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ちょうどレジで精算をしているときに、ぶらりと埼坂邦宏は現れた。
それまで店の中を歩き回っていたのか、それとも近くのコンビニまで出ていたのか、あたしにはまったく分からないが、タイミングがいいことだけは確かだった。
「終わった?」
「…うん」
あたしがそれ以上何か言う間もなく、レジから少し離れた台の上に置かれたビニール袋をさっと奪った。
その瞬間目に入った頑丈な腕に、あたしはしばし見惚れた。
浅黒い肌に、骨太な印象を受ける腕。ごつごつした無骨な指が、ふたつある大きな袋をまとめて掴んだ。
「…なに、富田さん」
「……え?」
半分歩きだした埼坂邦宏が、怪訝な顔をしている。
その顔にはありありと「急げよ」と書かれていて、あたしも慌てて歩きだした。
(機嫌悪い…よね?)
いくら鈍感な人でも、さすがにここまでされれば気づく。
埼坂邦宏は何故だか買い出しの間中、必要最低限の会話しかしないし、あたしのことを鬱陶しがっているように見えた。
埼坂邦宏の機嫌を損ねるようなことを、あたしがした覚えもない。
埼坂邦宏が中学時代、あたしのことを好きだったなんて嘘みたいに思える態度だ。
彼もまさかあたし自身がそのことを知っているとは思わないだろうし、別に直接告白されたわけでもないから、そのことであたしが気を使う必要は全くないはずなのに、あたしは高校に入ってからもずっと、どこか心の片隅で埼坂邦宏のことを意識し続けてきたような気がする。
彼が高校に入って最初の彼女を作ったとき、あたしはひそかに失望したのだ。
埼坂邦宏が好きになっていたとかそういうことでは全然なく、ただ、誰も好きになってくれそうになかったあたしを唯一受け入れてくれた人だと思った。
埼坂邦宏だけだったのに。
その瞬間、鼻の奥がツンとして、ぐしゃりと胸の奥のどこかがひしゃげた気がした。
馬鹿みたいだけど、自分でもそんなことくらいで、と思うけれど、埼坂邦宏の冷淡な態度にあたしはなんだか裏切られたような気がして、無性に哀しくなった。
裏切られたも何も、唯一同じ中学校出身だというのにあたしたちはろくに話したこともないのだから、何の関係もありはしないのだけど。
情けない顔を人前に晒したくなくて、ふっと顔を伏せた、その瞬間、
「富田さん!!」
耳元で大声。誰の声か分からない。埼坂邦宏?
あたしの身体は事態を把握する前に、ぐらりと傾いで、どさりと何かが落ちる音がした。
その数瞬のちに、あたしの鼻先を物凄いスピードで車が走り去っていった。
プァーン、とどこか間の抜けたクラクションの音が響く。
「馬鹿野郎!ボケっとしてんな!赤なんだよ!!」
「あ…」
とすん、とあたしの身体は驚くぐらい簡単に埼坂邦宏の腕の中におさまった。
信号が赤なのに気づかず、埼坂邦宏に無理矢理引き寄せられたのだと悟るのにもう数秒かかった。
足元にはビニール袋が落ちていて、頭の中で『割れものが入ってなくてよかったなあ』とどこかピントの外れたことを思った。
「ぼうっとしてた…ありがとう」
「……車来てるのに、富田さんがふらふら進んでいくからビビったよ」
埼坂邦宏は、苦笑というのはやや苦みの強い笑みを少しだけ浮かべて、あたしの腰にまわしていた腕をそれとなく外し、身体を離した。
その時、埼坂邦宏の身体から、汗の匂いがふわりと香った。
不思議と、嫌な感じはしなかった。
二人でビニール袋を持って無言で歩いた。
学校の敷地に入ると、だんだん文化祭の準備をしている生徒たちの声が聞こえてくる。
「もう今年で終わりだね、こういうのも」
何の気はなしに言った。
ああ、こんな風に過ごせるのも今年が最後なのだな、と思ったのだ。
返事がなくて(まあ、期待はしていなかったけど)ふと様子をうかがうと、恐ろしいまでの無表情で、埼坂邦宏があたしを見下ろしていた。
思わずごくりと息を呑む。
埼坂邦宏は両手で抱えていたビニール袋を片手でひとまとめにし、空いた右手であたしの手首を掴んだ。強く。
「え?…埼坂君?」
彼は構わずに歩いていく。教室の方向ではない。
あたしの手首を握ったまま、ちらりともこちらを見ずに歩いていく。
店のロゴの入ったビニール袋ががさがさと音を立てていた。
「埼坂君?…ちょっと、待って」
埼坂邦宏がペースを緩めることなく歩いているせいで、腕を掴まれたあたしは半分小走りだ。
買い出しに出かけたときと同じような構図だけど、ひとつだけ違うのは埼坂邦宏の手。
痣になるんじゃないかというぐらいの強さだった。
彼が触れている部分が、熱い。
彼の掌が熱いのか、それともずっと握られていることであたしの腕が熱くなったのか。
じりじりと。
「埼坂君…!」
彼は乱暴な手つきで古いプレハブの戸を開け放った。
一つしかない窓から光が差し込んで、舞い上がる埃の筋を作っていた。
ようやく埼坂邦宏があたしの腕を離したのと、あたしの肩をプレハブの壁に押し付けたのはほとんど同時だった。
「埼坂く、」
途中であたしの台詞はぶち切られた。
まるで唇に噛みつかれたようなそれがキスだと分かったのは、意味も分からずがむしゃらに暴れて彼の顔を引き離した時で、彼はあたしの瞳の奥までも覗いてしまえそうなぐらいじっと見つめると、顎を掴んでいた指に少しだけ力を入れて、ようやく口をきいた。
「口、開けて。」