。初めての外泊だし、疲れたら無理はしないようにね」
「はい」
そうして一晩で準備をすませ、シャル先生とアークにお店の扉まで見送ってもらい、街の外れにあるリオの実家に着いたのだった。
――そして、今に至る。
「こんなに可愛くて年の近い女の子がいたなんてねえ。リオったら手紙では何にも教えてくれなくて」
リオの家に着いたときから、お母さんの歓迎ぶりがすごい。にこにこ笑って話を聞いているお父さんと、明るくておしゃべりなお母さんはとても仲の良い夫婦に見える。リオはどちらに似たのだろう。見た目はお母さんだけど、性格はどちらにも似ていない気がする。
「わざわざ書くのも変だろ」
「この子はいつもそっけないんだから。リルちゃんごめんね、いじめられたりとかしてない?」
「いえ、全然そんなことないです。リオくんはいろんなことを丁寧に教えてくれます」
「あら、そうなの? ……女の子には親切なのかしら」
「そんなわけないだろ! お前も正直に言えよ!」
「あらやっぱり、いじめてるんじゃない」
「違っ……」
リオの態度が家族に対しても変わらないことにびっくりしたが、お母さんのほうが一枚上手だった。
「反抗期の息子なんて、かわいいものよね」と言いながらリオをからかっている。
「おにいちゃん、おにいちゃん。だっこして」
「はいはい」
リルの服をしきりに引っ張っていた妹は、もう飽きたのかとことこ歩いていってリオの膝の上におさまった。
「髪形いっしょにして。おねえちゃんとおなじみつあみ」
「うん、いいよ。あとでやってあげる」
まんまるの顔がかわいい妹が嬉しそうに笑う。リオは妹に対してだけ優しいらしい。
「リルちゃん、お茶のおかわりはいかが?」
お母さんが、淹れ直したティーポットを持っていそいそとお茶をすすめてくれる。茶葉がいいのか、お母さんの腕がいいのか、自分で淹れるお茶よりもずっとおいしくてびっくりした。
「ありがとうございます。でも、もうお腹がたぽたぽで……」
今ここでジャンプしたらお腹がぶるんぶるん揺れそうである。
「あら、そんなに飲ませちゃったかしら。ごめんなさい」
「いえ、わたしが、おいしくて飲みすぎちゃったので。お菓子も一人でいっぱい食べてしまってごめんなさい」
「そんなこと言ってもらえるなんて嬉しいわあ。夕食も張り切っちゃう。リルちゃんは、お肉とお魚どっちが好き? 煮込み料理は、クリームとトマトどっち派?」
鶏肉と白身魚が好きです、どちらかと言えばトマトです、と答えていると、
「妻は、リオがガールフレンドを連れてきたからはりきっているんだよ」
穏やかなはずのお父さんがいきなり爆弾を投げ込んできた。
「ガールフレンドじゃないっ!」
案の定、リオは耳まで真っ赤にしながら怒っている。
「もう、僕、夕飯まで部屋にこもってるから!」
どすどすと音を立てながら去っていったリオを見て、お母さんがつぶやく。
「夕飯は、鶏肉のトマト煮込みにしようかしら。あの子のトマトみたいな顔見てたら食べたくなっちゃった」
この家では、家長のお父さんでも気の強いリオでもなく、何事にも動じないお母さんが最強なのだな、とリルは思った。