下町の令嬢との語らい
「くっさ!」
部屋に辿り着いた途端、マリッサ嬢は顔をしかめた。
あぁ、だから言ったのに。と思ったが、今更だ。
原因はもちろん、ルーヴェンス医師特性の薬湯の匂いである。
初めて嗅ぐ人間にはかなり強烈だろう。
既にメイドさんたちが空気を入れ換えに窓に向かっているけれど、それにしても匂いが薄まるまではもうしばらくかかる。
「なあ、お前この匂い……」
すぐさま鼻を摘んだ少女に僕は苦笑した。
「ルーヴェンス医師が調合した薬湯の匂いですよ。部屋に染みついて取れないのが難点ですけど、よく効くんです」
「そ、そうなのか? つーか、お前平気なわけ?」
「――もう慣れました」
そこはきっぱり諦めている。
だってねぇ。
定期的に部屋の空気入れ替えても、気が付けば部屋全体から香ってるんだよ。
しかも毎日飲め、って言われてるやつだから、嫌でも鼻につくし、慣れるなって言う方が無理。
一日部屋にいたりすると服とか髪とか体中に匂いが染みつくしね。
まあ、お茶会に際しては別の部屋で着替えて体裁を整えたから気にならない程度には薄くなってたはずだけど。
「窓を開ければ多少は薄くなりますから、少し待ってくださいね」
「え、いや、けどお前体弱いんだろ。いいよ、匂いくらいすぐ慣れる」
「そうは言っても貴族の令嬢相手にそういうわけにはいきませんよ。体裁もあります」
「けど……」
「大丈夫ですよ。少しの間だけですから」
そもそも部屋の準備を整える前に飛び出してきてしまったんだし、それぐらいは我慢してもらおう。
それに、テューラさんもルリカさんもその道のプロだ。
客人に風邪をひかせるような真似をするはずもない。
ひんやりとした外の空気が入ってくるのを感じたあたりで、テューラさんがもこもこの何かを抱えてやってきた。
「マリッサ様、ダット様、ユート様、取り急ぎ、部屋を暖める用意をしておりますが少々お時間がかかります。それまでこちらを」
どこから取り出してきたのか、差し出されたのは魔物の毛皮で作られたコート。それも一般庶民には手が出せそうもない、質感のよさげなものだった。
流石は貴族のお屋敷。それが普通に三つも出てくるところが凄い。
受け取って羽織ると、毛皮というだけあってかなり重かった。
暖かくはなりそうだけど着ているだけで疲れそうだ。
さっさと座ろう。
「では、こちらへどうぞ」
マリッサ嬢を歓談するにふさわしいテーブルへ案内して椅子を引く。
座るよう勧めると「ありがとうございます」と、そこは令嬢らしく丁寧にお礼を言われた。
残念なことに勢いよく座っちゃったから、しおらしさもなにもあったもんじゃなかったけどね。
にしても。
「マリッサ様。本当にこちらにいらしてよろしかったのですか?」
便乗して抜け出した僕が言うことでもないんだろうけど、一応確認してみる。
「見ての通り、興味を引くようなものはありませんし」
お茶やお菓子などはたぶんテューラさんたちが用意してくれるだろうが、実はこの部屋遊び道具らしきものが何もない。
外で遊べるならそれでもいいんだけど、僕の体がそれを許さない状態で本を読むくらいしかしてなかったんだよね。
しかも大抵は悠斗君の勉強につきあってるような状態だったし。
「あー、いや」
マリッサ嬢は一応、周囲を見回したが大して興味がないようで。
「そこは別に期待してねぇよ」
首の後ろを掻いた。
「あたし、ああいうの苦手だからな。抜け出したかっただけ」
そんな身も蓋もない。
いや、マリッサ嬢の性格からある程度予想は付いてたけどね。
それにしたって、本当に飾らない娘だなぁ。
「つかお前、貴族でもなんでもないってホントかよ?」
ほら、ストレートに質問来た。
「その割になんつーか……礼儀正しいっていうの? すっげーよな。特訓とかしたのか」
「え、まあ。それなりに」
紳士教育ってやつを、数日でたたき込まれましたので。
「そっか。でも、ホントは貴族の子供……とかじゃねぇよな?」
「はい……?」
え、ちょっと待って。
思わぬ方向への質問来たけどなんでだ。
「って……どうしてそうなるんです?」
「あぁ、なんか話に聞いてたのとは印象違ってたから」
恐る恐る尋ねればこともなげにそう言われて、僕はまた別の疑問を浮かべた。
それはたぶんヴィリア様情報だろうけど、一体どんな内容だったんだろう。
気になるけど今はマリッサ嬢の話が優先だ。
「あたしさ、こんなだろ」
テーブルに肘をついて、マリッサ嬢は口を開いた。
「だから今までお茶会とかって出たことなかったんだよな」
うん。まあそうでしょうね。
思いっきり下町言葉全開だし、今もほら、肘ついているし。って、あれ。なんか視線が。
その方向に少し振り返ったら、テューラさんが茶器を用意しながら何かを言いたげにこっちを見てた。
自分の肘を軽く叩いて……って、あ。
「マリッサ様。肘は」
「あ、そっか」
注意すると素直に手はテーブルの下に収まった。
そうしたら、テューラさんの視線がなくなった気がした。
なるほど、これか。
「てかほら。これだよ」
「え?」
これって、何。
「礼儀作法ってやつ。あたしのお披露目って本来は礼儀作法身に付いてからって話だったんだよ。それなのにいきなり【おかあさま】にお茶会に行くって言われてさ。なんかヴィリア様が貴族じゃないやつ相手なら多少失敗しても平気だろっつーから来たわけ。なのに……」
マリッサ嬢は半眼で僕を睨むとため息をついた。しかも今度は腕組みして背もたれに体預けて足組みまでしている。
おっと、さっきよりマズイのではなかろうか。
これも放置すればテューラさんの視線が飛んできそうだ。
「マリッサ様、姿勢が」
再び指摘すると、背もたれから体を離して足組みもやめたんだけど渋面になった。
テューラさんの視線は、ない。
「……はぁ」
マリッサ嬢が吐いたおまけのため息はどこへ向けられたものなのか。
「なあ、お前さ。マジで貴族じゃねーの? 顔もすっげぇ綺麗だし、礼儀作法もしっかりしてんし。あたしよりよっぽど貴族らしいだろ」
「いえ、一庶民ですが」
「あのさぁ。詐欺だろそれ。お前の母ちゃんも超美人じゃん。どっかの貴族の血筋とかじゃねーの?」
「あり得ません。というか、顔がいいから貴族とは限りませんよ」
確かに貴族の代表っていったら、顔が綺麗な人ってイメージだけどさ。
「……まあ、そりゃそうだけさ」
いや、マリッサ嬢。
じーっと疑うような目で見られても違うものは違いますから。
少なくとも僕が知る限りではないはずですよ。
母の両親。僕にとっての祖父母は両方とも亡くなっているし、それ以前のご先祖様もカーライルが出来たときから入植した一般人だったらしいし。
父に至っては先日語ってくれた生い立ちからして貴族とはほど遠い。
にも関わらず、こうも言われてしまうこの顔は色々な意味で厄介だ。
正直、平凡に生活できればと思ってるのに無理な気がしてくる。
ヴィリア様に言い含められたこともあるし、なんか将来不安になってきた。
「けど一庶民ってんなら、なんで子爵家にいんだよ?」
「ああ、それは」
どこまで話すべきか、と一瞬迷う。
これを聞いてくるということは、【グラン・ヴ・ディール】や【半死人】の件は知らないのだろうけど。
まあ、歓迎されるようなものではないから、むやみやたらに話せることでもない。
あれらは一般的に恐怖の対象だ。
「僕は不治の病を患っているんですが、その症状を和らげる対処法がラグドリア帝国にあるということを叔母の伝手で知ったんです。ヴィリア様はその叔母をとても気に入ってくださっていて、それで冬の間はこちらにお世話になることになりました」
うん。嘘は言ってない。
「へぇ。体が弱いってそーいうことか。じゃ、春になったらラグドリアに行くんだな」
「はい。その予定です」
「ラグドリアがどんなとこか知ってんのか?」
「いいえ。歴史の授業で習ったことぐらいしか」
カーライルはジードリクスの片隅にある田舎町だし、この世界の情報伝達手段は手紙などに限られている。リアルタイムのラグドリアがどんなところなのか、それを知る手段は今現在存在しない。
「だから少し楽しみではありますね。もちろん、全く知らない土地ですから風習が違うこともあるでしょうし、不安もありますけど。でも、それで僕の抱えている病がどうにかなるのなら……という期待も大きいですよ」
とは言ったものの、左手の印に関してはあまり期待はしていない。
これだけは誰が何をしようと駄目な気がするんだよね。
あくまで勘だけど。
「そっか。病気よくなるといいな」
きっと心からそう言ってくれてるんだろう。笑顔がまぶしい。
それが嬉しくて、こちらもつい笑顔になる。
「はい。ありがとうございます」
そうそう、前世ではこういう顔になる子供たちを見たくて先生になろうと思ってたんだっけ。
懐かしいな。
そう思ったところでふと気づいた。
ああ、そういえば記憶戻ってから将来のこととか考えたことなかったな。というか戻る前も考えてなかった気がする。
あのまま何事もなくカーライルにいたのなら、何をしようと考えたろう。
選択肢自体はいくつかあった。
魔法の才があることがわかっていたから、魔法の勉強をして王都の学校に行く。
カーライルで雇い主を捜して店などで働く。
もし、体が頑丈で父さんのように剣を持つことが出来たなら自警団に入ることだってあったかもしれない。
どのみち現状では叶わない夢でしかないのだが。
「おい。どうした」
「え……?」
呼ばれてふと顔を上げる。
「具合でも悪いのか」
視界に入ったマリッサ嬢の表情にあったのは戸惑いと心配だ。
しまった。うっかり暗い顔になっちゃってたんだな。
「いえ、違います。そうではなくて。ただ少し将来のことを考えていたんです」
「将来……って、ああ。ラグドリアに行って病気がよくなったらってやつか」
「ええ。今まではそういうことを考える余裕というか、機会がなくて」
「じゃあ、何か思いついたのか?」
ううむ、直接的に聞いてくるなぁ。
「そうですね。以前は……教師になりたいと思ったことはありましたけど」
まあ、あくまでこれも前世での話だし。実際やりたいことと出来ることは違うからなぁ。
この世界で教師になろうと思うなら、カーライルにあるような学校じゃなくてもう一ランク上の王都にあるようなとこに行かないといけないし。
それにまだ体が良くなるって確定したわけでもないしね。
「良くなってから、また考えます」
とりあえず保留だ。
って。あれ?
なんだかマリッサ嬢の眉根がつり上がってるような。
「えっと。どうかされましたか?」
「ん。ちょっと嫌なこと思い出した」
「え」
「気にすんな」
いや、そう言われたら余計気になりますから。
そんな僕らの様子をテューラさんが注視していたなんてことは……このときは誰も気づいていなかった。