闇の死者
魔物はこの世界ではとても厄介な存在だ。
普通の動物よりもずっと凶暴だし、人の住みかを襲って人間を食料にしてしまうこともあるし、倒すのにも魔法使いが何人も必要なこともある。
だけど、直接触れられるから、頑張れば魔法使いでなくたって退けようと思えば退けられる。
実体があるからね。
実体があるものは、壁を作ってしまえば通行が難しくなる。
人間はそうやって、町や村を築いてきた。
それを広げて国も興した。
それが、人を魔物から守る手段になった、はずだった。
実体のない、物理的な壁が無意味な魔物がいると知るまでは。
後悔の念や、恨み辛みを残して死んだ者たちの情念の集合体とも言われている魔物がソレだ。
「な、なぜここに【闇の死者】がいるのですっ!?」
傷の男に付いてきたキツネ顔の男がうわずった声で叫ぶ。
それはこの場にいる誰もが思ったことだろう。
『クカカ。我らはここで目覚めを迎えただけよ。その意味では主らが親と呼べるのやもしれぬ』
ゆらゆらと揺れる青白い光に包まれた骸骨はスカスカの体をカタカタと鳴らして笑った。
操り人形を思い出すような動きだけど、コレはそんな可愛いものじゃない。
同じ空間にいるだけで、体のぬくもりがすべて奪われてしまいそうな、そんな気配が漂っている。
「親、だと」
「ま、まさか……」
目の前の男たち二人が動揺する。
何か思い出したらしい。
「チッ。丁寧に封じてあったのはそのせいか」
「不味いですよ。我々に魔法は使えません」
実体のない魔物に一部の武具を除いて物理攻撃は無意味。
それ以外で対抗できるのは、魔法使いのみ。
それがこの世界の人類共通認識だ。
しかも、この手のタイプの魔物を相手にするとなると一撃必殺が絶対だ。
なぜなら……
「逃げますよ!」
キツネ顔の男が真っ先に出口に走る。
距離はどうあってもキツネ顔の男の方が近い。
でも。
『そう急ぐでないわ。我らの糧よ』
青白い光が尾を引いて目の前を走る。
一瞬だった。
階段を駆け上がろうとしていたキツネ顔の男は唐突に目の前に現れたソレに驚き、それでも勢いを止められずに【闇の死者】を包む青白い光に入り込む。
「っっっっっっ!?」
「ラーストンっ!」
悲鳴にならない悲鳴に傷のある男が名前を呼ぶ。
でも……返ってきたのは、どさりと何かが倒れる音だけだった。
『……ふむ。さして美味くもなく、不味くもない、という感じかの』
倒れたものに、さして興味ないと言わんばかりに青白い光がこちらに戻ってくる。
そして戻ってきたときには、骸骨を包み込む光がわずかにだけど、強くなっていた。
それが意味することはひとつ。
命を……生気を奪ったということだ。
実体がないから物理的には倒せない。ということは物理的に食べることができない。ということでもある。
だから、彼らが活動するために必要とする糧もまた物理的なものではない。
考えてみれば単純で、そして恐ろしいことだ。
触れただけで、命が奪われる。
それを避けるためには一撃で倒さなければならず。
いまのこの場所には、その手段を持つ人間が誰もいない。
これってホント……詰んでるとしか言いようがない。
頭の片隅で頭を抱えながら頭の中で泣く。
傷の男とキツネ顔の男だけだったら、まだ生存率高かったんだけどね。
触れただけで命持って行かれちゃうような魔物に対抗する手段なんて持ってません。
魔法なんてまだ使えないし。
あー、もうここはあきらめが肝心かな。どうせ一回死んでるし、二回目も変わらないよね。
……って思えたらよかったんだけどなぁ。
死にたくないに決まってるじゃん!
こんなときにライナがいてくれたら。
そうは思っても、いないものはいないし、都合良く現れてくれるはずもない。
唇を噛みしめるしかできないなんて、情けなさすぎる。
「だ、ダット……く……」
ユファちゃんがすがるように僕を呼ぶ。
彼女を見れば見るほど、逃げ出さないと、という気持ちが強くなる。
でも、逃げられる気がまったくしない。
「くそがぁぁぁぁぁっ!」
傷の男がいらだちをあらわにその場で叫ぶ。
その顔には死んでたまるか、という気持ちと絶望的な気持ちが入り交じっているように見えた。
この人も、僕たちと同じだ。
それをあざ笑うかのように【闇の死者】は変わらず、楽しげに笑った。
『クカカカカカ。其方は喰い甲斐がありそうだの』
骨だけが見える手を伸ばし、傷のある男に近づいていく。
『其方は我らが一部となるにふさわしかろうて』
「や、やめろっ」
『さあ、我らと共に行こうではないか』
男が後ずされば、その距離だけまた【闇の死者】が近づく。
段々と、その距離が縮まっていく。
そう広くはない空間だ。それは当然と言えた。
「ひっ……」
『これで、終いよ』
牢屋の一番奥。突き当たりで、傷のある男は壁を背に顔を引きつらせていた。
そこにあるのは、恐怖。そして絶望。
「ああああああああああああ!!!!」
『ああ、心地良い響きよ』
【闇の死者】の骨の指が、男の頬に触れると、青白い光が、男の体を包み込んだ。
そして見えたのは、男の肌が生気を失っていく姿。
「……っ!?」
正直言って、見ない方がよかった。
枯れていく、と言うのがふさわしい吸われ方だった。
どさり、と命を失った体が地面に倒れたのは数秒後のこと。
『クカカ。なかなか美味であったわ』
【闇の死者】は指先をむき出しの歯に当て、満足そうに笑っていた。
ま、満足したなら、狙われたりしないかも?
一瞬、そうも考えたけど、現実は甘くない。
だって、牢屋、鍵かかってて逃げられないし。
それに。
『クカカ。さて、食後は純粋な子どもの生気を甘味代わりとしようかのう』
ああ。僕らデザートですね。
「あ……ああ」
ユファちゃんの絶望を伴った震えが足下から伝わってくる。
せめてユファちゃんだけでも逃がしてあげたかった。
「く、来るな!」
無駄な抵抗だってことはわかってはいる。
それでも言わずにはいられなかった言葉を吐き出して、ユファちゃんの前に立つ。
だって、今の僕にできるのはこれくらいだから。
『クカカカ。良い。良い気配よ。食べ甲斐のある気配よ』
すう、と【闇の死者】が鉄格子をすり抜ける。
周囲の空気がそれに伴って数度低くなった気がしたのは気のせいだろうか。
「……っ!」
ただ震えることしかできなかったユファちゃんが、それに気づいて僕の右手を握る。
『さて……どちらからにしようかのぅ』
【闇の死者】は楽しげに僕とユファちゃんを交互に指さしている。
『こちらか?』
最初は僕に。
『それともこちらか?』
次にユファちゃんに。
『……ふむ、やはり』
再び僕に、と行きかけて止まった先はユファちゃんだった。
『おなごを守れず、悲哀にくれる情はどのような味であろうかの』
「……っ!」
「やめろっ!」
指さしたその手がユファちゃんに伸びる。
それを避けようと、僕はユファちゃんを右手で押して――
「っっっっっ!?」
左手で【闇の死者】に触れていた。
すぐに青白い光に腕が飲み込まれざわり、と全身が総毛立つ。
次の瞬間。
何かが左手から抜けていく感覚が来た。
脳みそから、心臓から、肺から、意識さえも。
すべてを奪われ、失いそうになって。
ああ、これが死ぬってことなんだ。と思ったときだった。
『ふむ。これは……』
【闇の死者】の呟きとともにそれが止まった。
青白い光も引いていく。
「……?」
「……っ。ダットくん!」
ふらり、と立っていられなくて、倒れるように座り込んだ僕をユファちゃんが支える。
というか座ることもできないくらい、体に力が入らない。
そんな僕を【闇の死者】が見下ろし、クカカ、と笑った。
『げに珍しき者よ。我らとて異端なる亡者の徒なれど、我ら以上に理解できぬ者がいようとはのう。二重の者……我らは其方が気に入った。いま喰らうは惜しい』
「……? なに、を言って」
こちらの戸惑いなどお構いなしに【闇の死者】は笑い続ける。
『其方は我らと似て非なる者。二重に重なりし、異なる色を持ちし者。それ故の異端。それ故の力。我らはそれを見たい。そして知りたいと思うたのだ。されどそれにはまだ早い。熟しておらぬ。それではつまらぬ。故に』
【闇の死者】が再び腕を伸ばす。が、今度は誰に触れるでもなく腕を伸ばしただけだ。
すると【闇の死者】に触れた左手がほんの少し、光る。
『其方には標をつけた』
「は……!?」
『それは我らを示すもの。近くあれば其方を導くであろう。故に我らは行く。其方が我らの背に届くまで、彼の地にて死を喰らい漂う者となろうではないか』
クカカ、と高らかに笑い、【闇の死者】は背を向ける。
『愉快、愉快。故にそこな娘も生かしてやろうぞ。印も付けぬ。今、我らが望むは熟せし其方と心地よき堕ちし御霊のみよ。最早只人には興味がない。クカカ。刈るときがくるのが楽しみよ』
ククク、カカカ。
耳障りな哄笑が地下の狭い空間に鳴り響く。
『さらばだ。二重の者よ。再び相まみえるときを待っておるぞ』
それを最後に青白い光に包まれた骸骨の姿がゆっくりと小さくなる。
徐々に暗闇に包まれていく視界。
僕の意識はそれに同化するように、遠くなっていった。
2012.2.7 少し改訂。
2017.3.31 改稿