7.黄泉の国の虜囚
(妹・篠崎紗実)
兄さん。あなたは生き続けるべき存在なのよ。
この世界で。
私は兄さんの事を常に探していた。連絡先が不明のままなのだ。まだ幼くて何もしてやれなかった頃とは違う。今ならば、もし兄さんが困っていたら私が助けてやれる。例えまた犯罪を犯して捕まったとしても、弁護士に相談して手続きを行い、健康保険が無効になるなんて事態を防ぐ事だってできる。だからどうしても兄さんの居場所を知りたかった。
中学生の頃、兄さんは父親を包丁で刺し殺して捕まった。
ただし、兄さんがそんな罪を犯したのは、無理もない事情があったからだった。父さんは血も涙もない人で直ぐに激昂して私達を殴りつける人だったし、私達を護ってくれる人なんて誰もいなかった。幼い女の子だった私よりも、年が上の兄の方がたくさん殴られてもいた。きっと、身の危険を感じて、咄嗟にやってしまっただけなのだろうと思う……
……もしかしたら、兄さんは私を護ろうとして、父さんを刺したのかもしれない。最近、何故かそう思う。
「猿ヶ淵刑務所? その刑務所なら、確かあなたのお兄さんも、入っていた事があったはずですよ」
兄の事を相談した関係で知り合いになった弁護士さんからそう言われて、私はすこし驚いてしまった。
「うん、軽い傷害罪か何かで逮捕された時に数ヶ月間入っていますね」
卒業論文の作成で、猿ヶ淵刑務所を見学したいのだけど何とかならないかと電話でお願いした時の事だ。
兄は何度か刑務所に入っているので、もしかしたらそういった事もあるかもしれないと思っていたのだけど、まさか本当に入っていた経験があるとは。
奇妙な縁と言えるのかどうかは分からなかった。確率的に充分に有り得るものなのかもしれないし。ただ、どうであるにせよ複雑なものを感じたのは事実だ。兄さんが囚われていた場所を、私は調べようとしている。
兄の関係で知り合った弁護士さんが、いい人で良かった。そのお陰で、なんとか(もちろん、有料だったけど)猿ヶ淵刑務所への見学の話を通してもらえた。星君なんかは驚いていて、同時に不安そうにもしていた。それで、少しからかってみると、
「ちょっと特殊な事情があるのですよ」
なんて事を言ってきた。どんな特殊事情があるのだか、と思っていたら見学直前になって、彼は変な白いカプセルを持って来たのだった。その白いカプセルは、吉田君の分も用意されてあった。
「猿ヶ淵刑務所を見学するに当たってですね、実はちょっと心配事があるんです。だから、予防の為にこれを飲んでおいてくれませんか?」
そう星君から言われた時は、一体何の事だろうと思った。
「何それ?」
そう質問をすると、星君はこう説明した。
「僕の知り合いのナノネット専門家…… 紺野秀明さんという方なのですが、その人から貰ってきたナノネット予防用カプセルです。これを飲んでおくと、例え体内にナノマシンを取り込んでしまっても、ナノネットからの精神へのアクセスを防ぐ事ができるそうです。
一応、今回の猿ヶ淵刑務所ではナノネットを扱っているので、飲んでおいた方が無難だと思うのですよね。ただ、飽くまで予防用なので、既にナノネットに侵されてしまっている場合は効果ないそうですが」
正直、心配性な子だと思いはしたけど、その真面目な表情を見ていたら、断るに断れなかった。それで私は飲むと頷いたのだ。吉田君の方は無表情だった。嫌な顔一つせずにそれを受け取っていた。きっと半分は好奇心から飲んでみる事にしたのだろうと思う。なんとなくそう思った。
刑務所へ行くまでの道で、星君から今までにナノネットに憑かれて(彼は、そう表現していた)どんな怖い体験をしたかを色々と聞かされた。そして、そういったナノネットがどんな事をするのかも。ナノネットは… どうも憑いたその人間を取り込むらしい。時にはコントロールし、殺してしまう事もあるのだとか。
なるほど。と、私は思った。そんな怖い体験をしているからこそ、彼は予防用のカプセルなんてものをわざわざ用意してきたのだろう。もしも、何らかのナノマシン・ネットワークの“霊”が、猿ヶ淵刑務所に存在していた場合を考慮して。
しかし私はその話を聞いて、星君から貰ったその予防用カプセルを飲まないようにしようと決めたのだ。もし、星君の言う通りだったならば、これは逆にチャンスだと思ったからだった。もし私がナノネットに憑かれたら、それが証拠になるじゃないか。再犯率が高いのが、巣くっていたナノネットによるものだという。
兄さん。兄さんも入っていた猿ヶ淵刑務所。もしも兄さんにもそんなものが憑いていて、そしてそれが原因で兄さんが犯罪を犯しているのだとしたら、そのナノネットを破壊する事で兄さんを救えるはずだ。
兄さんを、その星君の知り合いだという専門家に診てもらうのが一番なのは分かっていたけど、その兄さんは、今何処にいるのか分からない。
なら、少々危険を冒してでも。
刑務所に着く前に、里中さんというナノマシン・ネットワークを薬品会社で研究している人と合流した。
星君からナノネット専門家の人から頼まれたと見学参加の依頼があったのだ。星君もそれほどナノネットに関する知識がある訳じゃないと分かったので、その参加はむしろ有難かった。色々とナノネットの事を教えてもらえるかもしれない。
猿ヶ淵刑務所は、イメージしていたよりも古臭い感じがした。ナノネット研究所なんてものがある程だから、もっと近代的な施設を想像していたのだけど。
大きな門の脇にある、小さな勝手口のような所から私達は中へと通された。金属探知機での物々しい検査の後、何らかの記録媒体のチェックが行われ、カメラの類を持っていないと分かるとようやく中へ入る事ができた。しばらくは建物の中を歩いた。
リノリウムの床が、薄暗い廊下の中で微かに漏れて来る光を妙に生々しく反射している。その光景は、どこか有機的な気がして嫌な気分になった。私達はその場所を進んだ。少しだけ、妙な感覚を味わっているような気がしたが、多分それは前もって星君の話を聞かされていたからだろうと思う。ナノネットに憑かれたら、どんな体験をするかを知っていたから自然と不気味な感じを想像しているだけなのだ。まだ私はナノマシンを体内に取り込んではいないはずだ。そう。ナノネットに憑かれる為には、ナノマシンが入った何かを口にしなければ駄目なのだ。つまり、何かを口にしなければ、ここにナノネットが存在している事を証明できない。目をやると、渡り廊下のような場所を抜ける出口が目の前に迫っていた。このままではいけない。タイミングを逃してしまうかもしれない。
「すいません。トイレを貸してはもらえないでしょうか?」
それで私は慌ててそう訴えたのだ。すると、馬鹿に丁寧に刑務官の人がトイレに案内してくれた。「女性の方はとても少ないので、男女共用ですが」と、そう言って申し訳なさそうにしつつ。トイレの前までわざわざ案内してくれたが、それが私を監視する為だとは中に入った後で気が付いた。
用を足した振りをしてから、私は手洗い場でその水を飲んだ。それなりに清潔なトイレだったけど、それでもそんなに良い気分じゃない。ただ、それでも我慢して、たくさん飲んだ。体内に取り込んだのが少しのナノマシンだったら、ナノネットには憑かれないだろうと思ったからだ。
さて、何か変化はあるだろうか?
飲み終わって目を閉じてみた。体内の反応の変化に意識を集中する。もし、ナノネットが存在しているのなら、これで私に何らかの変化が起こってもいいはずだ。そこで背後に何か気配を感じた気がした。鏡を見てみる。何かいる。何か黒いものが。だけど、慌てて振り返ってみても誰もいなかった。なんだ勘違いだったのかとそう思った。幾らなんでも飲んだ瞬間にいきなりはないだろうと。だけど、
『よう』
突然、背後から声がした。また手洗い場を見る。すると、鏡の中に何かがいた。それは鏡の中から私に向かって話しかけていたのだ。黒くもやもやとして、所々がかすんでいる人影。それは、中年くらいのおじさんに見えた。
「ヒッ」
思わず小さな悲鳴を上げる。
そのおじさんのようなものは、鏡の中を近付いて来て言った。
『気をつけな。お譲ちゃん。ここは黄泉の国だよ。迂闊に食べ物を口にしちゃ、いけないな』
そうか、と冷静になるよう努めながら私は思う。
ナノネットは、直接精神に働きかけをして幻覚を見せる。だから、光の反射とかは関係ないんだ。鏡の中にだけ何かが見える事だって当然起きるんだ。
それから直ぐにそのおじさんのようなものは黒いもやもやに掻き消されるようにして消えていった。もしかしたら、警告だったのかもしれない。とその後でそう思った。この刑務所を調べたりするな、と。或いは、自分達ナノネットには関わるな、と。
トイレから出ると、刑務官はまだそこで待っていてくれた。私を監視しているのだから当たり前だけど、それでも私は安堵感を覚え、そして心の中で少し感謝をした。だけどそこでふと疑問に思ったのだ。刑務官は、ここに毎日いるのだ。なら、ナノマシンを体内に取り込んでいるはずだ。もし仮に、ここにナノネットが巣くっているのなら、当然彼らもナノネットに取り込まれている事になる。
ゾッとした。
この人達にも、油断はできない。
それからまた刑務官に案内されて、星君や吉田君達と合流した。建物の外に出ると農場なんかの様子を見学する事になったのだけど、その時も私には余裕が全くなかった。吉田君達と一緒にいると言っても、多分もう私は彼らとはいる“世界”が違う。とてもじゃないけど共感なんか得られない。それに、今ここで助けを求めてはいけないはずだ。私自身を証拠にする為には、外へ出て専門家に診断してもらわなくては。
黒いもや。不自然に昼間の農場に発生しているそれらが、渦を描いて何かを中心に回っている。幾つもあるそれらの中心をよく見てみると全て誰か人の顔になっているのが分かった。気のせいかとも思ったけど、そう思い込もうとした次の瞬間、それらは声を出し始めるのだ。声とは思えないような叫び声。
『ごぉぉ ちぃぃ にぃ』
『こぉぉ こぉお』
『お前を よぉこぉせぇぇ』
意味の取れるものも混ざっているように思えたけど、どうかは分からない。よく観察をすると、黒いものは働いている人達、ねずみ色の服を着ている受刑者達から染み出しているように見えた。もっとも、例えそう見えたところで、それらは星君の話を信じるのならナノネットの“霊”が見せている幻のはずだからあまり意味はないかもしれない。そこで私は気が付いた。どうして、ナノネットは私にこんな幻を見せているのだろう? 単なる脅し? だとするのなら、くだらない。私はこの程度なら耐え切ってみせる。兄さんを救う為なら、これくらい。兄さんが見続けている地獄を思えば、これくらい。
しかし、まだ幻覚にはその次があったのだった。
足に何かが纏わりついて来た気がした。ちょうどキャベツが植えられている辺りを通った時だった。気にしてはいけない。気にしてはいけない、と思いつつも、私はそれを目で見てしまった。
「ヒッ!」
すると、それは男の人の顔で、私の足に絡みつきながら無表情な顔で私を凝視していた。
『この有様を、誰かに伝えるつもりでいるのか お前?』
その男の人の首はそう言った。それから、視線を泳がせる。歩きながら、私はその男の人の視線を追ってみた。畑の、キャベツがある場所を巡る。幾つかのキャベツは明らかに様子がおかしかった。それは、間違いなく誰かの頭だったのだ。絡みついている男の人の首は、続けて私に言う。
『こっちには、人質があるのだって事を忘れるな』
人質? 一体、何の事?
そう思ってから、キャベツ畑に在った誰かの顔のうちの一つに、何か見覚えがある事に気が付いた。
あれは… 急いで顔を向ける。
すると、
そこには兄さんの顔が在ったのだった。蛆虫か何かがたくさん這っている。兄さんはウツロな表情でどこか別の方向に視線を向けていた。お陰で少し助かった。もし、私を見ていたなら、きっと私は叫んでしまっていただろうと思う。例え幻だと分かっていても、そんなのには耐え切れない。悲鳴を必死に呑み込んでから、周囲の人達の様子を確認してみた。大丈夫だった。一番後ろを歩いていたお陰で誰にも不審がられていない。刑務官の人は時折振り返っているから、見えているはずだと思うが、そもそも彼らは既に取り込まれてしまっているだろう人達だ。数に入れるべきではないだろう。
「やめなさい」
私は小声でそう言った。絡みついている顔に向かって。吉田君や星君が気が付かない程度に抑えたつもりだった。一番近くにいたのは星君だったけど、里中さんと何かを話していたから、きっと平気だろう。聞こえてはいないと思う。
『お前の大事な兄さんが、どうなっても良いって言うのなら、何でもやるがいいさ』
生首は次に私にそう言って来た。
「なんで、そんな事を知っているの?」
『俺らは、何でも知っているのさ。俺らをこの刑務所だけの存在だと思うなよ。俺らは外にも染み出しているのだから。だからよく覚えておけ。ここの外に出たって、お前はもう、俺らから逃れられないって事を。
あそこで、あの水を飲んだ時点で、お前はもうこの黄泉の国の虜囚なんだ』
黄泉の国?
その時私はそれを声には出さなかった。しかし、それでもその疑問符に生首は答えて来たのだ。
どうやら、頭の中を読むらしいと、それで分かった。
『このナノマシン・ネットワークの及ぶ範囲内全て。それが“黄泉の国”さ。このネットワークに加わった時点で、お前は既に黄泉の国の一員なんだ』
ケヘヘヘ
生首… その黄泉の国の案内人は下品に笑った。
『お前の行動は監視している。外に出たら、流石にこのナノネット“黄泉の国”の影響力は弱まるが、それでも俺らの監視がなくなる訳じゃない。
下手な行動は慎めよ。
それから、これは念を入れて忠告をしておく。“紺野秀明”には関わるな。あいつだけは避け続けろ』
紺野秀明?
『お前のお友達の知り合いだよ。ナノネットの専門家の。
紺野秀明に関わろうとしたら、その時点でお前の兄貴は酷い目に遭うと思っていろ。さっきの姿を見ただろう? 俺らはお前の兄貴を自由にできるんだ。それを忘れるな』
生首がそう言い終わるなり、黒いもやは一瞬で消えていった。全ては爽やかな青空に塗り替えられる。おどろおどろとした光景を見させられていたから、余計に美しく思えた。やっと解放されたのだ。呼吸を落ち着けると、軽率な行動を執ったことを後悔した。だけど同時に考え始めた。
私を脅迫する為に、ここのナノネットはあんな光景を見せたんだ。存在が私にばれてしまうのにも拘らず。そして、敢えて存在を晒してでもそんな行動を執ったのは、星君の知り合いのナノネット専門家を怖れているからだろう。つまり、対抗手段はあるのだ。でもそれは同時に、ここのナノネットに高度な知能があるだろう事を意味してもいた。かなり面倒な事になってきたと思う。
さて。どうするか?
それから農場を一通り回ると、職業訓練の為の施設を見学して、ほぼ刑務所の見学は終了だった。仕方ない事なのかもしれないけど、私達が期待した場所は見学できなかった。だけど、そこでナノネットを扱う仕事の訓練があるのを聞いて、ナノネット“黄泉の国”の事を相談できる相手がいる事に私は思い至ったのだった。
里中さん。里中さんなら、ナノネットの専門家で、そして黄泉の国から相談するなと忠告もされていない。外に出たら、“黄泉の国”の影響力も弱まると言っていた。これは想像に過ぎないけど、監視しているのは紺野秀明さんの周辺に過ぎないのではないか? もし里中さんの事を知っていたら、きっと里中さんとも関わるなと忠告してきたはずだ。ナノネット“黄泉の国”は、私を脅す為に、自分達の能力を色々と誇張していた可能性もある。兄さんに危害を加えられるというのも、どこまで本当か分からない。
そう考えた刹那、この思考も読まれていたらどうしよう?と思ったけど、何のシグナルもなかった。大丈夫だ。きっとばれていない。……ただ、猿ヶ淵刑務所を後にする時、あの生首の笑い声が聞こえた気がした。多分、気のせいだろうと思うけど。
……里中さんにどう接触しようか悩んだけど、その前に彼の方から私達に協力をし合おうと言ってきてくれたので助かった。状況は悪化しているようで、実はそうでもないのかもしれない。