刻まれた標
暗い暗い闇の底。
体は重く、手足は動かず、ぼんやりそれを認識した僕は、そこから抜け出さなくては、という気持ちで喘いでいた。
動かない体を必死で動かそうとして。
不意に腕を掴まれた。
「……っ!?」
生きているとはとても思えない冷たい手。
ぞくりと走る悪寒に、さらに追い打ちをかけるかのごとく手の数が増えた。
僕を闇の底に縛り付けようとするそれらから逃れたくて僕は――
目を開けた。
「え……?」
視界に飛び込んできた光の明るさにきょとんとする。
「え、え?」
知らない天井が見える。
って、これ前にも似たようなこと経験したな。
じゃなくて。
「僕、死んだ?」
思わずそう呟いても仕方ない、はず。
あまり覚えてないけど、目を開ける直前まで見ていた夢はそう思えるくらい怖かった。
思い出しただけでぶる、と体が震える。
でも今はその怖さをもたらすものは近くにはなさそうだ。
頭は重いし体もだるいけど、明るいし、暖かい。
一応、生きてるってことかな。
そのことに安心する。
ただ、ここがどこかわからないことには安全とは言えない。
重い頭を左右に振って自分の居場所を確かめる。
寝ている場所はベッドの上。
寝心地はいつも使っている自分のものよりやや堅い感じで色は白で統一されてる。
そういえば薬っぽい匂いがずっとしてる。
病院、ていうか、診療所っぽい。
隣にも同じようなベッドがあるし……って、あれ。
「ユファ、ちゃん?」
見知った顔の寝顔がそこにあってはっとした。
よかった。少なくとも生きてる。
それがわかってほっとする。
これは、助け出されたって思っていいのかな。
あの暗い暗い、地下の闇の中から。
走馬燈のようにあの場所での出来事がよみがえれば、また体が震える。
「気持ち、わる……」
これ、明らかにトラウマものだ。
暖かささえ感じることのできる日差しもあるというのに、怖気しか感じられずに体を掻き抱く。
しびれを感じるほどに寒かった。
指先まで冷え切っているのは確実だと思う。
けど、生きてる。
【闇の死者】に生気を抜かれた瞬間のことは忘れられないけれど、ユファちゃんも僕も生きている。
生きて、家族にまた会える。
ユファちゃんのベッドにうつぶせに眠ってる女の人を見たらそう思えた。
うちのお母さんは……まだいないみたいだけど。
「心配、してるだろうな」
今は側に見えない金髪碧眼の美女のことを思うと胸が痛い。
ただでさえ記憶喪失やら前世やらで心配かけてるのに。
頭を抱えたくなって両腕を持ち上げたら、左手の甲に目がとまった。
そこに青白い光が灯っている。
なにコレ、と見つめていると、不意にそこから全身に向かって刺すような痛みが走った。と同時に青白い光が手の甲に船の碇に似た形を象り、炎のように浮き上がる。
その間ほんの数秒、だったと思う。
痛みが引いた左手の甲に視線を戻すと、青白い光が象ったものの形そのままの痣が残っていた。
呆然とそれを眺めて、僕は嘆く。
……悪い予感しかしない。
『其方には標をつけた』
記憶を辿ればそんな言葉が思い出された。
『それは我らを示すもの。近くあれば其方を導くであろう。故に我らは行く。其方が我らの背に届くまで、彼の地にて死を喰らい漂う者となろうではないか』
……うん。やっぱり悪い予感だけしかしない。
【闇の死者】は楽しそうにしていた気がするけど、僕としては楽しくも嬉しくもない。
それはつまり、僕はまたアレに会わなきゃいけないってことだから。
『さらばだ。二重の者よ。再び相まみえるときを待っておるぞ』
一方的に僕にとっては迷惑にしかならないものを押しつけられるなんて、正直怖いとしか言いようがない。
「なんでこんな目に遭うかな」
前世に魔法に幼馴染みに魔物との遭遇。
そのはてに死亡フラグの立った左手の印とか。
なんでこんな面倒なことに。
イベント盛りだくさんすぎない?
「もう、勘弁してよ」
僕が望んでいたのはこんな山あり谷ありの波瀾万丈な人生じゃない。
平凡で平穏な普通の生活だ。
RPGのような冒険なんて望んでない。
どうして前世の記憶なんて戻ったかな。
【橋本誠也】の死をそのままそっとしておいてくれれば、【ダット】はこんな目に遭わなかったかもしれないのに。
なんていうのは怖さから逃げ出すための、無力な自分に対する言い訳かな。
「……くやしい、な」
なにもできなかった。
目を閉じればあの暗闇が、青白い光が蘇ってくる。
あのとき、左手から生気が抜けていくあの感触が体中を駆け巡る。
その恐怖はたった今起こったかのような錯覚を引き起こし、気分を最悪にさせる。
でも、だから。
「ふざけるなぁっ!」
叫ぶ。
なにもできなかった僕自身に対する憤り。
そして、一方的な【闇の死者】からの死刑宣告に対する怒り。
あとは、決意がそうさせた。
【闇の死者】の思い通りになんてなりたくないけど、このまま死ぬことだけを考えて生きるなんていうのも嫌だ。
強くならないといけない。
【闇の死者】に対抗できるように。
前へと踏み出すための、勇気が出せるように。
「絶対に、負けてやらないからな!」
この叫びでユファちゃんのお母さんが起きたのと、僕が体力尽きて気を失ったのは……まあ、ご愛敬だ。
ふたたび目が覚めたときには、側にお母さんがいた。
前に目を覚ましたときにいなかったのは、必要なものを取りに家に帰っていたときだったみたいだ。
目が合った瞬間に大泣きしながら抱きしめられて、また意識飛びそうになったけど。
お父さんが止めてくれなかったらたぶんまだ寝てただろうなぁ。
それはともかく。
心配かけっぱなしなのは確かだから、本当に二人には頭があがらない。
落ち着いてからの第一声はもちろん「ごめんなさい」だ。
「……このまま目が覚めなかったらどうしようかと思ったわ」
「この三日。お前はずっと、死んだように眠りっぱなしだったんだ」
「体は冷たいし、息もしてるのがギリギリわかる状態で、バスク先生にも覚悟はしておいたほうがいいとまで言われたのよ」
目が覚めてよかった、と言葉にするお母さん。
でも、その表情には影がある。
たぶん、お母さんは僕の今の状態をある程度わかっているんだろう。
隣のベッドで眠っているユファちゃんと僕が、ここにいるっていうことは、誰かがあの場所から僕たちを救い出したってことで、あの惨状を見たってことだから。
「お父さん。アレ、見たの?」
「ああ。突入したときにな。あれが【闇の死者】の仕業なのはすぐにわかった。お前とそこの子が気を失っているのを見て肝が冷えたぞ。よく、生き残れたな」
「うん。死にかけたけどね」
完全に生気を取られる前にあいつが引いたから、かろうじて生きてるだけだけど。
それを口にしたらお母さんの方が参ってしまいそうだから黙っておく。
その代わりに。
「ユファちゃんは、どう?」
一緒に救い出されただろう彼女の様子を聞く。
隣のベッドにいるから生きてはいるんだろう。
でも、僕みたいにあいつに目をつけられていたりしていたらと思うと怖い。
「彼女はお前より先に目が覚めた。体の方は無事だ」
「体の方は?」
「ああ。心……精神的な部分では異常をきたしている。今は薬で眠っているが、話を聞けるような状態じゃない」
気になる言い方に尋ね返せばそれだった。
体の方が無事ってことは手を出されていないんだろうけど。
あれだけの恐怖体験だ。
前世の記憶がある僕だって思い出すだけで震えが走ってしょうがないのに、ユファちゃんのような子どもの心にまったく影響がないなんてことはあり得ない。
「かわいそうに。暗がりを極端に怖がるんだそうだ」
「……そっか」
「それで、なんだがダット」
お父さんが言いにくそうに僕を見下ろす。
その顔は自警団の団員としての顔だ。
「いろいろ厄介なことが重なっていてな。起きたばかりで悪いんだが、聞いておかなければいけないことが――」
「はい、そこまでにしましょうか」
「話をする」じゃなくて「話を聞ける」って聞いた時点でなんとなく予想はついてたけど、そんなお父さんの言葉を遮る声があった。
見ればそれは手に器を持った中年男性で、僕も見覚えのある人だ。
町医者で、僕が前世を思い出したときにも診てもらった。
「起きたばかりで体力も落ちている人に質問ずくめはやめましょうね」
「……バスク先生」
「医者として、それは認められません。それ以上はマリカさんのときのように追い出しますよ?」
お父さんはそれに憮然とした表情で答えた。
マリカさんって、たしかユファちゃんのお母さんの名前だけど、なにがあったんだろ。
「お役目柄、必要なのもわかりますが。まずは素直にお子さんが目を覚ましたことに喜んでください」
バスク先生はそれが親の務めだと言わんばかりにお父さんをにらむ。
その視線はお母さんにも向けられ。
「深刻に考えすぎるのもやめましょうね。そしてまずは食事にしましょう。三日間、なにも食べていなかったわけですしね」
「あ……そ、そうですね。はい」
そんなことを言われるとは思ってもいなかったのか、戸惑った様子でお母さんが頷く。
バスク先生、けっこう強引だなぁ。
患者が尋問を受ける前に話をさっさと切り上げさせた。
でも食事、か。
胃が空っぽなのはたしかだし、なにか食べないといけないとは思う。
それがまともなものならば、ね。
「では、これをどうぞ」
バスク先生が持っていた器を差し出す。
「え、えっと……」
なんて言ったらいいんだろう。
お母さんが受け取ったソレは、見事に毒々しい緑色をしていた。
匂い、はいかにも薬ですな感じだ。
食事、と言うにはあんまりにも酷い。
なにコレ。
「薬草スープです」
うん。匂いで薬草入ってるだろうな、と思いました。
「ダットくんに必要と思われるものを調合しましたので、残さないでくださいね」
にこやかに言うけど「残さず」にって、これ。
僕の表情が堅いことに気がついたバスク先生はしかし、もう一度言った。
「残さないでくださいね」
「は、はい」
無理。
逆らってはいけないオーラがでてました。
そりゃ、体のためにはいいのかもしれないけどさ。
一口目。
「ぐふっ」
「ダット!?」
吹きだしかけた。
子どもの味覚に苦みとえぐみの両方味あわせるのって、とっても残酷なことだと思うな。
生理現象で涙まで……
お父さん、お母さん。不憫そうに見るくらいだったら、別のください。
とはいえそんなものがあるはずもなく。どうにか飲みきった頃には意識がもうろうとしていた。
ははは。よく病人食は不味いっていうけど、世界が違ってもそうなんだね。
うぅ、舌がしびれてる気がするのは気のせいだと思いたい。
口直しに少量の果物のすりおろしたものを食べてなかったら、きっとそのまま夢の世界に直行してたなぁ。
急に外が騒がしくなったのは、そんなふうに甘味をしみじみ噛みしめていたときだった。
2017.3.31 改稿