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もうやめてほしい、と思った。
そんなに簡単に心の内を漏らすのはやめてほしい。
あたしに挨拶するぐらいであんなに緊張するのも、
あたしに無視されたと感じてあんなに切なそうな声を出すのも、
周りの友人たちに『お前の趣味悪すぎるよ』と言われるたびに顔を赤くして怒るのも、
ふと授業中に顔を上げると、さっと目をそらすのも、
なにもかも、もうやめてほしい、と思った。
いったん気づいてしまえば今までどうやって隠していたんだと思うほど、彼の想いは筒抜けで、知らなければこんな風に自惚れることもなかったのに、と後悔する。
なにもかも、もうやめてほしい、と思うけれど、でもあたしのことを好きでいるのはやめないで、と思っている自分が少しだけいる。
ほんとに、ほんの少しだけ、だけど。
* * *
「真ー帆ー、まほまほまほまほー」
ちなっちゃんがぐったりした顔で呪文のようにあたしの名前を呼び続ける。
慌ててガムテープ片手に走り寄った。
「ここ押さえてるから、真帆はテープ貼って」
「うん」
模造紙を押さえるちなっちゃんの手元から、紙の端までずれないようにテープを伸ばす。
「大道具で背景なんてほとんど仕事ないと思ったけど、大間違いだ。ホント」
大判の模造紙を何枚か貼り合わせたものを作るのが今日のあたしたちの作業だった。
大道具はあたしとちなっちゃんとクラスの女の子がもう2人。
よく日のあたるベランダの向こう側で、その2人が同じように模造紙をガムテープで貼り合わせている。
大道具なのに男手が全く無いのは、設営は別の班がすることになっているからで、あたしたちの仕事はここに背景を描くまで。
描いた背景を木枠に貼って、舞台に設置するのは設営の仕事。
「今日は残ってる分終わったらやめにしよ」
「そうだね」
横に重なった、まだ全く手をつけていない模造紙を見て、くたびれた顔でちなっちゃんが言うのも無理はない。
ちなっちゃんは写真部の部長でもあるのだ。
この時期、文化部の部員は相当ハードな日々を送ることになる。
それもこれも、『学生たちの自主性を重んじる』とかいう学校の方針で、文化祭の運営のほとんどの部分が生徒に任せられているせいだ。
企画のための純粋な作業もだが、それよりもそれらの作業に伴う事務作業のほうがずっと多いのだった。
その間先生たちが何をしているのかはまったく謎だが、先日写真部の企画の企画書を顧問に持っていったちなっちゃんが言うには『準備室のソファーで寝てた』らしい。
そのうえ、あたしたちは文系クラスの3年生だ。
「だいたい、なんでいつも文系3年は劇なわけ?ひと月半で準備って相当無理があるよ」
ぶうぶうとちなっちゃんが文句を言うが、こんなことをいうのもあたしの前ぐらいなものなので、黙って頷いておく。
別に文系3年が劇をしなければならないと決まっているわけではないが、しかしこの学校では毎年そうだった。
文化祭まで残された時間もあとわずかということで、放課後になっても教室の中は作業をする生徒でざわめいている。
時折、ユニフォーム姿の生徒が顔を出すこともある。
埼坂邦宏ら役を割り当てられた生徒は、ベランダに出て台詞を合わせている。
「富田さん」
ふと頭上から声が降って来て、顔を上げた。
「…松本君」
「手伝おうか。俺、今出番じゃないから暇なんだよ」
松本君とはこの間、一緒に映画を観に行った。
あたしは一緒に観た映画の感想も大してうまく言えないし、そのあとの食事代も多めに負担してもらうしで申し訳ないばかりだったけど、松本君が気にしている様子はなさそうだ。
「あー、…いや。いいや。多分すぐ今やってるシーンの練習も終わるでしょ?そしたら、松本君に悪いし」
宙ぶらりんになったままの彼の好意にいたたまれず、「ごめん。せっかく声掛けてくれたのに」と付け足した。
「いや、いいよ。っていうか、こっちこそ気使わせて悪かったな。なんか」
そう言って笑う松本君には非のつけようがないからあたしは困る。
「松本、ほらフラれたんなら早く行きな」
ニヤニヤ笑いながら、しっ、しっと犬を追い払うようなしぐさをしたちなっちゃんに、
「うわ、なんだそれ。やめろよ」
と笑いながら去っていく。
「……どうも」
「別に?」
しかし、ちなっちゃんはニヤニヤ笑いを顔に張り付けたままだ。
「……なに、ちなっちゃん」
「松本ねえ……あたしはいいと思うけど」
「そんなんじゃないから」
ぴりり、とガムテープをちぎる。
決して『そんなんじゃない』わけないと、ちなっちゃんも、それどころか あたし自身も分かっているのに、結局、ちなっちゃんはそれ以上何も言わなかった。
ちなっちゃんは、優しい。
一息ついて立ち上がると、丸めた台本を手に、じっとこちらを見ていた埼坂邦宏と目が合った。
ぎくり、と一瞬身体が強張る。
埼坂邦宏はふいっと何もなかったかのように視線をそらして、劇の練習をする生徒の輪の中に戻った。
「真帆?」
立ち上がったまま動こうとしないあたしを不審に思ったのか、ちなっちゃんがあたしに声をかけた。
「…ん?」
目を閉じても思い出せそうだった。
さっきの彼の眼差しは、中学生のあの頃よりもずっと暗く、冷たい、硬質なものだった。