一部 1 ―富田真帆―
中学生のころ。
あたしは眼鏡をかけていて、クセのある猫っ毛を校則に違反せずになんとかするにはおさげにするくらいしか方法がなかったから、いつも黒いゴムで結んでいた。
眼鏡の分厚いレンズは、あたし自身が唯一自分の中で好きだった瞳をしょぼしょぼと見せたし、歯から歯へとわたされた銀色の金具を見られるのが嫌で、ずいぶんと無口になった。
その歯列矯正器具のせいで、あたしの口の中は常に傷だらけだった。
ごく限られた親しい友人とだけ話をし、笑うのもその子たちの前でだけ。
当時のあたしの取り柄と言えば、人よりテストの点が取れるらしいことぐらいで、親しい友人以外からは皆名字にさん付けで呼ばれるような子だった。
自分は、間違っても男の子と楽しげに話したり、付き合ったりできるような人種じゃないと思っていた。
あの頃のあたしは、自分で自分が好きになれなかった。まったく。
だから、赤の他人があたしのことを好きになるはずもないと思っていた。
だというのに、彼は言った。
『富田さん、あれでけっこうかわいいとこあんだって。俺、そういうとこ好きなんだよ』
赤くなった顔で。重ねて言った。
『俺が好きなのは富田さんだよ。もういいだろ』
周りの男の子たちが大騒ぎをする。
曰く、『お前目がおかしい』、『趣味悪すぎる』、『理解できん』。
散々からかわれていた。
あたしはドアにかけていた手を引っ込め、逃げるように去った。
埼坂 邦宏が茶化される声を、背中で聞きながら。
埼坂邦宏はよく喋る。
クラスの男子の輪の中には必ずいて、いつも馬鹿みたいな話をしては笑っている。
モデル並みに男前というわけでも、見られないぐらいのブサイクというわけでもない。
中学生になったばかりに初めて見かけた時はそう大きいという印象を持たなかったが、伸び盛りなのか、中学3年生になった頃には、周りの男子より頭一つ分高かった。
成績は中の上。目立っていい、という感じではない。
ただ、足だけは速かった。そのくせ彼自身は陸上部員でなく、野球部員だった。
その調子の良さで、彼は男子から人気があった。モテていたのかどうかはまったく分からない。あたしには、そういう話がほとんど流れて来ないから。
あたしはどちらかと言えば彼を嫌っていた。調子よく騒いでいれば何でも許されるのか、と常々彼を見て思っていたから。
あたしのことを好きだといった埼坂邦宏だが、彼とあたしが会話をしたことは数えるほどしかなかった。
* * *
高校に入ってからは、周りがかわいい子たちばかりで驚いた。
歯列矯正器を外し、眼鏡をコンタクトに変え、クセっ毛に軽くパーマをかけたあたしは、驚くことに、それなりに男の子たちの興味をひくらしい。
何度か映画や食事に誘われ、そのうち二度ほど付き合ってほしいと言われたことがある。本当に驚くべきことだ。
「いったい何にこだわってるのか知らないけどねえ、1回ぐらい付き合ってみたら?ためしに」
「でも、好きでもなんでもない相手だよ?無理無理」
そもそも、あたしは誰かをまともに好きになったことさえないのだ。
誰かを好きになっちゃいけないと思っていたから。
「そんなこと言って、ちなっちゃんこそどうなったの、あれ。サッカー部の」
「正彦でしょ。あー、別れた別れた。もうこのあいだ別れた。あいつ、彼女を女房か何かと勘違いしてるね、絶対。私はああいうの、無理だから」
ちなっちゃんとは高校入学以来の仲だ。
まだ入学したばかりのころ、垢抜けないあたしに気負いなく話しかけてくれたのは、ちなっちゃんだった。
彼女の名前は『千夏』だが、みんなからは『ちなっちゃん』『ちなっちゃん』と呼ばれている。
ちゃん付けすると、自然とそうなってしまうのだ。
それにその呼び名はアネゴ気質で面倒見のいいちなっちゃんの性質をよくあらわしているようで、あたしは好きだ。
ちなっちゃんの短くうなじにかかった髪が、風に揺れた。
強いカールをかけた外国の少年のようなショートカットは、ちなっちゃんぐらいきれいじゃないときっと似合わない。
「ふー…ん、結構いい人そうだったのにね」
「あれは付き合うまでよ。あー、失敗した」
ちなっちゃんが、ローファーでこつんと落ちていた石を蹴とばした。
うちの高校に掃除の時間、というのははっきり決められていない。
放課後になったら、当番になったものがめいめい割り当てられた場所へ行って、掃除をすることになっているが、サボろうと思えば簡単にサボれる。
その証拠に、埼坂邦宏が慌ただしくスポーツバッグを手に駆けていった。
掃除区域も当番もあたしたちと同じなのに。
「あー、今の埼坂じゃん。あいつ、掃除出たことあんの?」
「…まあ、部活で時間ないんじゃないの?」
「そんな人間いっぱいいるよ。それでもちゃんとやってる人だっているんだからさ」
ちなっちゃんはあたしが持っていたほうきもさっと取り上げて、手早く掃除用具入れに押し込んだ。
あたしはぼんやりと彼の後姿を見送った。
あたしの通っていた中学校からこの高校へ進学したのは二人だけだ。
あたしと、埼坂邦宏だけ。