はじめての儀式
「えっ、戴帽式?」
白身魚のパン粉揚げにトマトソースをかけたもの――を切り分ける手を止めて、シャル先生が驚いた声を出した。
「そうだ。聞いたところこの娘は十六歳だと言うじゃないか。本当は十五歳ですませるものなのに、どうせお前は何も考えていなかったんだろう」
今夜のオーガスト先生はワインも飲まずに黙々と食事をとっている。よほど午後の店番が疲れたのかもしれない。今度こそ、アイスクリームが溶ける前に食べてもらえそうで、リルは嬉しかった。
「そう、なんですけど……。あれは魔法学校の学校行事じゃないんですか?」
「便宜上学校でやっているだけで、どこでやってもいいんだ。官僚だったのにそんなことも知らないとは……」
「すみません……」
リルが口を挟む暇もなく話を進めていく二人だが、実は何も分かっていなかった。リオもアークも「ふーん」という顔をしているので、魔法使いにとっては常識なのだろうか。
オーガスト先生が大きなため息をついて、シャル先生がうなだれた隙をねらって訊いてみる。
「あの、戴帽式って何ですか?」
「ああ……、そうか。君はあの国の出身でないから知らなくても当然だな。戴帽式というのは、魔法使いにとっての成人の儀式だよ」
「毎年一回、その年に十五歳になる生徒を集めて行われるんだ。昔は三角帽子を授与されていたから戴帽式という名前らしいよ。時代遅れということで廃止になって、今は男子生徒はバッジ、女子生徒はペンダントが配られているね。戴帽式が終わると、一人前の魔法使いとして認めてもらえるんだ」
「うむ。大人として、人のため、国のために魔法を使うこと、魔法使いとして清廉潔白に生きることを誓う行事だ。魔法使いにとっては、とても大切なものなのだよ」
「わたし、一人前って認めてもらっていいんでしょうか」
リルはまだ、魔法使いとして生き始めてから数か月しかたっていない。教科書だって一年生のものを使っているし、一人前だなんてまだまだ先な気がする。
「いいんだ。君の心構えや授業態度を見ていて私がいいと決めたんだから、堂々としていればよい」
「――はい」
「良かったじゃねえか、リル。確か大人の立会人が二人必要なんだろ? シャル先生と大先生でちょうど二人だ。遠慮しないで甘えちまえばいい。俺はたぶん人間の大人にはカウントされないからな」
「僕はあと三年先か。僕のほうが先輩なのに先を越されるのは微妙だけど、三年なんてどうせすぐ経つし」
様子を伺っていたアークとリオが後押ししてくれる。
「ほら、リオも構わないと言ってる」
「そんな言い方はしていないだろっ」
「二人とも、ありがとう。オーガスト先生も、シャル先生も」
「私の気が利かないせいで気付けなくてごめんね、リル。大事なことだったのに」
シャル先生が申し訳なさそうに頭を下げたので、あわてて首を振った。
「わたしも知らなかったことなので、仕方ないです」
「じゃあ早速、明日の晩に行うということでいいかね? 場所は居間でいいだろう。広さ的には充分だ」
「あ、明日? 準備とか間に合うんですか?」
「私が間に合わせる。転送魔法で必要なものを送ってもらうように、今の学長に頼んでおいた」
「……理事になってから、そうやって無茶な頼みばかりしているんでしょう。今の学長の苦労がしのばれます」
「権力というものは都合よく使わないと意味がないからな」
「明日……」
「君も、それでいいな?」
急なことだけど、ずっと緊張しているよりはいいのかもしれない。リルが返事をすると、オーガスト先生は満足そうに頷いた。
「それに、あまり長いこと留守にしているわけにもいかないからな。戴帽式が終わったら私は帰ることにするよ」
「そうですか……」
シャル先生は複雑な顔で、アイスクリームをぺろりと平らげるオーガスト先生を見ていた。明日はドキドキと寂しさが一度にやってくる日になる、とリルは思った。
*
宙に浮いた数えきれないほどの蝋燭が、居間を幻想的に照らしていた。リルは丈の長いローブに着替えて、燭台を持っている。
テーブルを使ってこしらえた祭壇の向こうには、待ち構えているオーガスト先生の姿。
「リル、緊張してる?」
いつもと違う、たくさんの装飾があるローブに着替えたシャル先生が、隣から声をかけてくれる。戴帽式の準備が終わってからずっと、想像以上の神聖な雰囲気にのまれていた。
「手と足が、いっしょに出そうです」
「大丈夫。私もずっと隣にいるからね。リルはオーガスト先生の言葉に返事すればいいだけだから」
シャル先生が、燭台を持っていないほうのリルの手をとる。血の気が引いて冷え切ったリルの手に伝わる、ぬくもり。苦しいほどに脈打っていた心臓が、だんだんと落ち着きを取り戻してきた。
「はい。もう、だいじょうぶです」
「じゃあ、進もうか」
居間の端から端まで、裾を踏まないようにゆっくり歩く。リルの動きにあわせて燭台の炎が揺れる。ため息をこぼすだけで、消えてしまいそう。
なんとか祭壇まで無事に進み終えると、オーガスト先生が大きく頷き、大きな巻物を読み始めた。大事な言葉だと思うのだが、難しくて何を言っているのかよく分からない。
「オーガスト先生がリルを一人前の魔法使いとして認めます、ということを仰々しく言っているだけだよ」
シャル先生がこっそり耳打ちしてくれる。
「――汝、魔法使いリル」
急に名前を呼ばれて、燭台を落としそうになってしまった。
「はい」
声が震える。
「魔法使いとして、世のため人のために魔法を使うこと、自らのマナに恥じない魔法使いであることをここに誓うか?」
「――はい、誓います」
「よろしい。ならばこの蝋燭に火を移しなさい」
祭壇の横に備え付けられたキャンドルタワーに、リルの燭台の火を移す。オーガスト先生が指をぱちんと鳴らすと、一斉に残りの蝋燭に火が灯った。
「今ここに、一人前の魔法使いが誕生した!」
みんなの顔が、橙色の炎にやさしく照らされている。シャル先生も、「こんな時くらいは」と人間の姿になってくれたアークも、リオも、みんな拍手をしてくれた。
「それでは、記念品を授けよう」
翡翠色の石が嵌められた銀製のペンダントが、リルの首にかけられる。首にかかるささやかな重みとひんやりした鎖の感触で、やっと実感が伴ってくる。
――わたし、ちゃんと魔法使いになれたんだ。人の役に立てる魔法使いに。
視界がぼやけて、蝋燭の炎が二重に見える。シャル先生が、頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「シャル先生、わたし」
この空間が消えてしまう前に、どうしても伝えたいことがあった。リルがあの日からずっと、言いそびれていたこと。
「魔法使いになれてよかった。生きていてよかった。素敵なことも、嬉しいことも、ぜんぶシャル先生が教えてくれました。あのときわたしを助けてくれて、ほんとうに、ほんとうにありがとう」
「リル……」
シャル先生の頬に、涙がひとすじ流れた。その涙の意味は、リルには分からない。でも、とてもあたたかい涙だと思った。
「……私こそ、ありがとう……」
先生は涙の跡を隠すように、リルを抱き締めた。まるでリルのほうが、シャル先生を抱き締めてあげているみたいだった。
*
「ほんとうに、帰っちゃうんですか? せめて明日の朝でもいいのに」
戴帽式を終えて、居間をもとの姿に戻した頃には、オーガスト先生は荷造りを終えていた。
「この余韻のまま帰りたいと思ってな。あまり先延ばしにしても余計帰りにくくなるだろう」
移動用の魔法陣も、すでに玄関の前で光っている。
「俺は大先生のこと、わりと好きだぞ。リルは懐いているみたいだから、また来てやってくれないか」
すぐさま鳥の姿に戻ったアークが、オーガスト先生のトランクの上に止まっていた。
「ああ、今度来るときにはお土産を持ってこよう。君には人間用でいいのかね? それとも鳥用か?」
「鳥用でお願いしたい」
「ぼ、僕も……。オーガスト先生の授業、とてもためになりました」
「うむ。これからも精進するように。三年後の君の戴帽式も、忘れないでおこう」
では世話になった、と言い残して魔法陣に進み出たオーガスト先生のローブを、
「――オーガスト先生!」
シャル先生が思い切り引っ張った。
「なんだ、シャルル。転びそうになったではないか」
「あの、本当に、お身体には気を付けて。お酒も飲みすぎないようにして、あんまり周りの人にわがままを言わないでください」
「分かっておる。お前は最後まで余計なことしか……」
「……それから!」
シャル先生が拗ねたような顔でオーガスト先生の言葉を遮る。その耳はわずかに赤く染まっていた。
「私が訪ねるのを忘れた月には、あなたから会いに来てください。……お父さん」
最後の言葉を聞いたオーガスト先生からは、この前とは比べものにならないくらいの湯気が出ていた。オーガスト先生から目を逸らしたままのシャル先生からも。
「本当に、難儀な親子だ」
アークとリルは顔を見合わせて、にっこり笑いあった。
*
「そういえば、リルがもらったペンダント、石が翡翠色なんだね」
オーガスト先生を見送ったあと、シャル先生はやっと石化魔法から解けたみたいに、ぎくしゃくした動きからもとに戻った。
「はい。これって石になにか意味があるんですか?」
「その人のマナの色に合わせて色を選ぶらしいよ。私も翡翠色だったんだ。リルとはマナの色が同じだね。――よく見せてもらってもいいかな」
首にかけたまま、ペンダントトップをシャル先生の手に載せる。
「ん……? この石って」
しげしげと観察していたシャル先生が、何かに気付いて眉根を寄せる。
「何か変ですか?」
「いや……。バッジもペンダントも、人によって種類は違っても、だいたい同じランクの魔法石を嵌めるものなんだけどね。リルのこれは……」
「なんだ? あの大先生、ばれないと思って安いものをよこしたのか?」
「……その逆。この魔法石、ちょっと口に出すのがはばかられるくらい、高価なものだよ……」
「ええっ」
驚きの声をあげた瞬間、ペンダントの重みがずん、と増した気がした。
「リル、大先生に孫デレデレ魔法をかけちまったみたいだな」
「育ての親の新しい一面を見るのって、ちょっと複雑だね……」
そう言うシャル先生の新しい一面も、今回でだいぶ見た気がする。
オーガスト先生はたくさんの置き土産を残していった。離れて暮らす家族への、寂しさと愛しさ。リルの、魔法使いとしての矜持。気持ちを素直に言葉にすることが大切だということ。――そして、シャル先生の涙。
きっと、その意味が分かるときが来る。それも、遠くない未来に。
シャル先生と同じマナ色の魔法石が、きらりと輝いた気がした。