Interval 15 ―松本照也―
最近の彼女はどこかぼんやりとしている。
松本照也は授業そっちのけで、自分の席の斜め前をじっと見ていた。
照也がいつも『富田さん』と呼んでいるその彼女に、自分の想いを打ち明けたのは、もう1カ月も前になる。
文化祭の準備でどこか気持ちの浮かれたあの日の夜。
彼女の体温をすぐ横に感じていたのも、きっとそれに拍車をかけた。
初めて彼女を見かけたのは2年の時。かわいい子だな、と思った。
3年に上がって同じクラスになって、何度か遊びに誘って、二人きりで出掛けるそれに彼女はなんとも思わなかったのか、それとも何か感じていてそれでも敢えて誘いに乗ったのかは分からないが、ともかく。
見た目と違ってものすごく人に遠慮するところとか、気配りやなところとか、そのくせ案外マイペースなところも気に入った。
そのままいけばうまく付き合えるのではないか、と思っていた。
その考えを改めたのは、文化祭が近付いた頃のことで、彼女に告白したときには自分にはもうどうにもできないのだと分かっていた。
彼女がいつもじっと見つめる先は、照也でなく、埼坂だったから。
照也の視線の先の彼女は頬杖をついていた。夏服から伸びた白い手がくるりと1度だけ手の中のシャープペンを回して、ようやく目の前の黒板を追って動きだした。
* * *
この暑いのにわざわざこんなとこで体育をさせようとする教師の気が知れないあちぃし信じられねえぐらいあちぃし、と誰かが喚いて、照也の隣にいた埼坂が、ばっかじゃねーのお前、と言って笑った。
うちの高校には新旧あわせて二つの体育館がある。
清潔で近代的なつくりの新体育館は案の定女子の体育にあてがわれているので、古く天井が落ちそうで、極めつけにとても蒸すこの旧体育館に集められた男子は不満たらたらだ。
ここで1時間バスケをやれというのだから、まあ不満も漏れようというものだ。
コート数の関係で、余った連中はしゃがみこんで無駄話に興じている。
いつもならその輪の中心にいるはずの埼坂は、先ほどとはうってかわってむっつりした顔で黙りこみ、照也の隣に座り込んでいる。
こいつほど分かりやすい奴もいないだろうにな、とここにいない彼女のことを思って、照也はひっそりと苦笑した。
それを目ざとく見とがめてますます埼坂が嫌そうな顔をするのも、もちろん分かり切ったことだった。
* * *
文化祭最終日の後夜祭。
照也は今でも、あの日下手に彼女を探すんじゃなかった、と後悔している。
そんなことをしなければ、無人の教室で埼坂に押し倒されている彼女なんか見なくて良かったはずだし、後日、見ている方がかわいそうになるほどぎくしゃくした様子で彼女が照也に謝るようなこともなかったはずだ。
それもこれもほとんどは埼坂のせいだろうが、とさすがに苦々しい気持ちで、照也は思う。
無理矢理想いを遂げようと彼女に詰め寄る気は毛頭ないし、むしろ彼女にはうまく行ってほしい、照也は思っている。
彼女の言うとおり、自分は割とモテる。自慢でもなんでもなく、それは事実である。
しかし、お人好しすぎるのが一番の欠点で、だからこそここぞという時の押しの弱さは致命的だ。それらをすべて自分で重々承知しているくせに、どうしようもないのだから、困る。
文化祭が終わって代休を含めた2日間の休みが明けたその日、放課後彼女に連れて行かれたシアトルズカフェで、丁重な断りの言葉を今度こそはっきりと告げられた。
『で、富田さんは埼坂と付き合うことになったんだ?』
『あー、いや…それが』
彼女曰く、というか彼女の言葉をそのまま丸々借りれば、
『埼坂君は別にあたしのことを好きとかそんなんじゃなくて、なんていうか国見さんは大事にしたいけど、でもこう、溜まるもんは溜まるみたいな』
訳が分からない。
『何?あいつ、国見さんとまだ別れてないの?』
『あー…たぶん』
馬鹿か。
あいつは馬鹿か。
照也が、埼坂のいるところで彼女に話しかけようものならば、即刻射殺しそうな目で見てくるくせに。
お前は彼女に指一本触れるなと言わんばかりに。
それなのに、当の本人は一言たりともそんなことは言ってないらしい。
どころか、『国見さんの代わり』?
何だよ、それ?
埼坂のあまりの行動に黙り込んだ照也を見て、何を勘違いしたのか彼女はひどく慌てて、
『でも別にひどいことはされてないよ?キスして、普通に、その、して、それで終わり』
照也は深く、長いため息をついた。
『松本君?』
富田さんも大概ばかだ。
その日、照也は知りたくもないことをたくさん知った。
ずっと好きだった彼女がクラスメイトの男に抱かれたこととか、太股のほくろがエロいと言われたらしいことや、そのまま置き去りにされたこととか、でも彼女はやっぱりその男が好きだということ。
混乱して、そのうえ、慌てている彼女はもはや自分が何を言っているのかもあまりよく分からないようだった。
結局、彼女が言いたかったことは、国見さんに知られると埼坂がやっかいなことになるだろうから、黙っていてほしいということだったようだ。
言われなくてもこんなこと人に言いふらしたりはしないし、だいたい、埼坂なんて一度やっかいなことにでもなればいいのだ。
話が終わった頃にはそう思うまでに至っていた。
彼女を落ち着けるために軽食をすすめ、自分はもう1杯コーヒーを頼んで、彼女の反対を押し切って全額照也が払った。疲れ切った表情で。
日没が遅くなり、夕暮れにかすむ道を二人で歩きながら、それにしてもどうして埼坂は彼女のこととなるとそうひねくれ曲がったことになるのだろう、と思っていた。
埼坂は文転してきたから、2年の頃がどんなだったのか知らないが、器用で人懐っこそうな奴という印象だったはずだが。現に、知り合いがほとんどいなかった新しいクラスでもうまくやっているし。
『埼坂と富田さんって前から知り合い?』
『中学校が一緒だったよ。うちの中学からここに来たの、あたしたちの学年では、あたしと埼坂君だけだったから』
なんで?と言いたそうに見上げてくる彼女に、曖昧な微笑を返して、はあ、なるほど。と照也は思った。
* * *
「おい、松本。何、ぼけっとしてんだ。行くぞ」
そう言い捨てて立ち上がった埼坂の背中を、慌てて追った。
自分の悪いところはお人好しすぎるところだ。
だから、なんとかしてやらなきゃならないっていう気になるんだろうな。
「おい、松本!」
埼坂が怒ったように照也の名前を呼ぶ理由は、単に照也が来るのが遅いからだけではないともう知ってしまっている。
照也はもう自分に染み付いてしまったような気がする苦笑をまたしても浮かべて、汗ばんだTシャツをつまんでパタパタすると、軽く手を上げて見せた。