閑話 「母の不安」
ぱたん、と息子の部屋の扉が閉まる。
「ふぅ」
安堵と疲れの混ざったため息をついたわたしを、夫であるガリオが少し心配そうに見下ろす。
「キーラ。大丈夫か?」
「……ええ。平気よ。少し……そう、少し疲れただけ」
あのままダットの記憶が戻らなかったら、って不安で眠れなかったんだもの。
一連の出来事はあまりにわたしの理解の範疇を越えていたし。
夫と息子、二人が深刻にならなかったからこそ、最後は和やかに話を終わらせることができたけれど、きっとわたしだけなら未だ混乱していただけだったでしょうね。
「ガリオ」
「うん?」
「ありがとう」
わたしは朝食の準備のため、一階の台所へ。ガリオも自警団用の装備は一階に用意してあるので一緒に階段を下る。
その最中にお礼を言うと、ガリオは厳めしい顔に笑みを浮かべた。
「気にするな。夫婦だろう」
「……言いたいのよ。言わせてちょうだい」
本当は言葉では足りないくらいなのよ。
初めて出会った十二年前も、いまもそれは変わらないわ。
いつもいつも、ガリオには助けられているもの。
暴漢に連れて行かれそうになっていたところを助けてくれて、魔物の襲撃があったときも町のために戦ってくれて、父が死んだときも慰めてくれて、結婚しようと言ってくれて。
なにより。
子供を……ダットを授けてくれた。
大好きな、たったひとりの人。
一人では立てないときも、この人が側にいれば立っていられる。
二人でならきっと、ダットを……
「ねえ。ガリオ」
「うん?」
「……大丈夫、よね。あの子」
最初からあの子は不思議な子供だった。
例えば、彼が一人でいる時。
ふとした瞬間に中空を見上げて何かを呟いていたりした。
子どもとは思えない切なげな表情をしていたわ。
だから、ダットがそんな目をする度に抱きしめるようになった。
四歳を過ぎて、やっと「友だちができた」って言ってくれたときにはとても嬉しかったのを覚えてる。
それからダットが一人で空を見上げることは減って安心していたのだけれど。
その一年後。
ダットの五歳の誕生日の翌日だっと思う。
大雨で雷も鳴っていた。
ダットは意外と性根が据わっていて、いつも雷を怖がらない。
むしろ興味があるようで、この日も窓の外を走る稲妻をじっと見つめていた。
「ダットは雷が好き?」
それは何気ない問いかけだった。
ダットは振り返ってにこりと笑うと、まるで昔を思い出すようにこう言った。
「うん。なつかしい」
このときばかりは、聞いたことを後悔したわ。
五歳の子どもとは思えないような顔をしていて、わたしは衝動的に彼を抱きしめた。
この子は一体、何を背負って生まれてきたの……?
はじめてそんな疑問がわたしの中を過ぎった。
そのときのわたしはまだ前世なんていうものがあることを知らなくて、ただただ不安で、ダットがわたしの子どもだということを強く刻みつけるように抱きしめ続けた。
いつかわたしたちの手の届かないどこか遠くへ行ってしまうかもしれない。
そんなことを思うようになった。
わたしが今まで以上にダットに構うようになったのはこのときから。
七歳を過ぎた頃からは「恥ずかしい」と逃げられるようになったけれど。
ガリオもダットの状態をよく知っていたら、わたしの行為をを咎めることはなくて、むしろわたしと同じように積極的にダットと触れ合おうとしてくれていた。
男同士、仲間意識みたいなものもあったのかもしれないわね。
それがいい方向にいけばいいとも思っていたわ。
それでも不安がなくならなかったのは、ダットの寝言があったから。
ガリオはもう、その頃には自警団の副団長をしていて、夜中近くに帰ってくることも珍しくなかった。必ずダットの部屋に寝顔を見に行くのが習慣で、そこで彼はダットの寝言を聞いては首をかしげていた。
それも過去に傭兵としていくつもの国を渡ってきたガリオでもわからない言葉よ。
気になってどんな夢を見ているのか聞いてみても首を横に振るだけ。
そのすべてがようやく今になって繋がった。
ダットから聞いた話は、にわかには信じがたいものだったけれど嘘は言っていないと彼の目を見ればわかる。
だけど。
「不安だわ」
ダットはただでさえ他の子どもたちとは一線を画した雰囲気を持っている子どもだった。
他の子どもたちも感じるところはあったのでしょうね。
そのせいか、ダットの友人と言える存在はいまでもたった二人だけ。
それも子どもらしい部分があったからこそ関係が保てていたのよね。
大人の部分が垣間見えるいまの「記憶を取り戻した」状態は、その二人の友人すら遠ざけてしまうかもしれないわ。
それだけならまだしも。
「急な変化は周囲に不審を抱かせてしまうわ」
ガリオが疑ったように【魔物憑き】だと思われる可能性は十分にある。
もしそう呼ばれたとき、わたしはちゃんとダットを守れるだろうか。
以前のダットに対してでさえ抱きしめる以外のことはできなかったのに、実際にそうなってしまったら……?
「キーラ」
ガリオの鍛えられた大きな手が伸びて肩にかかる。
「オレたちが出来ることは今までと同じだ。あの子の側であの子を支える。それだけだ」
「でも」
「大丈夫だ。あの子だってわかっている。それにオレたちがその理解者になればあの子の負担は軽くしてやれる。守ることもできる。そう信じよう」
見上げた先の灰色の瞳は優しい光と、強い決意を宿していた。
「大丈夫だ」
髭に覆われた厳ついと評される顔にふたたび笑みが浮かぶ。
そのままわたしの顔の位置にガリオの瞳が降りてきて、わたしは静かに目を閉じた。
どうか、ダットに祝福がありますように。
唇に愛しいその人を感じて、わたしはただそう願った。
2013.6/2 大幅改稿
2016.6/26 改行挿入
2016.7/3 改稿