吸血鬼のもやし生活事情~買い物編~
その男は悩んでいた。
知的且つ野生的、更には妖艶。整いに整った顔に迷いの色を浮かべて、形の良い眉を寄せながら、涼やかな瞳で「それ」を見つめていた。
「……どちらも捨てがたいな」
薄い唇から溜息を零す。
男が見つめる先には、横たわる二つの体。
僅かに曲線を帯び、すらりとした無駄の無いその体は、照明に照らされた肌を艶かしく輝かせている。
しかし、男を見上げるその瞳には、最早生気は感じられなかった。
それを分かっていながらも、男は憐れむ事無く、寧ろ妖しげな笑みを湛えて呟く。
「どちらがより、俺を満足させてくれるか……」
腹の底から徐々に湧き上がる欲求。この無防備な体をどう貪ってやろうか──考えただけで堪らない。男の口元が更に歪む。
と、ふと男の視線が一点に向いた。
片方の体を飾る、赤い花。
それに気付いた男は軽く目を見開き、そして、くつりと喉を鳴らした。
「……そうか、そういう事なら話は早い」
今、男の心は決まった。
この赤花の魅力は充分に知っている。悩んでいるところにそれを見せられては、もう迷う理由は無かった。
男は花に飾られた体に手を伸ばし、愛撫するかのように優しく抱き上げる。
そして、薄く濡れたその体は成す術も無く、落ちていった──。
「萌、今日の夕飯はサバ味噌な。鯖に割引の花丸シール貼ってあったから」
──スーパーの買い物カゴの中へと。
「おおう……主夫だ……主夫様がおられる……!」
「主夫じゃねえよ、吸血鬼様だ」
「スーパーで割引かれた鯖を買う吸血鬼が何処にいるのさ。お菓子欲しい」
「此処にいるだろ、お前の所為で。お菓子は買わん」
「ケチ! ヴァンのケチ!」
腰に両手を当てて、何処かから「ぷんすか」という音が聞こえてきそうなポーズで訴えてくる萌に対し、鼻で軽く笑ったヴァンは萌の額をぐりぐりと指先で押した。
「一食分を完食出来るようになって、俺に安定して血を分けられるようになってから言え、この貧弱娘が」
「誰が貧乳娘だ! 少しはあるわ!」
「んなこと言ってねえよ!」
堂々と慎ましやかな胸を張る萌の頭をヴァンは反射的にすぺんっと叩く。とは言え、蚊も殺せぬ威力な上に頬を染めているので迫力は全く無い。
そんな割とアホ丸出しなやり取りをぎゃあぎゃあと(しかしスーパーなので極力小声で)交わしながら、ヴァンと萌は魚売り場を後にする。
ヴァンの手に下がる買い物カゴには、主夫の目で選び抜かれた本日のお買い得品たちが詰まっていた。
「あ、ヴァン、牛乳安いよ」
「まだ残ってるからいらん。お前が飲みたいなら買うけど」
「ううん、胃腸を生贄にしてまで飲もうとは思わないからいらない」
牛乳=白い悪魔。
そんな方程式を持つ萌は真顔で拒否した。
カルシウムを筆頭に様々な栄養素が詰まった牛乳は、万年貧弱っ子の萌には是非飲ませたい逸品なのだが、それで胃腸を悪くしていたら元も子もない。
(サバ味噌以外にもう少し……あ、切り干し大根残ってたな、あれで良いか。あれも確かカルシウム摂れるし)
ヴァンは冷蔵庫の中身を思い出し、今までかき集めた栄養の知識も併せて、今晩の食卓に並べる献立を決めていく。
芽吹家の食事は基本的に和食だ。
洋食や中華も勿論食べる時はある、が、萌曰く「和食が一番胃もたれしない」との事なので、食が細すぎる彼女が極力食べられる献立を選ぶと、自然と和食に偏るのだった。
因みに現在のヴァンの料理の腕は、肉じゃがをお裾分けした遠藤さん(隣家の主婦:主婦歴云十年と思われる)が「娘に教えてやってほしいわぁ」と絶賛される程度である。
「ねえヴァン、林檎美味しいよ」
「お前は夕飯前に喰うなっての! その一口が腹に溜まるんだから!」
いつの間にか試食用の林檎を頬張っていた萌の頭に、ヴァンは華麗なツッコミチョップを落とす。勿論、超手加減済みだ。
その攻撃を大人しく受け入れた萌は林檎をもぐもぐと頬張りながら口を尖らせた。
「そんなダイエット食品の広告の煽り文句みたいな事言われても……」
「言われても、じゃないっての。飯前に喰うなって言ってんだよ。お前の胃の容量はリアルで林檎一個分並なんだから」
「だってそこに林檎があったから、つい」
「キメ顔で言うな。試食用だから当たり前だろ」
反省の色が見えない萌に、ヴァンはもう一度チョップを落としておく。
(夕飯は先に一品減らしとくか……)
食べてしまったものは仕方ない。ヴァンは脳内で決まりかけていた献立を変更していく。これも日常茶飯事なので慣れたものだ。
「間も無くタイムセール始まりまーす! 今日は卵でーす!」
と、店員の声が響き渡った。
一日一回、開店時間中の何処かで行われるタイムセールは赤字覚悟というだけあって、非常にお買い得価格で商品を手に入れる事が出来る。
そんなチャンスを、主夫根性が染み付いたヴァンが逃す筈は無かった。
「……萌」
「分かっております、ヴァン隊長」
予想していた萌は芝居を交えながら答える。
いつもなら飛んでくるツッコミは無い。千里先まで見透かすヴァンの鋭い目は、既に主婦が集い始めた戦地を捉えている。
「よし、頼んだ」
「いってらっしゃいませ、ご武運をお祈りしています」
買い物カゴを受け取った萌は敬礼をして、凛としながらも威圧を放つヴァンの背中を見送る。
そうして、商品の裏に書かれた成分表を読みながら待つこと数十分。ヴァンは片手に卵パックを持って帰って来た。
「お帰りなさいませ。流石ヴァン隊長、見事勝利を収めたのですね」
「いや、危なかったから催眠術使った」
「おいコラ、吸血鬼」
吸血鬼の無駄遣いである。
「使ったって言っても、商品渡す店員の意識が一瞬こっち向くようにした程度だよ。セーフセーフ」
「一般人の戦いに吸血鬼が混ざる時点でアウトだと思うんだけど、どうだろう」
「それ言うと俺が魔界に帰らないといけないんだが、どうだろう」
「使える力は使わなきゃ勿体無いよね!」
清々しさ満点の良い笑顔。
萌のその笑顔にヴァンは小さく息をつき、僅かに口角を上げると、受け取った買い物カゴに卵パックを入れた。
***
二人がスーパーから出ると、空は夕焼け色に染まり始めていた。カラスが鳴き、子供達が元気に帰っていく声がする。
「えんやこらせーの、どっこいせー」
「……おい、やっぱり俺が全部持つぞ?」
掛け声はふざけているものの、割と必死そうに荷物を運ぶ萌を見かねたヴァンは手を差し出す。
が、萌は首を横に振ると、地面に着きそうになっていた荷物を頑張って持ち直した。
「だい、じょう、ぶ! トイレットペーパーとティッシュくらい、持てる、から……!」
「いや、既に息絶え絶えだしよ……」
「これは、えっと、新しい呼吸健康法!」
「そんな死に掛けになる健康法があるか! 良いから寄越せっての!」
「あっ……」
このままでは萌も運ぶ事になると予想したヴァンは強引に荷物を取り上げた。
「……手伝いたかったのに」
仕事を奪われた萌はむぷーっと頬を膨らませる。不満が溜まって丸く膨れた頬を、ヴァンは横からつんつんと突いた。
「おい、ふくれっ面」
「…………」
「饅頭みたいになってんぞ」
「…………」
膨れたまま頑なに返事をしない萌に、ヴァンはどうしたものかと溜息をつく。
すると、頬を突いていた手を不意に掴まれた。
驚いて目を見開くヴァンを、ふくれっ面の萌がちらりと横目で見る。
「私も持って」
「……は?」
「私の事もヴァンが持って」
それだけ言うと萌は前を向き、ヴァンの手をぎゅうと握り締める。
ヴァンはその横顔を暫く見つめていたが、強く繋がれた手に気付くと、じわじわと口元を緩めた。
「仕方ねえな、しっかり持ってやるか」
言いながらヴァンは繋がる手を一旦放し、細い指に自分の指を絡め合わせる。
言葉通りしっかりと繋ぎ直された手を見た萌は一瞬目を見開くも、ふにゃっと機嫌良さそうに笑うと、繋がる手を揺らした。
「途中で落とさないでね」
「落とさねーよ、落としたら一発KOだろ」
「そうだよ、だから大切に持ってて?」
「はいはい、了解」
言葉を交わす程に胸の奥が擽ったい。
その擽ったさが心地良い。
ふと見上げた夕陽。日光なんて煩わしいだけだったのに、美しいと思えるようになったのはいつからだったか。
「夕陽が背中を押してくるー」
「何だ、その歌?」
「小学校の頃に習ったんだ。はい、ご一緒に!」
「歌わねえよ、アホ」
「えー!」
萌はわざとらしく不満気な表情で見上げてくる。
予想通りの反応だとヴァンは笑い、夕陽色に染まる瞳を細めたまま前を向く。
「夕飯、半分以上食べられたら一緒に歌ってやるよ」
そう言うと絡めた指に、少しだけ力を込めた。
END.