はじめての大先生
「何だか、寒気がする」
朝食の席で、シャル先生が身震いしながら言った。
「こんなに暑いのにか?」
「シャル先生、風邪引いたんじゃないの?」
季節はすっかり夏。森の中は涼しいとはいえ、毎日の掃除や洗濯で汗だくになってしまう。リルがアイディアを出した魔法で風を起こす小型のプロペラは、ここのところ毎日のように売れている。
リルの成長はゆるやかになったとはいえ、だんだん服の胸元や腰まわりがきつくなっている。今は夏服だからいいが、長袖になったら袖も足りなくなるかもしれない。「三本の針」のマダムの予言どおり、衣替えの頃に新しい服を注文することになるだろう。
「シャル先生、あったかい紅茶に生姜を入れたもの、飲みますか?」
「リル、ありがとう。でもこれ、たぶん風邪じゃないと思う」
シャル先生は朝食にほとんど手をつけていなかった。顔もなんだか青ざめているし、具合が悪いのは間違いなさそうなのだが。
「風邪じゃないって、どういうことだ? 他の病気なのか?」
アークとリオも、心配そうにシャル先生を見ている。
「それは……」
どんどんどん。
「ひっ!」
玄関のドアが激しく叩かれる。シャル先生がお化けでも見たように飛び上がった。
「店じゃなくて、こっちの家に客が来るなんて珍しいな」
「シャル先生、いくらなんでも驚きすぎなんじゃない? 僕、出るよ」
立ち上がったリオの腕を、シャル先生ががっちり掴んだ。
「リ、リオ。お客様が来たら、私は留守にしているって言いなさい。私はしばらく身を隠すから――」
「はあ?」
会話の間もひっきりなしに響いていたノックの音が、静かになる。
「……帰った?」
シャル先生があからさまに嬉しそうな顔をしたその瞬間、玄関扉が爆音と共に開いた。――いや、外れた。
「シャルル。お前はまた居留守を使おうとしたな?」
地を震わすような、低くて落ち着いた声が家中に響いた。蝶番ごと外れた扉の後ろには、竜巻の目の中に佇む老人がひとり。長い銀色の髪といい、口元が見えないくらいの豊かな髭といい、やたら豪奢なローブといい、なんだか威厳のあるおじいちゃんだった。
「いや、と、とんでもないです」
シャル先生は目を白黒させたまま動けないでいる。リオも呆気にとられているし、仕方がないのでリルが代わりに対応しようと立ち上がった。
「あの、こんにちは」
老人の前まで進み出て頭を下げると、老人を取り巻いていた風が消えた。
「――ふむ。初めて見る顔だ。君は?」
「シャル先生の弟子の、リルといいます」
老人は、リルを上から下までゆっくりと眺めた。骨格が大柄なせいもあるけれど、とても姿勢がいい。まっすぐな視線に射すくめられそうだったけれど、薄紫色の目の奥がとても優しい気がして、リルは老人から目を逸らせなかった。
「なるほど。この私に物怖じしない女子は珍しい。シャルルはいい弟子をとったようだ」
物怖じしていないわけではなく、金縛りにあったみたいに動けなかっただけなのだが。
「あ、ありがとうございます……。オーガスト先生……」
シャル先生はやっと、よろめきながら老人の前に進み出た。
「オーガスト、先生?」
シャル先生と老人の顔を交互に見回す。蒼白になって縮こまっている先生と、胸を反らすようにしてシャル先生を睨みつけるオーガスト先生。こんなシャル先生の姿を見たのは初めてだった。
「ああ……。リル、リオ。この人はね、私の育ての親で、恩師なんだ。そして魔法学校の理事でもある」
以前アークに聞いたことのある、すごく大きいという魔法学校のことだろうか。だとしたら、ものすごく偉い人なのでは。
「その育ての親で恩師である私に毎回居留守を使うとは、薄情だとは思わんのか」
「ご、誤解です……」
誤解じゃないし、しかも逃げ出そうとしていたことは黙っていたほうが良さそうだ。
「久しぶりに様子を見に来てみたら、弟子が二人も増えているじゃないか。そちらの使い魔も初めて見るし、お前は私に報告を怠ったな?」
「申し訳ありません。オーガスト先生のお手を煩わせるようなことでもないと思って」
「お前は自分に未成年の教育がちゃんとできると思っているのか? 自分の生活もままならないのに?」
「おっしゃるとおりです……」
「お前ではなく、この弟子たちが心配なのでしばらく滞在することにする。部屋を用意しておきなさい」
きっぱり言い切ったオーガスト先生の言葉に、シャル先生はちいさな悲鳴を飲みこんだのだった。
*
「あの、オーガスト先生。お部屋のお掃除が終わったので案内します」
「――ああ」
居間で待っていたオーガスト先生を呼びに行く。一緒にいたシャル先生はぐったりしていた。今までみっちりお説教をされていたらしい。玄関扉はいつのまにか直っていた。
育ての親で恩師、と言ったらリルと先生の関係もそうだが、シャル先生とオーガスト先生のそれとはだいぶ違うのだな、と思う。
「うん? なんだかずいぶん可愛らしい部屋だが」
リルが案内した部屋に入ったオーガスト先生は、荷物を置きながら不審そうな声を出した。
「あの、余っている部屋がなかったので、わたしの部屋を使っていただくことになりました」
「なんだと? それじゃあ君はどうするのかね」
「リオくん……、もう一人の弟子の部屋で一緒に寝ることになりました」
「女子に部屋を追い出させるなど、何を考えているんだ、シャルルは。自分の部屋を提供すればいいじゃないか」
「シャル先生の部屋は、ちょっと問題があって……。わたしの部屋がいちばんきれいだったので、わたしがシャル先生にお願いしたんです。お客様にはゆっくり休んで欲しかったし。ベッドがちいさめなのが申し訳ないんですけど……。あっ、ベッドリネンは新しいものに替えたので心配しないでください」
オーガスト先生は、まぶしいものを見るように目を細めた。
「――そうか。ありがとう」
持ってきた荷物を整理するオーガスト先生を手伝いながら、思う。この人は態度と口調に威厳があるせいで怖く見えるけれど、まとっている空気も、色も、とても優しい。弟子たちのことが心配と言っていたけれど、本当はシャル先生のことが心配なだけだったんじゃないかな、と感じた。
「君はいくつなんだ? 未成年だとは思ったが」
「十六歳です」
「魔法学校には、行っていないのか?」
「はい。わたしの生まれた国には魔法使いがいなかったので」
「どこの国の出身なんだ?」
リルが国の名前を言うと、オーガスト先生は複雑そうな顔をした。
「その国は……。そうか。君にもいろいろ事情があるんだな」
リル自身は自分の境遇についてつらいとは思っていなかったのだが、打ち明けた人にこんな顔をさせてしまうのは悲しい。
「魔法はどのくらい使えるんだ?」
「シャル先生に基礎的な魔法を教わっているところです。えっと、この教科書の、このあたりまで進みました」
机の上に置きっぱなしになっていたリルの教科書があったので、ページをめくって教える。
「習い始めてどのくらいなんだ?」
「三か月くらいです」
「……進みが早いな。シャルルの教え方がいいのか、君が優秀なのか。いや、前者はありえないな」
「いえ、そんなことないです。シャル先生はとてもいい先生です」
いつも優しくしてくれること、魔法以外にもたくさんの知らないことを教えてもらっていること、リオもアークも慕っていること、魔法道具店もとても繁盛していることを一生懸命説明した。最初は疑うような態度だったオーガスト先生も、リルの熱意に押されたように黙って最後まで聞いてくれた。
「……君の言うように、教師としても優秀なのかもしれないな。だとしても、私はシャルルがこんな場所で燻っているのを許したわけではないが」
リルから目を逸らしてつぶやいたその言葉は、なんだか少し、寂しそうに聞こえた。