二部 16 ―埼坂邦宏―
何年もずっと、近づきたい、触れてみたい、俺のにしたい、と思っていた身体が本当にすぐ側にあって、でも俺はその身体を抱きしめることさえできない。
彼女はいつも俺に背を向ける。
そして、それは俺自身のせいだ。何もかも。
まさぐった胸がそんなに大きくないことは、もう最初から分かり切っていたし別に何の不満もないけれど、その白さと柔らかさに、毎度、俺は一気に思考が鈍った。
女とこうするのは初めてじゃないくせに、毎回毎回。
その先端を口に含むと、彼女はその身をよじらせた。
張りつめたように薄い彼女の肌は、簡単にその色を赤らめる。
俺はいつものように富田さんを抱き、彼女は一度たりとも俺に縋りつかずに声を押し殺して、やはりいつものごとく抱かれた。
俺が彼女とこんな不毛な関係を無理矢理繋げて、3か月が経とうとしていた。
* * *
中学生のころ。
初恋だったというわけでもないのに、あれからずっと俺は強く執着し続けている。
彼女は、自分とは全然違って、いつも俺が一緒にいる連中とも違った。
だからこそ今になってもずっと彼女に執着して、こんなにみっともないのかもしれない。
彼女――富田真帆とは、中二になって初めて同じクラスになった。
とはいえ、同じクラスになったからと言って仲良くなるような相手じゃなかったけど。
しばらくして前から彼女を知っていた奴の話や、クラスでの彼女の様子で、彼女がどんなふうなのか知っていった。
眼鏡で、陰気。
暗くて滅多に笑わないのは、口を開いた拍子にぎらりと光る歯列矯正器のせいだろうか。
適当に結ばれた髪の毛は野暮ったく、話をするのは数少ない友人くらい。
取り柄と言えば勉強くらいで、馬鹿みたいに頭がいい本の虫。
彼女にまつわる事柄で、俺たち男連中に良い印象を与えるようなものはほとんどと言っていいほどなかった。むしろ、関わらないでいれたらずっとそのままでいい、ぐらいの相手。
それなのに。
俺はあっけなくそのありえないと思っていた彼女相手に、恋に落ちた。
すとん、と。抵抗する間もなく、それはもうあっという間に。
* * *
夏休み明けの学校は完全に体育祭一色だ。
8月の下旬からとっくに夏期講習は始まっていたし、3年の連中は皆、夏休みの間中、体育祭の準備に取り掛かっていたわけだから、今更改めて始業式なんかやっても大した意味はないのに、学校っていうところはいちいちこうしたことの区切りをつけなきゃなんないようになってるらしい。
授業は午前中だけ。残りは全て練習と準備にあてられる。
グラウンドの砂は舞いやすく、髪に手を突っ込んだらざらざらと砂が落ちてきそうなぐらいだ。
吹きつける砂だけでなく、汗で余計に肌がべたつく。
日没の遅い夏だというのに、もう辺りは暗かった。
あとは家に帰るだけだというのにわざわざ制服に着替えるのも面倒で、俺はカバンに制服と靴を突っ込み、体育祭の準備期間は皆履いているビーサンをつっかけて、チャリ置き場へ向かった。
今日は金曜だから、彼女が家の近くのバス停で待っているはずだった。
俺は、自分がいつもよりずっと急いでいるのを自覚しながら、Tシャツで汗を拭った。
どうして彼女がわざわざ俺の馬鹿みたいな衝動に付き合ってくれているのかは分からない。
それが今のところ彼女に関するあれこれの中で一番疑問だったが、俺にそれを直接問いただすような勇気があったら、今頃こんなことにはなっていない。
文化祭の後夜祭。
俺は、彼女を学校で押し倒した。
なぜか彼女は抵抗しなかった。
『……。暴れないんだ?この間みたいに』
『……あたしが暴れても埼坂君相手じゃ意味ないし』
カッ、と血がのぼった。
彼女の唇に無理矢理舌を押し込んだ。
夢中で彼女の舌を吸い、口の中をひとつずつ確認するみたいに、舐めあげた。
するりと制服の下に掌を滑らせた。
彼女の肌は思ったとおり滑らかで、しかし、予想外に彼女の肌は温かく、いや、熱かった。
その温かさが、これは現実に彼女の肌なのだと俺に思い知らせた。余計に俺の中でくすぶっていた熱が上がる。
物音がして、びくりと彼女が肩を揺らした時、彼女の唇が松本の名前を途中まで、音もなく紡ぐのを見て、その声を無理矢理奪うかのように再び口づけた。
――松本。
あいつには話しかけ、笑うくせに。
俺を見た途端、いつも彼女の顔は強張る。数瞬前の表情の残滓を貼りつかせて。
以前、あいつが、富田さんと映画を見たことがあると言った時からあいつのことが大嫌いだ。
人当たりも愛想もよくて、ソツがない。
彼女のこととなると馬鹿みたいになる俺とは大違いなんだろう、きっと。
あの日、彼女は準備室に残して去ろうとする俺を呼びとめた。
『埼坂君はどうしてあたしとシたの、今』
行為の名残か、どこかとろりとした眼差しを向けて、彼女は言った。
腕の中にいる間だって、ひとときも気は晴れなかった。
身体はすっきりとしたはずなのに、腹の底に泥がたまっていくようだった。
無性にその顔を歪ませたくなって、俺の言葉で傷ついている彼女が見たくて、俺は投げやりに言い放った。
『理香とじゃいきなりこんなとこでこういうふうにはいかないだろ』
最低だ。
* * *
文化祭で上演する劇の練習の合間。
クラスの女子の話で盛り上がった。誰それがかわいいだの。あいつは無いだの。
『富田さんって割とかわいくない?』
『きれいな感じなのに、なんかたまにどっか抜けてるよな』
『あ、お前そーゆーのがいいの?』
笑い声が上がった。
俺の視線の先には、仲がいいらしい相沢千夏と作業している富田さんの小さな背中がある。
『割とかわいくない?』だって?
俺は、こんな連中が彼女を知る前から、彼女を見てたのに。
* * *
道中かなり急いだにも関わらず、やはりバスの方が速いらしく、彼女はぽつんと点いた街灯の下、所在なさげな顔で立っていた。
自転車から降りる。声は掛けない。
俯いていたせいで、彼女が俺に気づくのには少し遅れて、でも俺も彼女も何も言わなかった。
そのまま歩きだす。
俺は自転車を押して歩き、その数歩後ろを彼女がついてくる。
未だ激しく鳴き続ける蝉の声にも、俺は荒むばかりだった。