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 いつまでもトイレにこもっているわけにはいかない。

 ぱぁんっ、と音を立てて両頬をはたいた。すごく、痛い。

 雪国の子のように赤くなったほっぺを押さえて、鏡の向こうのあたしをのぞきこんだ。

 やれるやれる、あたしはやれる。

 埼坂邦宏なんか見なければいい。


 鏡の向こうで『…できるかな?』と情けなさそうな顔をしたあたしをこれ以上見るのは逆効果だと心を決めて、あたしはトイレを後にした。




「遅かったね、真帆」

「……うん」

 あたしにいち早く気づいたちなっちゃんが声を掛けてくれた。

「あ、差し入れみんな喜んでたよ」

「そっか、よかった」

 笑えた、と思う。

 少し離れた所にいた同じ大道具の班の子たちも、「ごちそうさまー」「ありがとね」と手を振ってくれた。

 あたしが買い出しの時についでに一緒に買っておいたクッキーやチョコレートはどうやらクラスメイトに喜んでもらえたらしい。

「気がきいてるねえ」

「んー…まあ、あたしも小腹がすいてたし。ついでに、と思って」

 本当はあたしもみんなと一緒に食べるつもりだったんだけど。

 埼坂邦宏のせいでその予定は完全に狂ってしまった。

 見るな見るなとあれだけ胸の内で唱えていたくせに、いざ埼坂邦宏と同じ部屋に来ると、それが物凄い困難を伴うことだと、ようやく分かった。

 目が合わないように、見ていることを気づかれないように。数瞬だけ埼坂邦宏の様子をうかがった。

 彼は何にもなかったような顔で、周りの男の子たちと台本片手に談笑している。

 ふと、彼は指先についていたクッキーの欠片を、べろりと舐めとった。

「……っ」

 その口の中の熱さと、舌の感触を思い出して、一気に先程までの熱がよみがえった。

 ずるいずるいずるい。

 埼坂邦宏はずるい。

 そんな、何にもなかったような顔で。

 あたし一人、馬鹿みたいに。


 もういやだ、こんなの。


 頭では確かにそう思っているはずなのに、あたしの中の何かが舌なめずりをしたのを、感じずにはいられなかった。

 まるでその、もっと先を、求めるかのように。

 その、もっと先?




 あたしは頭を振って、トイレの時と同じくぱんっ、と両頬を張った。

 思ったよりもずいぶんといい音がして、一瞬、辺りがシン…とした。

「あ…ごめん」

 気合入れようと思って…。

 あたしが咄嗟に吐いた科白のその先は、ごにょごにょと頼りなげに消えてしまった。

 やがて吹きだすような笑いが周囲にいくつか起こって、誰か近くにいた女の子に『富田さんって面白いよねー』と言われ、頭をくしゃりとされた。

 そんなこと家族以外にされたのは初めてで、あたしは目を丸くした。

 そして、そっと顔を伏せる。


 見なくても分かっていた。

 こんな時でもきっと、埼坂邦宏はにこりともしていないんだろう、なんて。



* * *



 あたしは持ってくるように告げられた暗幕の数を頭の中で繰り返しながら、例のプレハブへと向かっていた。

 埼坂邦宏がいきなりあたしを連れ込んでキスしていったあのプレハブだ。

 もうあれから数日が経ったが、あたしたちの間に会話はまったくない。


 がらがらと戸を開けると、案の定こもったようなにおいのするプレハブの中は、無人だった。

 そこは、早い話が、しまい場所に困った物々を放り込んでおくための倉庫のようなものだ。

 文化祭でもなければまったく使い道がないに違いない暗幕や、大量の刷毛や絵筆、何代も前の文化祭の時の看板と門の飾り。

 とにかくそういったもので溢れている。

 運営の生徒に使う用具の数とクラスを伝えるだけで自由に使えるから、こういった行事なんかのときは便利と言えば便利だ。


 大きなビニール袋に乱雑に詰められた暗幕を探し出すのにどれだけの時間がかかったのかは覚えていないが、ふと顔を上げると、ただでさえ薄暗いプレハブの中は、一層その暗さを増していた。

 ようやく暗幕を見つけるまでに至ったのはいいものの、その大きさのせいかたたまれた暗幕はびっくりするほど重くて、頼まれた数どころかひとつだって運んでいくのは無理そうだ。


「あーあ……」


 途端に気が抜けた。

 ぼすん、と引っ張り出した暗幕の上に寝転がる。あたしが身体を預けた拍子に、埃が舞った。

 ごろり、と転がり、猫のように、母のおなかにいた頃のあたしのように、身体を丸めた。

 こうすると世界の何もかもから身を守っているような気がする。

 

 あの日以来、埼坂邦宏のことは極力考えないようにしていた。

 どれだけ考えたって、あたしと埼坂邦宏の間にあったコミュニケーションがあまりにも少なすぎて、結局は行き詰るのがオチだった。

 考えても無駄なら、何もしない方がずっとマシだ。


 馬鹿みたいなことでいちいち喜んだり悲しんだり、そういうことにはもううんざりだった。

 あたしは、その感情の動きが何を示すのか、考えもしないで。


 とろり、とやってきた眠気に身を任せた。制服の上から柔らかにあたしをくるむ暗幕は、案外優しく、あたたかなものだった。




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