抱え込んだ気持ち
フラン様が足取り軽く、指定された周回を走り終えたリリア様に声をかけ、颯爽とその場を去ってからまもなくして。
「あらあら。部屋に行ってもいないからどこにいるのかと思えばこんな所にいましたの?」
僕らはヴィリア様と遭遇した。
ていうか、その言い方からして僕に用事があるっぽい?
「病弱でもやはり、男子ということなのかしら」
その視線は意味ありげに中庭の中央、父さんと模擬戦をしているリリアに向かい。
「フラン殿はお帰りになられたのね」
「はい」
「そう。それならよいのです」
ふふふ、と老婦人というにはまだ若々しい顔で微笑んで、その視線が再び僕の方へと戻ってくる。
「それはともかくとして。もう出歩いても平気ですの? それならば例のことを進めようかと思っているのだけれど」
「え?」
例のこと? ってなに。
話の筋がわからない僕は首を傾げたが、ヴィリア様はそのまま二人のメイドさんを交互にに見る。
「テューラ、ルリカ。どうかしら」
ヴィリア様が問うのにメイドさん二人は。
「問題ございません」
「こちらも、よろしいかと」
恭しく頭を下げた。
え、だからなに?
「では、明日から彼らの教育を始めることとしますわ。ユートはまだ言葉が不自由だけれど……」
「その点は問題ないかと。飲み込みの早い子ですし、好奇心も旺盛のようですので」
ルリカさんがにこりと笑えば、ヴィリア様も満足げに頷いた。
その話の内容からして、ようやく僕はそれが数日前に言っていた【教育】とやらのことだと気がついた。
「では明日、ダットの体調に問題がなければ始めるといたしましょう。今日は早めに就寝して体調を整えるのですよ」
「あ……はい」
ああ、ほんとにソレやる気なんだ。しかも明日から。
イエスと返事はしたものの、微妙に、というかだいぶ気が重い。
要するにそれはヴィリア様から見て紳士だと思える人間になるための教育なわけで。
一般平民からしてみれば、かたっくるしいとしか思えない貴族のマナーを学んでどうしろと。
いや、まあ。貴族のお屋敷に置いてもらってるわけだし、郷に入っては郷に従えっていうありがたいことわざもあるけど。
元、日本人の平均的思考を引きずっている僕にとってそれは気が進まないものである。
そんな僕の表情を見た、ヴィリア様はにこりと微笑む。
「作法の本などはありませんもの。実地百回。やって覚えるしかありませんの。大丈夫ですわ。子どもは知識の吸収がとても早いといいますもの。すぐに慣れますわ」
確かに慣れなんだろうけど、日本人的思考の持ち主にはものすごい試練な気がしてならないわけで。
ちらっと見ただけだったけど、元子爵とヴィリア様のやりとりとか凄かった。
席を立つとき、ヴィリア様のほっぺにチュー。
外に出かけるときも挨拶に混じって「君と離れるのは寂しい」とかさりげなく言うし。
聞いたところによると、朝は必ず支度を整えたあとに「今日も君は美しい」とかいう褒め言葉が飛び交っているらしいし。
夫婦でも恋人同士でないジラルド様とシェリナ叔母さんですら出会うと手にキスを落とし、挨拶に「やあシェリナ、今日も綺麗だね」という文言が入るのだ。
うちの両親だって出かける時にはキスして「いってらっしゃい」くらいはあったけど、あんな風に誰かが見ている前で平然とはしてなかった。
僕が知らないとこは別として。
でも、あれを、僕に、やれ、と?
……無理。てか無茶だ。
悠斗くんくらいの年齢で、精神年齢もそれに伴ってたらまだ平気だろう。
でも、こっちでは子供らしい子供の十年分の記憶があっても、二十年もどっぷり日本人的思考に浸かって育ってるんだよ。
女の人を褒める?
そんなの照れが入ってぐだぐだになるに決まってる!
連呼したら恥ずかしくて死ねる。
確実、に悶え死ぬ。
が、相手は子爵家の実権を握っているっぽいヴィリア様。
「やらないと、ダメですか?」
出来れば回避させて頂きたいという遠回しな問いは。
「もちろんでしてよ」
あっさり、華麗に、即返答で、にこやかに却下。
あぁ、気が重い。
がっくりを肩を落とす。
だがそれもわずかな間のこと。
「それはそれとして、いくら着込んでいるからとこのような冷える場所にいつまでもいるのは感心しませんわね」
言葉と同時にふわり、と赤いショールが舞う。
気がつけばヴィリア様が羽織っていたはずのそれが僕の体を包み込むように掛けられていて。
「これからあなたのお母様とお茶会をしますの。あなた方の分も用意させますわ。一緒にいらっしゃい。お菓子もあってよ?」
いい香りとともに、ヴィリア様の温もりが伝わってきた。
「あ、ありがとうございます」
「気にすることはなくてよ。子供を守るのは大人の役目ですもの」
お礼を言うために見上げれば、思い切り優しく微笑まれた。
うーん。ほんとに初老とは思えないくらいきれいなんだよね、この方。
この顔を見ていると、逆らおうという気力がなくなってしまう。
「さあ、参りましょう」
そのまま僕は悠斗君とともに誘われるままお茶会の会場へ。と言っても、大人数が集まるような大部屋ではなく、ヴィリア様の私室らしい。
そこに入るなり、ぽかーんと口を開けることになったけどね。
待っていたのは豊かな金髪を結い上げ、化粧を施され、絹のドレスを纏う碧眼の美女。
用意された飲み物と焼き菓子の甘い匂いが一瞬でわからなくなるくらいの衝撃だった。
前世の記憶が「どこのお姫様だ」という突っ込みを持たしてくれるが、戸惑った様子でこちらを見る姿は不自然すぎる。
だが、それもそのはず。
「か、母さん?」
「ダット」
僕を見た瞬間にほっと息を吐いた彼女は紛れもなく僕の母親だ。
てか。
「なんでそんな格好して……」
「あら、似合っているでしょう?」
ヴィリア様がしてやったりと、ほくそ笑んでいる気がするのはきっと気のせいじゃない。
いや、似合ってるけど。似合ってるんだけどっ。
自分の母親だとわかっていても、それが自分(男)とは違う女なのだと意識させられてしまって顔が赤くなる。
「わたくしの昔のドレスだけれど、どうしても着せたくなってしまったの」
「いや、でも、なんで?」
「女は中身も大事。けれど、同時に着飾ることで、その魅力を増すことができる。キーラは元がいいのにもったいないと思っていたのです」
ヴィリア様はそう、喜々として女であることの意義のようなものを語ってくれた。
「これで既婚でなければ、引く手数多なのだけれど。いえ、既婚でも口説きたくなる男とは山ほどいるはず。これほど似合っていると、このまま連れ回したくなりますわね」
「ヴィ、ヴィリア様っ。お戯れはやめてください」
母さんが顔を赤くしたり青くしたり忙しくするが。
「あら、戯れなどわたくしは言っていなくてよ」
ヴィリア様は満面の笑みでこう言った。
「女を寂しがらせていることに気づかない男へのお仕置きと思えばよいのです」
途端、慌てふためいていたはずの母さんの動きがぴたりと止まる。
「お仕置、き?」
「ええ。お仕置きですわ」
あー、忘れかけてたけど。
そういえば母さんリリア様のことでヤキモチ中だったっけ。
段々とイヤな予感がしてきた僕のことなど目に入らぬ様子で、ヴィリア様は母さんの手を取った。
「娘の件は、こちらからお願いした手前、申し訳なく思ってはいるのです。けれど、それはそれですわ。鍛錬にかまけて妻への気遣いを忘れる男など放って楽しめばよいのです」
特に力説しているわけではない。
普通に、それが当たり前だと言わんばかりにヴィリア様の言葉は自然だった。
そして。
「そうですよ、ね」
何かに耐え、潤んだ瞳がヴィリア様を見つめる。
「あの人、カーライルにいたときもそうだったんです。ガリオは元々は傭兵ですし、町の自警団の副団長としての責務を負っていた人です。剣を振るうのを仕事としてきたのだから、それを生き甲斐にするのはわかるんです。それにあの顔でしょう? 大抵の人は怖がって近づきません。だから嫉妬なんてしなくてもいいはずなのに」
ぽろり、と母さんの口からこぼれたのは紛れもない本音。
「でも、だからなんです。だから、たまに平気な顔で近づく女の人がいるとどうしても……っ」
「とても、愛しておられるのね」
ヴィリア様が微笑む。
それがまた絵になる構図なものだから、なんの芝居だ。と言いたくなってしまう。
いや、言わないけど。
でもさ。
「そんなあなたを悲しませる。その男にはやはりお仕置きするべきかしら。いいえ。無論するべきですわ。キーラ。その件、わたくしに任せてもらえるかしら」
「え……?」
「とびきりの舞台を用意して差し上げますわ」
そうにこやかに笑うヴィリア様はいかにもかわいそうな主役を助ける脇役そのもので。
――あぁ、ヤバイわ。イヤな予感しかしない。
僕はその目標となるだろう父さんにがんばれ、と届かない思念を送るしかなかった。
父さんがそれに気づいたかどうか、それは誰にもわからない。
ちなみにお茶会は。
かなり楽しそうに何か企んでいそうなヴィリア様がちょっと怖くて微妙だった。
まあ、救いはお茶と焼き菓子。
そして。
『お姫様みたい』
悠斗くんの母さんに対するほんわかする一言だけだった。と言っておく。