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文化祭を明日に控えて、生徒達はどこか浮足立っているように見えた。
本来なら校舎を出なければならない時刻であるはずの8時を過ぎても、いくつかぼんやりと灯りを点けたままの教室があった。
やはり3年生の階に多い。
舞台は今日の午後にすべて設置し終えたし、大道具担当のあたしたちは仕事をやり終えてしまったので本来なら別に帰ってもよかったのだが、未だ慌ただしくポスターやフライヤー、会場の装飾の準備をしているクラスメイトを見ると気が引けたので、残って手伝っていたのだ。
「どうすんの、真帆は。残るの?」
「んー…、きりがいいところで帰ろうかなと思ってるけど。ちなっちゃんは?写真の方は大丈夫なの?」
「終わった終わった、さっきちょうどパネル全部展示し終えたとこ」
ちなっちゃんが笑いながら、片手をひらひらさせた。
「よかったね、今日中に終わって」
このクラスの映研部の女の子なんか、今も部室に置かれたデスクトップパソコンとにらめっこで編集の真っ最中だとか。
一般開場までには間に合わせると言っていたけれど、大丈夫なんだろうか。
何事か考えているちなっちゃんの顔には確かに疲れが浮かんでいるものの、その表情は明るい。
なんか、その感じ。あたしも分かる気がする。
「わたしはそろそろ帰るわ。今日、親留守なんだよね。絶対、弟が『晩メシ遅すぎ!』ってぶうぶう言ってる頃だろうから」
こういうところ、すごくちなっちゃんらしい。
「そっか。お疲れ。気をつけてね」
「じゃー、また明日」
ちなっちゃんが、『よいしょっ』とオヤジくさい掛け声とともに立ち上がり、教室を後にした。
あたしの手元には、半分に折られることを待っている印刷済みのチラシの山。
「……よし」
とりあえずはこれを片づけることにしよう。
あたしは黙々とチラシ折りに励むことにした。
「お疲れ」
ガサリと耳元で音がして振り向くと、コンビニのビニール袋を提げた松本君が立っていた。
「あ、松本君…。お疲れ様」
「はい、これ。この間の差し入れのお返しってことで」
そう言って彼が取り出したのはソフトクリームだ。
「え、よかったのに、わざわざお返しなんて……」
「いや、ついでだから。せっかくだし、食べてよ」
松本君は袋の中からカップアイスを取り出して開け始めている。
「あ、じゃあ、いただきます」
「どうぞどうぞ」
そろそろ9時になろうとしている教室は、人影もまばらだ。
ついさっきまで結構な人数がいたのに帰ったのだろうか、と視線を巡らせていると、そんなあたしに気づいたかのように、松本君が笑った。
「クラスの男連中は、今、松の湯。女の子はもう委員以外、大体帰っちゃったと思うけど」
「そっか……」
真ん中の列だけ点けてある蛍光灯を見上げて、ぺろりとソフトクリームを舐めた。
松の湯は高校のすぐ近くにある銭湯で、文化祭前や体育祭前にはうちの学校の男どもで溢れかえるとかいう噂だ。
「松本君は行かなくていいの?松の湯」
「俺はさっき学校でシャワー浴びたから」
なぜみんなと一緒に松の湯に行かなかったのか、なぜ自分だけ学校のシャワーを使ったのか、それを聞けば彼は教えてくれるような気がした。
けれど、きっとあたしはそれを聞いてしまったら、もう松本君とこうしていることはできないだろう。
いくらあたしでも、彼がなんとも思っていない女の子を映画や食事に誘ったりするとは思わない。
つまり、あたしだったから彼は誘ったのだ。
別に自惚れでもなんでもなく、それは事実だ。
あたしたちはそれきり無言で静かにアイスを食べた。
そして、その沈黙をひっそりと破って、松本君は言った。
「帰り、送っていこうか」
* * *
中学校の修学旅行。
多聞にもれずあたしたちの通っていた学校の修学旅行の行き先も奈良・京都だった。
ごくごく普通に過ごし、友人たちと自由行動で寺を訪れ、ごくごく当り前のお土産を買って帰った。
ただ、うちの学校の生徒を見つけては、シャッターを切ろうとする写真館のカメラマンからは逃れるようにして。
今の自分の姿が写真になって残り、そのうえ学年に掲示されるなんて、絶対に嫌だった。
他の人はそんなにあたしのことばかり見ているわけではないと、分かっている。
それぐらい頭では分かっているのだが、自分の写真を見て笑う人々の姿が目に浮かぶようだった。
あたしが写っているものと言えば集合写真ぐらいなもので、元々旅行の代金として組み込まれていたものだから、全員に配られる。
クラスごとに並んで撮影したものだったが、クラス全員の顔が映るように撮ってあるのだから一人の写り具合なんて高が知れている。
とにかくあたしはそう自分に言い聞かせた。
修学旅行から数ヶ月後、何枚もの写真を貼り付けた模造紙が廊下の端から端まで掲示された。
昼休みの廊下はごった返していた。
写真なんて買うつもりはなかったから、最初は知らなかった。
自分の写った写真があるなんて。
けれど。
「――あっ、すみません」
「あ、いや……」
混雑していた廊下を通ってぶつかったのは、あの埼坂邦宏だった。
彼が目を瞠る。
あたしはその間に、彼が落としたらしいペンと購入用紙を拾い上げた。
その時あたしは意外に思ったのだ。
いつもクラスの男子の輪の中心にいて、騒がしいあの彼が、たったひとつの番号しかその用紙に記入していなかったことに。
56番。
「ごめん、ありがと」
「……えっ」
埼坂邦宏はあたしの手元からペンと用紙をひったくると、逃げるようにその場を後にした。
「……?」
56番。
ふと気になってその番号の写真を確かめた。
「あ……」
友人と歩くあたしの姿。
その写真に収められた誰もが、カメラに気づいておらず、あたしはすぐ隣の友人の方を向いて、わずかに笑っている。
番号を間違えたのだろう、と思った。
彼にそれを伝えても良かったが、なんの関係もないあたしからいきなり話しかけられても彼は周りの友人たちから散々からかわれて困るだろう。
何かの間違いに違いない。
あたしがその考えを改めるのは、ほんの数日後のことだ。
『俺が好きなのは富田さんだよ』
あたしは、ぎゅっと目を閉じた。
あの時は、あんなにあたしのことを好きだったくせに。……好きだったくせに。