はじめての治癒魔法
「うん、小枝くらいなら浮かせられるようになったね。今度は、浮かせたまま動かしてみようか」
次の日。リルは物を浮かせる魔法のコツをだいぶつかんできていた。隣ではリオがもっと重たい枝を涼しい顔でびゅんびゅん飛ばしている。
「リオくん、今日はお手本を見せてくれてありがとう」
「べつに、手本を見せてるわけじゃない。違いを見せつけてあげてるだけだから」
「すごいなあ、いくつも同時に浮かせられるなんて……。わたしも上手になれるかな」
「まあ、せいぜい頑張れば」
「うん、ありがとう。頑張る」
リオは憎まれ口をたたきながらも、退屈なはずのリルの授業にも付き合ってくれている。妹がいるというだけあって、実はかなり面倒見がいい子なんじゃないかと思い始めてきた今日この頃。
「先生、動かすのはむずかしいです」
浮かべるのは、集中して「浮け、浮け」と力いっぱい念じることでなんとか成功できた。でもそこからがぴくりとも動かない。
「リル、身体に力を入れるんじゃなくて、力を抜いてリラックスして。マナの動きを感じるんだ。枝を動かす方向に周囲のマナが移動していくイメージで」
「はい」
「マナに方向性を与えてあげるのが魔法、ということを念頭においてね」
「やってみます」
もうすでに、てっぺん近くまで昇った太陽。午後からは先生がリオにつきっきりで授業をして、リルは店番の当番だから、なんとかお昼までに成功させたい。
目を閉じて、すっと深呼吸。夏の気配が色濃くなった、いきいきとした緑の空気を吸い込んだら気持ちが落ちついた。
よし、やるぞ。
浮いた枝が、氷の上をすべるように動くイメージ。周りのマナたちが、枝を押すように、支えるように、それを手伝ってくれる。
頭の中にはっきりとした画が見えるようになってから、リルは両手を枝に向かって突き出した。
ぎゅん、と枝が加速して飛んで行く。
「で、できた」
あまりの勢いの良さに驚いて、コントロールを忘れてしまった。
「リル、止めていいよ」
「と、止まらないんです」
リルが焦った声を出し、先生が対処するよりも早く、枝はこちらに向かって飛んできた。
「きゃっ」
「リル、大丈夫!?」
体勢を崩し、尻餅をついてしまう。リルの脚にぶつかった枝は、反省したかのように力なく地面に落ちた。
「い、いたた……」
スカートをめくってみると、膝下にじんわりと血が滲んでいた。
「うわ、痛そう。血が出てる」
リオは苦々しく顔を歪めている。
「女の子なのに傷が残ったら大変だ。治癒魔法はあまり得意じゃないけれど、今治すから……」
先生がリルの脚に触れようとすると、リオが手で制した。
「いいよ、先生。僕がやるから」
「え。……でも、リオは」
「大丈夫だから、やらせて。血、見ていたくないんだ」
「……分かった」
座り込んだリルの前に、リオがひざまずく。いつもの軽口ではげましてくれるのかと思ったけれど、様子がちがう。リオは一言も話さず、緊張した面持ちでリルの脚に触れた。
月明かりにも似た、ぼんやりとした光がリルの傷を包み込む。あたたかいお湯をかけたように、脚だけがじんわり熱を持ち始めた。
血は見たくなかったけれど、目が離せずに傷を凝視していた。ぱっくり割れていた皮膚がふさがり、周囲の赤みも引いている。流れ出た血だけが、そこに傷があったことを証明するように脚にこびりついていた。
「……どう、まだ痛む?」
「え、ううん。痛くない」
「そう。なら、いい」
リオは脚に目線を落としたまま、リルの顔を見ることなく立ち上がった。
「傷はだいたいふさがったけど、破傷風とかになったら治せないから。一応僕、救急箱取ってくる」
「あ、ありがとう」
立ち上がってお尻についた泥をはらい、家に向かって駆け出したリオの背中を見つめる。こんなすごい魔法を使ったのに、リオはぜんぜん嬉しそうじゃなかった。自分が怪我をしたみたいに、ずっとつらそうな顔をしていた。
そして、リオがリルに触れたときに見えた感情。緊張と、動揺と、恐怖がそこにはあった。
「……どうして?」
隣の先生を見上げると、リルと同じような表情でリオが走っていった跡を見つめていた。
先生は、リオの得意魔法は治癒魔法だと言った。人の性質がその人の魔法に関係するなら、リオは誰かを治したい、誰かを助けたいと強く願ったことがあるのだろうか。リルが、人に関わることを望んだように。
「先生。リオくんがさっき、破傷風になっても治せないって言っていたのは」
「……うん。治癒魔法はね、万能ではないんだよ。怪我の回復を早めたり、傷みをとることはできるけれど、病気そのものを治したり、寿命を延ばしたりはできないんだ。――いや、できないということになっている」
先生の言い方がひっかかった。まるで、やろうと思えばできるけれど、誰かがやってはいけないと決めたみたいだった。
「どうしてですか?」
「……人が人でなくなるからだよ」
低い声でつぶやいたあと、先生はそれ以上のことは語らなかった。
*
「ねえ、アークさん。アークさんは、リオくんとも付き合いが長いの?」
夜、ベッドに寄りかかりながらアークに質問した。アークは気まぐれにリルの部屋に飛んで来ては、ベッドの支柱で休んでいく。アークとの会話は楽しいから、ついつい夢中になって、おしゃべりしながら二人で寝てしまうときもある。
「いや、リオもここに来てまだ一年くらいだ」
アークは羽をたたみ直しながら、あくび混じりに答えた。
「そうなんだ。リオくんもわたしのときみたいにアークさんが連れてきたの?」
「いや、リオのことは俺はよく知らないんだ。急に先生がリオを連れてきて、今日から私の弟子になる子だよ、と紹介された」
「へえ……」
「あの国の出身だったら、普通なら魔法学校に入学する年齢だった。だから、何か学校に行きたくない理由があって預かったのかと思ったな。リオは最初はもっと愛想がなかったし、集団生活に向きそうなタイプじゃなかったから。べつに興味もないから詳しくは聞かなかったが」
「魔法学校が、あるんだね」
先生が貸してくれた教科書にも、魔法学校と先生の名前が記入してあった。リルは学校に上がる前に幽閉されてしまったから、普通の学校にも通ったことがない。
「ああ。俺も行ったことはないが、なんせ人口の半分が魔法使いだからな。そうとうでかい学校みたいだぞ。リルは学校に行ってみたいのか?」
「少しだけ。でも、わたしはここで先生と勉強するほうが楽しい」
「そうか」
アークはリルの答えに満足したように目を閉じた。
「……アークさん、寝ちゃったの?」
そのまま微動だにしないアークをしばらく眺めていたが、諦めて横になった。
目を閉じる前に、今日触れたリオの感情を思い出す。恐怖も緊張も、リルが今まで味わったことのない種類のものだった。街で二人組の男に襲われたときに感じた恐怖とも、全く違う。リオのそれは、悲しみでコーティングされた、苦くて涙が出そうなお薬みたいだった。
「胸が、つぶされそう……」
リオも同じ気持ちで、この夜を過ごしているのだろうか。だとしても。一緒に寝てあげることも、手を握ってあげることも、リオは望んでいない気がする。
せめて、明日の朝はリオより早く起きて、リオの好きな茸オムレツを作ってあげよう。
そう決めて、リルは目を閉じた。