8.ネットワークの連鎖
(ナノネット研究員・里中蛍)
猿ヶ淵刑務所の情報を得る為に、ボクは卒業論文のテーマに猿ヶ淵刑務所を選んだという大学生達と交流を持つ事にした。見学を実現できたのもそもそも彼らのお陰だ。少なくともボクよりは、猿ヶ淵刑務所と近い位置にいると見ていいのじゃないかと思う。
弁護士を通して、猿ヶ淵刑務所を見学できるようにしたのはどうもその中の篠崎紗実という女学生らしかった。有難い事に、彼女はボクをあまり警戒していない。
ボクが猿ヶ淵刑務所に入る機会を得るにはやはりナノネットの専門知識を活かすのが一番現実的だろう。どうにかして、中に入れるような権限を持ちたい。外部のナノネット専門家の一人に加わるくらいのチャンスになら、もしかしたら、こうして猿ヶ淵刑務所との接点を増やしていけば、巡り遇えるかもしれない。
大学生達とメールで何度か連絡を取り合う内に、猿ヶ淵刑務所の事を話し合いたいというので、ボクらは休日にファミリーレストランで会う事になった。出席者は、猿ヶ淵刑務所を見学したメンバーと同じで、篠崎さんの他に男子学生ニ名もいた。吉田という学生の方は何かを考えているのか分からない風だったけど、星という学生はなんだかボクを信用していないように思えた。表情がそのまま顔に出ているから分かり易い。気を付けて発言しないといけないかもしれない。
どんな質問をされるのかと思っていたら、篠崎さんはいきなりこんな質問をしてきた。
「ナノネットが、人間の行動をコントロールできる可能性はありますか?」
刑務所の卒業論文を書くのに、どうしてそんな事を質問する必要があるのだろう? ボクは極常識的にこう答えておいた。
「譫妄状態に近い状態にして、誰かをコントロールするといった例ならば普通に報告されているね。ただ、そういう状態にする為にはかなりのナノマシンを取り込ませなければいけないし、かなり強力な影響下にその人がいないと無理だけどね」
すると、篠崎さんは少し困った顔になってこう言って来た。
「うーん そういうのじゃなくてですね、もっと何というか間接的に…」
何を言わんとしているのか、ボクには分からなかったので困っていると、吉田君が、補足するような感じで篠崎さんの説明を付け加えた。
「例えば、ナノネットを通して、意志を促すとかそういった事はできませんか? 昼飯を食べようか迷っている人がいるとする。そこにナノネットを通して働きかけて、食べに行こうと決断させる。
意識や行動を直接的にコントロールするのじゃなくて、もっと弱い影響でそんな事ができないか、と。篠崎さんは多分そんな質問をしたいのじゃないかと思いますが」
それでようやく意味を理解できた。
「なるほど。そういう事くらいなら、多分できると思うよ。実例があるかないかはよく知らないけど」
吉田君はボクのその説明に満足をしなかったのか、聞き終わると、やや顔をしかめてから語り始めた。
「ネズミの脳に、快感を与える装置を取り付けます。そして、それをスイッチで切り替えられるようにしておく。
左に行った時に快感を与えるスイッチ。右に行った時に快感を与えるスイッチ… と、行動に関して設定する。そうしておいて、ラジコンでそのスイッチを入り切りすると、なんとネズミの行動をコントロールできるそうです。ネズミは快感を感じる方向へ移動するのだとか。
これはネズミの場合ですが、人間でも、これと同じ様な事が行えるかもしれないと考えるのは自然な発想でしょう。道徳的には好ましくない発想かもしれませんが。実際、よく冗談を言って誰かを笑わせる人の脳波を調べてみると、誰かを笑わせた後でその人が快感を感じているのが分かるらしいです。つまり、その人は、笑わせた後に得られる快感が欲しくて冗談を言うのですね。ナノネットを用いてなら、これと似たような事ができるのじゃないかと思ったのですが」
吉田君のその説明にボクは少し驚いた。何を考えているのか分からないような顔をして、どうやらそれなりに物事を深く考えているようだ。ボクは少し真剣になる事にした。
「なるほど。先も言った通り、恐らくナノネットを介してなら、そういった事ができるはずだよ。でも、脳に直接装置を取り付けるような荒っぽいものじゃないから、恐らくは本人の意思の後押しをする程度くらいしかできないのじゃないかと思うけど」
ボクがそう言い終えると、今度は篠崎さんが口を開いた。
「その影響範囲はどの程度でしょうか?」
「その人の情報がどれくらいあるかによると思うね。ポイントを絞っておけば、かなり広範囲へ影響を与える事が可能だろうと思うけど」
「例えば?」
「中継するナノマシンがあるのなら、どこまでも可能だね。距離じゃなくて、厳密に言えば、その電磁波が届くか届かないかが問題だから。
少しでも届く位置にいれば、微かにでも何かしらの影響を与えられるはずだ」
そう答えた後で、どうして彼らがこんな質問をしてくるのかをボクは考えてみた。
確かにナノネットをあの猿ヶ淵刑務所は扱っている。でも、だとしたって彼らの研究内容を考えれば、経営面での話や、受刑者がそれらを扱う技術を身に付けると、どれだけ社会復帰に活かせるのだとかそういった事に関心がいくのが自然だろう。
人の行動をコントロール…… まさか、受刑者達の統制にナノネットを使っていると疑っているのか? いや、それならば影響範囲を即尋ねてきた意味がない。
という事は……、
そこまでをボクが考えた時、吉田君が口を開いた。
「篠崎さん。君は、猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在していて、そして塀の外に影響を与えている、と多分、そう考えているのじゃないのかな? そして、それはあの刑務所の再犯率が高い事と、関係していると推測している」
それは当にボクが今考えた事そのままだった。ボクは、彼らに既に共通の認識があってこの場に臨んでいるのだと思っていたのだけど、どうもそうではないらしい。
「どうしてそう思うの?」
「僕だって星君のナノネット体験談を聞いているのだよ? その上で、君がいきなりこんな質問をすれば、誰だってそう考えるよ。
確かにその可能性はあるかもしれない。否定はできないよ。でも、今回の卒業論文はそういったものじゃない。飽くまで、もっと一般的に通用するケースでの、受刑者の社会復帰を扱うものだ。少し、話が逸れてしまっていると思うよ」
その吉田君の語り口調は、淡々としたものだった。そこに攻撃のニュアンスは含まれていないように思える。だからなのかもしれないが、篠崎さんは素直に「そうかもしれないわね」とそれを認めた。
「少し刺激的な内容だったから、意識がそっちにいっちゃってたかも。話を元に戻しましょう」
吉田君はそれに頷くと、それから篠崎さんをフォローする為か、こんな事を言った。
「もっとも、ナノネットが存在しているという確信的な証拠があるのなら話は別だけどね。卒業論文の事とは関係なしに直ぐに行動しなくちゃいけない」
それからは、当初予定していた通りの質問になった。星という学生は、始終不審の目をボクに向けていたが、それでも通常の質問になってからは口を開いた。恐らくはボクを探ろうとしているのだろう。もっとも、探ろうとしたところで、こんな会話からでは何も分からないと思うけど。復讐心を募らせている事はもちろん、妹が殺された事だってボクは絶対口にしない。
……そんな感じで話し合いは終わった。彼らに協力するのは猿ヶ淵刑務所に近付く為には必要かもしれないが、今回はそれほど有益な情報は引き出せなかった。弁護士が篠崎さんの知り合いで、かつ学生の研修目的だったから、その関係で猿ヶ淵刑務所を見学できた事が分かった程度だ。取り敢えず、なんとか篠崎さんの知り合いの弁護士と会うのが次の目指す段階だろうか。
ボクはそう判断して、彼らと別れた後でその方法を考えていた。だけどその話し合いの後直ぐに、篠崎さんからこんなメールをもらったのだった。
件名は、『猿ヶ淵刑務所のナノネット』だった。
:事情があって、公にはできないし詳細を説明する事もできないのですが、今日の会話の中に出てきた、猿ヶ淵刑務所のナノネットは実際に存在します。私はその証拠を掴んでいるのです。そして、確信は持てないのですが、恐らくはそれは再犯率の高さとも関係しています。
……実は、行方知れずになっている兄がそのナノネットに侵されているようなのです。どうか、兄を救ってはいただけないでしょうか?
兄は今、探偵を雇って探してもらっている最中なのです。見つかったら、ナノネットから兄を解放していただきたいのです。
詳しい事情を伏せたままで、しかも一方的なお願いで申し訳ないのですが。
ボクはそれを読んだ時、震えた。
ナノネットが猿ヶ淵刑務所に存在しているだって? しかも、それが再犯率の高さとも関係している?
篠崎さんの思い込みかとも考えたが、今まで話してきて、彼女からはとても理知的な印象を受けた。思い込みだけで、こんなメールをよこすようなタイプではないだろう。それに、そのメールを読みながら思い出したのだけど、紺野さんも心配事があると言っていた。それでボクはナノネット予防用のカプセルを飲ませられたんだ。
なら、少なくとも何かがあるはずだ。詳しい事情を、もっと彼女から聞きだす必要がある。
それに。
もしこれが本当だったなら、ナノネット絡みで猿ヶ淵刑務所に入り込めるチャンスを得られるかもしれない。
ボクは『できるだけ協力します。しかし、もっと詳しく事情を教えてください』という内容のメールを返信した。しかし、篠崎さんは詳しい事情を教えてはくれなかった。お礼と、兄が見つかったら連絡を入れるのでお願いします、という内容しか、その後に送られてきたメールには書かれていなかったんだ。もっと強く要求しようかと迷ったけど、それは止めておいた。下手に刺激してはいけないような気がしたからだ。
数日後、彼女の方からボクに会いたいという連絡が入った。今回は、他の男子生徒二人は来ないようだった。
前回がファミリーレストランだったのに対して、今回は個室に別れるタイプの薄暗い喫茶店だった。明らかに、彼女が他人には聞かれたくない話をしようとしているのが分かった。
篠崎さんは神妙な、やや暗い面持ちでまずはこう尋ねてきた。
「あの… ナノネットに意識を乗っ取られた状態で犯した犯罪というのは、やはり罪になってしまうものなのでしょうか?
すいません。里中さんに質問するのは筋違いなのかもしれませんが」
以前に送られてきていたメールの内容から、それは彼女のお兄さんの事なのだろうと簡単に察しがついた。
「ナノネットに意識を乗っ取られていたという証拠を示す事がとても難しいので、やはりほとんどの場合は有罪になってしまうと思うよ。ただ、明らかな場合は心神喪失状態として扱って無罪にするケースもあるとは聞いているけども。
ただし、前に君が質問したような、間接的にナノネットが働きかけをしているケースではそれも難しいのじゃないかと思う。
もしかして、お兄さんが見つかったの?」
すると彼女は首を振った。
「いえ、ただ兄の携帯電話の番号だけは、探偵さんが見つけてきてくれたのです。住所は私の自宅が登録されていたので、居場所までは分からないのですが。兄と一緒に住んでいた事があるのですが、多分その頃に契約をしたのだと思います」
「……連絡は、その様子からだとまだ入れてないのかな?」
そうボクが聞くと、彼女はゆっくりと頷いた。
気まずい沈黙が流れる。
それから、また彼女は口を開いた。
「兄は私を避けているので、どう電話をかければ良いのか分からないのです」
ボクはそれを聞くと少し考えた。それからこう言う。
「でも、お兄さんがナノネットに侵されているのなら、早くその事を伝えなくちゃいけないはずだよね。なら、どうにかして事情を説明しなくちゃ」
「はい。だから、私じゃなくて、第三者から伝えてもらう方が良いと思ったのです。それで里中さんにお願いしようと。
ナノネットの専門家である里中さんからなら、説得力もあると思うのです。すいません、本当に一方的なお願いばかりしてしまって」
「いや、それくらいなら別に構わないよ。ただし、ボクの方から説明するにしても、事情が分からないと上手くできそうにない。それに、これだけ協力しようとしているのだから、そろそろ信用してもらっても良いと思うんだ。
誓って、君の秘密を他で言ったりはしないよ」
ボクがそう言うと、彼女はまたゆっくりと頷いた。どうやら初めから、説明する気でここに来ているようだ。
「実は、私自身がナノネットに侵されているのです…」
それから篠崎さんは、猿ヶ淵刑務所での信じられない体験をボクに語った。そして、彼女のお兄さんが、人質に捕られている事も。ボクはそれを聞き終わると言った。
「なるほど。信じられない話だけど、信じるしかないようだね。君がそんな嘘を言う必要なんてなさそうだし。
でも、だとすると、まず一番にしなくちゃならないのは、君に巣くっているナノネットを削除する事だろうと思うのだけど」
それを聞くと、篠崎さんは酷く心配そうな顔を見せた。
「でも、そんな事をしたら、兄がどんな目に遭うか分かりません」
「かもしれないね。でも、その猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”に君が監視されているのだとしたら、ボクに相談した時点で既にアウトなのじゃないかな。それに、君も言っていたように黄泉の国にどれだけの力があるのかも分からない。本当はただの脅しで、君のお兄さんに何もできないかもしれないし、そもそもお兄さんにナノネットが憑いていない可能性だってある。それは、黄泉の国が言っているだけの事なのだし。
それに、何より君自身の身を心配しなくちゃならないとボクはそう思うよ」
ボクがそう説明しても、彼女はまだ迷っているようだった。だから仕方なく更にこう言ったんだ。
「君が自分のナノネットを削除しないと言うのなら、ボクは手を貸さない。危険すぎるからね。因みに、ナノネットの削除は比較的楽に行える」
すると、彼女はまだ戸惑っていたけど、それでもようやく頷いてくれた。
「分かりました。では、お願いします」
ボクはそれを聞き終えると頷き、彼女から携帯電話を受け取ると、その場で彼女のお兄さんに電話をかけた。しかし、その時は繋がらなかった。留守番電話に事情を説明したものを残しておく。要点だけを絞って。
――妹からお願いされた事
――自分はナノネット専門家である事
――あなたが、ナノネットに侵されている可能性がある事
――そのナノネットを削除できる事
数日後、ボクは篠崎さんを会社に招き、会社の設備でナノネットの削除を行った。確かにナノネットの痕跡があった。どうやら猿ヶ淵刑務所にナノネットがあるというのは事実らしい。その時はまだ彼女のお兄さんとの連絡は取れていなかった。
……さて、これを利用してどうやって猿ヶ淵刑務所に入るかだ。