別れの朝
【闇の死者】との遭遇から一月半。
季節は秋から冬へと移行するころとなり、ジードリクス王国の暦ではエウィーラの月。前世で言うなら十一月。
北に行くほど寒くなって南が暖かいのも同じで、例年ならばそろそろ雪が降り始める。
だから本来、一家総出で旅立つには向かないのだけれど。
「いよいよ、か」
薄暗い雲に覆われた朝の寒空の下。
僕は白く長い息を吐いた。
旅に必要な最低限の荷物――着替えと食料と日用品――を入れたバッグを背負って、一歩、二歩、と歩みを進め、出てきたばかりの家を振り返る。
古い二階建て石造りの一軒家。
十年分の思い出がある生家だ。
「ダット。忘れ物はない?」
旅人らしく、防寒着と大きなバッグを抱えたお母さんが聞いてくる。
「大丈夫。必要なものは全部あるよ。っていうか……今朝からソレ何回目?」
「何度確認しても、忘れるときは忘れるものよ」
「……まあ、そうだろうけど」
今朝だけじゃなくて、昨日からずっとだから流石に疲れる。
ため息を吐くと、お母さんが笑った。
「なければいいのよ。それより寒くはない?」
僕の冬用の分厚い上着にお母さんの手が伸びる。
襟元やら、毛糸の首巻きやらを直され、上から下まで眺められた。
「かなり厚いの着てるし大丈夫」
手袋もあるし、足下だっていつ雪が降ってもいいような長靴だ。
僕の体調は別として、防寒着としてばっちり機能してるから問題ない。
「まだ治ってるわけじゃないんだから、無理はしないのよ」
「わかってる」
一月半前よりは持ち直したとはいえ、僕の体は爆弾を抱えているようなものだ。
日によってよかったり悪かったり。
ここ最近はいい方だけど、いつ悪い方に傾くかわからない。
お母さんもそこを心配してるんだろう。
でも、そのお母さんも……なぁ。
「お母さんも無理しないでね」
「……あなたもガリオと同じことを言うのね」
「だって」
一月半前と比べたら一目でわかるほど痩せているんだし、心配するなっていう方が無理だ。
最近まであまり食事が喉を通っていなかったことは家族全員が知っている。
原因は僕だから強くは言えないけど。
「……ごめんね」
「もう。謝らないの。子どもの心配をするのは親の務めなんだから」
少しだけ笑って、肩を抱かれる。
「それにね。もう、泣いてるだけじゃ駄目だってわかったの」
「え?」
「ちゃんとダットを守るためには、私も強くならないとね」
心配顔や、泣き顔ばかり見てきたけど、いまのお母さんの顔は少し頼もしさがある。
もう目に涙は浮かんでない。
吹っ切れた、のかな。
「それはいいけど、運動苦手なんだから間違っても魔物と戦おうとか思わないでよ?」
お父さんが必死に「それだけはやめてくれ」って言ってたの、知ってるんだから。
「そ、そこまでは考えてないわよっ」
どもってるところを見るとちょっと怪しい。
無茶するときはすごいからなぁ。お母さん。
気をつけないと。
じと目で見ていたらぼやかれた。
「顔は私に似たのに、どうしてそういう表情はガリオそっくりなのかしら」
「……そりゃ親子だし」
とは言ったものの。
きっと僕だけじゃなくて、お母さんを知ってる人はそういう顔すると思うなぁ。
「……どうしてかしら。なんだか納得いかないわ」
不満げな顔でこっちを見られても困る。
そこはもう諦めるしかないんじゃないかな。
曖昧な笑みを浮かべた僕の耳に、
「ふふふっ。とっても楽しそうね」
とよく知った笑い声が届いた。
はっと振り向けば、僕たちと同じような格好のシェリナ叔母さんがいる。
「キーラ姉さん、ダット。おはよう」
「あ、おはよう。シェリナ叔母さん」
「おはよう。ってシェリナ……いつからいたの?」
「え、たった今よ」
挨拶もそこそこにお母さんがむくれ顔で叔母さんを睨んだ。
「ほら、そこの角を曲がったら楽しそうな声がしてたから」
叔母さんが背後の十字路を示せばお母さんはますます目を鋭くした。
そんなお母さんとは対照的に、シェリナ叔母さんの顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。
「……別に楽しいわけじゃないわよ」
「そう?」
「……楽しくないんだってば」
「うんうん。そうね」
シェリナ叔母さん……完全にからかいにいってるなぁ。
「…………」
「…………」
お母さんはむっつり、叔母さんはにこにこ。
「……違うって言ってるのに」
あ、拗ねた。
「ちょっと姉さん。子どもじゃないんだから拗ねないでよ」
シェリナ叔母さん、それ一言余計だよ?
お母さんが半眼で叔母さんをにらみつける。
「……子どもで悪かったわね。じゃあ、大人なシェリナにダットは任せるわ」
怒りを抑えてるんだろう。
お母さんは不機嫌な顔で僕たちに背を向けて歩き出す。
これは不味い。
「ね、ねえ。シェリナ叔母さん」
「ふふふっ。ちょっとやり過ぎたかしら?」
「……やり過ぎたかな、じゃないよ」
うちの最恐はお母さんなのだ。
あとが怖い。
頭を抱えてしまいたくなる。
でも。
出てきたばかりの家を見上げて思う。
たぶん叔母さんは……
「湿っぽいお別れになるよりはいいでしょ」
いたずらっ子のように笑うその姿を見て確信する。
お母さんは僕よりこの家で過ごした時間が長い。
思い入れもそのぶん深いはずだ。
だからシェリナ叔母さんはシェリナ叔母さんなりに、お母さんに気を遣ったんだろう。
「叔母さん、ありがと」
感謝の言葉を告げると叔母さんは笑って「この家には思い出がありすぎるもの」と呟いた。
「わたしは姉さんが大変なときに側にいてあげられなかったし、いずれはこの町を出て行くつもりだったし、随分前から覚悟はしてたからいいの。でも姉さんは……きっと、なにもなければこの町に骨を埋める気だったでしょうしね」
「……うん。って、叔母さん。さりげなくすごいこと言ってるね」
「あら。わたしだっていい年よ? 結婚相手くらいいたっていいじゃない」
「えっ!?」
なんかいい話してるはずだったのに、すごい爆弾発言で前のが吹っ飛んじゃったんですけど。
僕がぽかんと口を開けて固まっていると。
「まあ、それはまた今度話すとして。ほら、早く行かないと姉さんもっとへそを曲げちゃうわよ」
シェリナ叔母さんはお母さんが歩いて行った方向を指さした。
「あっ」
お母さんが曲がり角の前でこちらを睨んでいる。
さらっとごまかされた気もするけど、さすがにお母さんをあのまま放っておくと後で困ることになる。
「行きましょうか」
「うん」
叔母さんに促されるまま頷くと、僕はもう一度だけ住み慣れた家を見上げて。
「ばいばい」
小さく呟くとその場を後にした。
「大通りまで大丈夫?」
「うん。今日は調子いいし、大丈夫だと思う」
これから向かう先は大通り。
そこに居を構える商店が目的地だ。
最終的な目的地はシェリナ叔母さんが伝手を頼って見つけてくれた僕みたいな病例を研究している人のところなんだけど。
さすがに国外のラグドリア帝国への直通馬車なんてものはないし、そもそも町から町へ人を運ぶ馬車がない。
町から一歩出たら魔物がうろうろしているような世界だしね。
わざわざ危険を冒してまで町を行き来しようなんて一般人はそういない。
そんな危険を冒しても町を行き来する人間は軍人か商人、あとは傭兵業を営む者くらいなものだ。
特に商人は町の大事な生命線にもなる存在だから、頻繁に町を出入りしてる。
自分の身の安全もだけど、商品も安全に運ぶことを考えないといけない。
一番いいのは自分自身で身を守れることだけど……そんな人は滅多にいない。
傭兵を雇って護衛してもらう、というのが一般的なんだって。
今回僕たちが商店に向かうのも、そういう依頼を受けたから。
僕とお母さんは戦力外だけど、お父さんとシェリナ叔母さんは戦えるからね。
まずはジードリクス王国の王都までその馬車で行って、ラグドリア帝国へはまた別の馬車を手配する予定だ。
できれば本格的に雪が降り出す前にラグドリア帝国へ向かいたいけど……無理なら春まで王都で足止めになる。
「体調なんて、崩してられないよ」
「あら、頼もしい。無理なら背負ってあげようかと思ったのに」
「…………」
シェリナ叔母さんなら鍛えてるからそれぐらいはできそうだけどさ。
「そーいう風にからかうの、やめない?」
「なんだ。残念」
ちっとも残念そうじゃない顔で言われてもなぁ。
いつもならここまでふざける人じゃないから、口では平気なんて言っていても本当は寂しいのかもしれない。
それか――
「おい、あれ」
ふと聞こえてくる声に視線をやれば、こちらを見てこそこそ話す二人組の男がいた。
「やっと出て行くみたいだな」
「ああ。これで安全になりゃいいんだが」
こういうのを気遣って、なんだろうか。
この人月半で流れた噂のせいか、聞こえてくる内容も視線も気味が悪いと言わんばかりだ。
僕が【闇の死者】に狙われてることは一部の人しか知らないことのはずなのに、伝記やら噂やらいろんなものが混ざり合って、僕がいたら町が滅びるなんて話ができあがってたらしい。
他にもいくつかユファちゃんがらみのもあったみたいだけど、ライナやエリクが憤慨しながら教えてくれた。
「ちょっとあんたたち。大人のくせにみっともないわよっ!」
そうそう。こんな風に……って。
「え!?」
一瞬空耳かと思ったけど、違った。
たったいま、こちらを見てこそこそ言っていた男たちふたりに向かって銀髪の少女が食ってかかっている。
「な、なんだおまえっ」
「ほ、ほんとのこと言ってるだけじゃねぇか」
突然の乱入に戸惑いを隠せない男たちに、少女は人差し指を突きつける。
「ほんとってなによ。噂しか知らないくせに!」
「あぁ!? 噂が合ってるから、あいつら出て行くんだろーが!」
「おまえたちだってこの町が安全になったほうがいいに決まって……」
「ばっかじゃないの! そうやって噂にしてるあんたたちが追い出してるんじゃない!」
あーあ。何事かってみんな顔を覗かせはじめてるよ。
そこへ。
「ひとりで突っ走ってんじゃねー!」
「あいたっ!?」
赤い髪の少年が背後から頭にチョップをかます。
勢いのままつんのめった少女は頭を抑えて振り返った瞬間、少年に怒鳴った。
「な、なにすんのよ。馬鹿エリク! 馬鹿になるでしょっ」
「……おまえ、ダットのことになると馬鹿になるんだから馬鹿でいいだろ」
「はぁ!? いつでも馬鹿なあんたに言われたくないわよ」
「うるせぇ。おまえ、散々オヤジさんとかに注意されてたろーが!」
「そっ、そんなの関係ないわよっ!」
なにやってんの。あのふたり。
「……あの子たちも本当に変わらないわねぇ」
シェリナ叔母さんもあきれ顔だし、自分たちそっちのけではじまった言い合いに男たちも引き気味だ。
顔を見合わせ、関わらない方がいいと思ったのか気味悪そうに去って行った。
ちなみに言い合いをしてるふたりはそれに気がついてない。
しょうがないなぁ。
「ちょっとそこの万年ケンカ夫婦!」
「「だれが夫婦だ!?」」
同時に振り返って、同時に目線を合わせて、顔を逸らすところまで一緒なんだもん。
息ぴったりの反応に、シェリナ叔母さんが大爆笑。
よほどツボにはまったのかおなかを抱えて涙まで浮かべている。
それにライナとエリクは抗議しているが、笑いは止まらない。
そこからさらに。
「あんたのせいよっ」
「なんでオレがっ」
と発展するから、僕は笑うより頭を抱えた。
「最後までこれか」
きっとこのふたりは僕がいなくなっても変わらないんだろうな。
この町の名物として十分やっていけるだろう。
もういっそくっついて夫婦漫才したらいいのに。
そんなことを思ってたら。
「いっそのこと、くっついちゃえば?」
シェリナ叔母さんが言っちゃった。
そのあと?
ライナとエリクのバトルが過熱。あまりに遅いからってお母さんが戻ってきて般若が降臨したよ。
四人仲良くなぜか正座で反省させられました。まる。
2017.5/15 改稿