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「待っ、ちょっと…埼坂君、待っ」

「……黙って」

「…っふ、ン」


 彼の肩を渾身の力で押した。

 あたしの力によってではなく、多分彼自身があたしの様子をうかがうために唇を離した。

埼坂邦宏が、慌てて何が何だか分からなくなっているあたしを、えらく冷静な顔で見下ろしていたが、しばらくすると、再び無言で口づけられた。

 いったい何をしてるんだろう、とぼやけた頭で思う。

 息ができない。

 正真正銘初めてのキスで、つまりファーストキスっていうやつで、でもそういうのってこんな風に壁に身体を押しつけられてされるものなんだろうか?

 空気を求めてかすかに開いた唇から、こじあけるようにして彼の舌が入ってきた。

 ぬるぬるして、熱くて、頭の奥がじんとする。

 彼の舌は傍若無人にあたしの口の中を犯していく。

 気持ち悪いばかりだったその感触が次第に変わっていった。

 彼の肩を押していたあたしの手は力なく彼の胸元へと垂れていって、厚い胸元に押し当てるだけになっていた。Tシャツ越しに感じる埼坂邦宏の皮膚、筋肉。

 あたしの手が汗ばんできたせいか、掌が触れている部分の生地は、じっとりと湿ってきていた。

 もう限界だ、と思う頃になるとあたしを解放し、息継ぎした途端また乱暴に唇を貪る、というのが何度か繰り返された。

 その途中、彼があたしの耳元で「…鼻」とだけ呟いたのは、鼻で呼吸しろ、の意だったのだろうが、そんなこといきなり無理だ、とぐずぐずに溶けてろくに働かない頭で思った。

 その時の埼坂邦宏の声はじんわりと熱がこもっていて、それを聞いた瞬間、わっと背筋を何かが走った。それがいったい何なのか、あたしにはまったく分からなかったけれど。

 二人の間から漏れる湿った音が、ひどく淫猥に聞こえて、あたしは耐えきれずにぎゅっと目をつむった。



 終わりは始まりと同じく唐突にやってきた。

 彼の右手はあたしの腰に添えられていて、左手は顎を掴んでいた。

 離す前に、下唇を吸われた。

 ようやく唇を離したとき、埼坂邦宏のそれはてらてらと濡れて光っていた。

 それがあたしの唾液だと悟った瞬間、かっとものすごい勢いで頬が赤くなったのを感じた。顔の温度が上がる。

 彼は無言で下に落ちていたビニール袋を拾い上げると、そのままプレハブから出て行った。

 ずるずると、くず折れるようにしゃがみこんだあたしを、ひとり残して。



***



 教室に戻る途中、トイレに寄った。

 蛇口をひねり、ばしゃりと冷水をかけて、顔を上げる。

 情けない顔をした女が、途方に暮れた顔でこちらを見ていた。

 スカートのポケットに入れていたハンカチを取り出して、少し乱暴に感じるぐらいの強さで顔を拭く。


『口、開けて。』

『…鼻』


 ああ、もう。

 何もなかったような顔で今から埼坂邦宏と顔を合わせるなんて、無理だ。

 あたしはそんなに器用じゃない。


 訳が分からない。

 さっきのあれはいったい何だったんだろう。

 欲求不満?

 でも、埼坂邦宏にはちゃんと国見さんという文句のつけようがないほど可愛い彼女がいるはずだ。

 敢えてわざわざあたしを相手にする必要はないはずだ。

 いやがらせ?

 それはあり得る。でもなぜ?

 あたしが埼坂邦宏の気に障るようなことを何かしただろうか?

まったく心当たりはない。

 あたしと埼坂邦宏は今までほとんど何も接点がなかったし、同じクラスになってからでさえほとんど話をしたことがないくらいだ。

 あんなことをするほどあたしのことを嫌いになる理由がなにかあったのだろうか?

 一度考え始めると、埼坂邦宏の何もかもが分からないことだらけで、なんだか空しくなった。

 埼坂邦宏にとってはあたしが好きだったことなんて、もうきっと遠い遠い昔のことなのだろう。

 埼坂邦宏の態度を見ていると、むしろ嫌われているのではないかとさえ思えてくる。


(……あたしのこと好きだって言ったくせに)


 他の子にはにこにこにこにこ笑うくせに。

 あたしにだって、少しぐらい、せめて他の子と同じくらい、優しくしてくれたって、いいでしょう?

 何もあんな怖い顔しなくたって。


 泣きそうだった。

 どうしてだろう。

 でもなぜだか、泣きたくて泣きたくてたまらなかった。

 誰かに無性に頭を撫でて大丈夫だよ、と言ってほしくて、咄嗟に浮かんだのが埼坂邦宏の顔だったことに、余計落ち込んだ。

 今の埼坂邦宏は、間違ってもそんなことはしない。

 国見さんが涙目でいたらそっと慰めるだろうけど、あたしがべそかいたってあの冷たい目でじろりとやるだけだ。

 

 あたしは別に埼坂邦宏のことを好きなわけではないと思っていたのに。

 それならどうしてこんなことを考えて、ひとりでぐるぐるしているのか。

 がらんとした女子トイレで一人。

 ぽたりと顎から水滴が伝って、洗面台をぎゅっとつかむようについた右の拳に落ちた。




 埼坂邦宏から、何もかも吸いつくすような熱く深いキスを受けた日、ふと顔を上げると、窓の外はくらくらするぐらい強い日差しで照らされていた。



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