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6.ぐらぐら

 (フリーター・篠崎忠志)

 

 時々、ぐらぐらする。

 それは少しのショックから起こるんだ。例えば誰かに怒られた時、嫌味を言われてたその瞬間、蔑んだ目で見られた時。

 ぐらぐらの根っこにあるのは不安でさ。その不安が起こると、ぼくを支える何かは簡単に揺れて、直ぐにぐらぐらし始めるんだ。胸が苦しくて、どうにもならなくて、焦りが心を襲い始めて、なにもかもがぼくの敵に思えて。発狂が。

 一瞬芽生えたそれが、まるでドミノ倒しみたいにしてぼくの中のここに立っていたいという気持ちを全てなぎ倒すんだ。

 ぐらぐらの中でぼくは思うの。

 “護らなくちゃ”

 自分の身とか、大切なものとか。でも、何からそれを護ろうとしているのかはよく分からない。多分、それはドコにもいない。ドコにもいないからこそドコにでもいる。ドコに逃げても襲ってくる。

 ぼくの目の先にいるその悪魔はきっと、この世界の誰にも見えない。見えやしない。だからぼくの震えは誰にも分からず、つまりはぼくは独りでいる。

 

 「兄さん」

 

 妹の声がぼくに聞こえる。ぼくが一番、恐ろしいもの。それが妹だ。妹はぼくに優しくしようとする。どれだけぼくが罪を重ねても必ず受け止めようとする。その優しさが、ぼくには怖くて堪らないんだ。

 お願いだから、遠くへ行ってくれ。

 

 お前は独りじゃないじゃないか。

 アパート暮らしをしていて、自分を独りだと思ったりすると、よくそんな問い詰めをしてくる自分を見つける。

 妹がいるじゃないか。

 多分、あいつはお前を拒絶したりしないと思うぜ。実際、出所したばかりの頃は、お前はあいつを頼るじゃないか。

 その通り。ぼくは妹を頼る。あいつはぼくを受け入れてくれる。でも、それが怖い。だって、ぼくなんかにどうして優しく接してくれるのかが分からないから。本当のぼくを知ったら、どんな顔をするのかを見るのが怖いから。つまりは、自分の駄目さの投影として、不安感の裏返しとして、ぼくはあいつを拒絶するんだ。

 でも。

 夢。

 あの、夢を見ないようになれば、もしかしたら、それを乗り越えられるのかも。

 

 ――血が流れている。

 ぼくは震えながら、血を流している父親を見つめている。父親は、ぼくが何をやったのか理解できないような表情で、ぼくを見ている。

 ぼくはショックで泣き叫ぶ事すらできない。遠くの廊下で、涙を流しながら、大きく見開かれた瞳でぼくを見る妹の顔が。

 なんだろう? この地獄は。

 ぼくはそこで現実感を失う。もっとも、それは初めから現実じゃない。夢なんだ。でも、同時に現実でもある。目が覚める。汗をびっしょりとかいている。

 ぼくはこの夢を、何度も何度も見る。もう何年も前からずっと。

 

 子供の頃の話。

 ぼくは中学生だった。母親はかなり昔に家を出ていて、家族は既に妹だけだった。父親。あんなヤツは家族じゃない。

 ナイフ。

 そう。ぼくはいつもナイフを持っていたんだよ。いつもクソオヤジは妹やぼくを殴るからさ。殺されるのじゃないかと思うくらいに強く殴るからさ。何度も何度も。バシッ バシッ バシッ だから、身を護る為に、ぼくはいつもナイフを持っていたんだ。

 お母さん。

 母親も、それで逃げ出してしまったんだ。仕方ないと思う。

 ……本当に、そう思っているか?

 ぼくらを見捨てた、あの母親を。お母さん。お父さんがぼくを殴るんだよ。どうしてなのか分からない理由で殴るんだ。妹が止めに入ると妹の事も殴るんだ。妹は悲鳴を上げて「もうやめて。もうやめて」って訴えるのだけど、それを無視して殴るんだ。

 家の外に逃げても、何かで見つかると直ぐに戻された。あの悪魔のいる家に戻されるんだ。なんで大人達はぼくらがこれだけ絶望している事に気が付かないんだろう?

 父親はぼくらが連れ戻されると、その時だけはいやらしいつくった表情でぼくらを出迎える。偽モノの優しさを演出して。でも、家の中に入れた途端に豹変する。いつものワンパターンな反応の経路。自分しか見えていない行動。激怒する。

 父親は、感情の起伏が激しいように見えるけど、その実、感情の能力に乏しいというのをぼくは分かっていた。だから、ぼくらの悲鳴が聞こえないんだ。あいつには。その涙の意味を理解できないんだ。あいつには。

 外に逃げた後は、いつもよりももっと父親はぼくらを殴った。自分の支配から逃れようとしたぼくらを罰する為に。

 「どうして、外へ逃げた? 俺に恥をかかせやがって。飯も作らないで。あの女みたいに、お前らも俺を馬鹿にしているのか?!」

 バシッ バシッ バシッ

 痛い。

 痛い。痛い。痛い。

 助けて。でも、誰も助けてくれない。知っている。初めから分かっている。この世界には絶望しかないんだ。

 その中で思う。誰も助けてくれないのなら、自分でなんとかしないと。他の誰を傷つけられてもいい。妹。妹だけは、ぼくが護らなくちゃ。

 ナイフ。

 ナイフを持っていたけど、ぼくはそれを使わなかった。使うのが怖かったから。後、一押し、それを使わせる為の一押しが足りなかったんだ。

 「なんだ、この不味いメシは!」

 ある日、父親がぼくを殴った。

 台所で、ぼくが晩御飯を作っている最中に味見をして怒り始めたんだ。確かに、ぼくの作った料理は不味かったかもしれない。でも父親がぼくを殴る理由はそんな事にあるのじゃないのは分かっている。父親は“ただ気に入らない”だけなんだ。怒る理由はただの後付け、無理矢理に作っているだけ。飯が不味いでも顔が気に入らないでもなんでもいいんだ。自分の権威を示す為なのか、それとも他の何かなのかは分からないけど。とにかく、怒りたいから怒っている。

 バシッ

 何度か殴られた後で、ぼくは床に顔を伏せて背中を向けて泣いた。背中の方が殴られても痛くない。身を護る為だ。何度かその姿勢のぼくを殴りつけた後で、父親はこう言った。

 「もういい。紗実に料理を作らせてやる」

 その言葉が引き金だった。

 妹。

 妹だけは、ぼくが護らなくちゃ。気が付くと、包丁でぼくは父親の腹を刺していた。血がたくさん噴出して、父親はぼくを不思議そうに見つめた。血溜まりの中、ぼくは震えていて、そして遠くに紗実の、妹の姿が在るのを見た。涙を流しながらぼくを見ている。その後の事はよく覚えてはいない。救急車を呼んだのだっけ? それとも警察?

 ……ナイフ。身を護る為に持っていたはずのナイフ。結局は使わなかった。いや、それも違うのかもしれない。

 ぼくは…… ナイフを。

 (ぼくは)

 (ナイフを……)

 

 その時の夢を、ぼくはそれから何度も見ている。少しでも心が不安定になった晩は、ほぼ必ずにその夢を見るんだ。父親はいつもぼくを殴り、そしていつもぼくはその父親の事を刺す。妹が、遠くからぼくの事を悲しい視線で見つめている。

 

 時々、ぐらぐらする。

 それは少しのショックから起こるんだ。例えば誰かに怒られた時、嫌味を言われてたその瞬間、蔑んだ目で見られた時。

 ぐらぐらの根っこにあるのは不安でさ。その不安が起こると、ぼくを支える何かは簡単に揺れて、直ぐにぐらぐらし始めるんだ。胸が苦しくて、どうにもならなくて、焦りが心を襲い始めて、なにもかもがぼくの敵に思えて。発狂が。

 

 ぼくは。生きていくべき人間ではないのかもしれない。

 この世界で。

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