5.猿ヶ淵刑務所への見学
(犯罪心理学専攻生・星はじめ)
ある弁護士さんを介して、僕らは猿ヶ淵刑務所の見学許可をもらいました。どういう伝手かは知らないのですが、篠崎先輩が話をつけてくれたのです。もちろん、見学できる場所は限られていますし、常に監視がついているのですが、驚きの体験である事は確かです。
もっとも、それが卒業論文の研究テーマにどれだけ役に立つかは分からないのですが。
当初の予定外のメンバーが一人、その見学には加わっていました。里中蛍という名前の、ナノネット研究員です。この人は、紺野さんから連絡が入って、一緒に見学させてくれないかとお願いされて参加する事になったのですが。紺野さんから、こういった類の事をお願いされるのは初めてだったので、少し意外でした。
――紺野さんが、僕が猿ヶ淵刑務所に見学するのを知っていたのは、僕がその数日前に相談していたからです。
……出所者の再犯率が高い刑務所。という話を聞いて、僕の頭に嫌な考えが浮かびました。ナノネット絡みで再犯率が高い。つまり、その現象に“何か”が関与している可能性があると想像してしまったのです。その何かによって、出所後の人間達はまた罪を犯してしまう…… もしかしたら、そういった事が起こっているのかもしれない。
それで、空いた日を利用して、久しぶりに紺野さんの研究所を訪ねてみました。その事を相談する為に。すると紺野さんに軽く研究作業の手伝いをさせられてしまいました。ガラスハウスで何かの溶液栽培をしているようなところへ、恐らく肥料だろうものを運ばされたのです。
「ナノマシン達が死んでしまっては、研究になりませんから、定期的に栄養やエネルギーを補給してやらなくちゃならないのですよ。それに投入量をコントロールする事で得られる結果、ナノネットの新陳代謝で、どれだけ物質が移動しているのかも、これで中々面白いデータになるものですから、疎かにしてはいけない作業なんです」
なんて、紺野さんは言っていましたが、犯罪心理学を専門的に学んでいる僕に、そんな説明をされても分かるはずはありません。
手伝った後で、紺野さんは僕を研究所の応接室のような所へ通して、飲み物を出してくれました。
「それで、今日の用事は何なのでしょうか?」
そして、ようやくその段になって、紺野さんは僕にそう質問をしてくれたのです。
「はぁ」
思わずため息を漏らします。展開に容易く流されてしまった自分を情けなく思ってしまったからです。紺野さんはそんな僕を見て、やや不思議そうに言いました。
「どうしました?」
「いえ、用事とは関係ないのですが、自分の情けなさに少し落ち込んでしまいまして。僕って利用し易いのですかね? やっぱり、気が弱すぎるのかな。
こんなに簡単に作業を手伝わされてしまって。自分に少し疑問が……」
「アハハハ。それは、少し悪い事をしてしまいましたね。でも、何も落ち込む必要はないと思いますよ。物事を頼まれ易いというのはどちからというと優れた点に入ると思いますから。それだけ他人に警戒心を抱かせていないのだと思いますからね」
「でも、限度ってものはあると思います。今回の話だって、僕がこんな性格じゃなければ、そもそもなかったのでしょうし」
「と、いいますと?」
それから僕は経緯を説明しました。卒業論文の共同作成を先輩から頼まれた事、その研究テーマが、刑務所から出所した人の社会復帰である事、再犯率が異常に高いと言われている猿ヶ淵刑務所が、その主な研究対象である事。そして、その猿ヶ淵刑務所が所内でナノネットを研究しているという事。
「猿ヶ淵刑務所ですか」と、その単語が出るなり紺野さんはそう言いました。どうも以前からその名を知っているような口調です。
「知っているのですか?」
と、僕はやや気になってそう尋ねます。すると紺野さんは、「私は、ナノネット研究者なものですから、それ関係の施設で有名な場所は一応知っているのですよ」と、そう答えてきました。
「それに、知っている人間も入っているものでしてね」
「知っている人間?」
――受刑者として、という事でしょうか。
「もう十年以上前の話です。私がまだ駆け出しの学生の頃に、教授で人体実験を行い捕まってしまった人がいます。その人が入所している刑務所が、その猿ヶ淵刑務所。まぁ、ナノネットの研究員として入っているのですね。ほとんど知らない人ですが、それでもなんというか他人事とは思えないエピソードなものですから、少し嫌なのですよ」
分かります。紺野さんは、一歩間違えれば人体実験をやりかねないくらいに研究熱心な人ですから。
そこでふと僕は思い出しました。僕がここに来たのは、ナノネット研究を行っている猿ヶ淵刑務所とその再犯率の高さの相関関係について、心配になったからなのでした。
「あの、それでその刑務所内のナノネット研究なんですが。もしかしたら、再犯率の高さと関係があるのじゃないかと思ったのですよ。紺野さんはどう思いますか?」
もし仮に関係のある可能性が濃厚であったのなら、ナノネットと感応し易い体質の僕が猿ヶ淵刑務所に近付くのは危険なはずです。
それを聞くと紺野さんは「どうなんでしょうか?」と、言ってから、何かを考え込み始めました。なんだか長く考えています。
「もし仮に、ナノネットが関わっているとするのなら、そのナノネットは、かなりの長距離に効果を及ぼせるという事になります。自然発生した“霊”…… ナノネットの核に、そこまで個人を特定して狙う必要があるのか、どうか私には判断がつきません。
が、可能性はない訳ではない。実は、長距離に影響を及ぼすタイプのナノネットが存在ししかもかなり繁殖している事が、ちょっと前に分かったばかりなのですよ」
そう言い終えると、紺野さんはまた考え込み始めました。そして、考え込んだまま歩き始め、応接室のようにしてある場所を抜けると、そのままパーティションの向こうへと消えていってしまったのです。
どうしたのでしょう?
僕は応接室から動きませんでしたが、どうも気配から察するに何かを探しているように思えました。
その気配に向けて、僕は問いかけます。
「あの、自然発生したナノネットに、その可能性が薄いというのなら、誰かが“それ”を仕組んだなんて事は考えられないのでしょうか?」
僕が今までに関わってきたナノマシン・ネットワークは、自然にその核となる“霊”が自己組織化されたものでした。近くの人間の精神に感応して、その精神を元にナノネットを構築するのです。それが、僕ら人間に働きかけてくる。だから、僕は今回いるかもしれないそれも自然発生したものだと思い込んでいたのですが、もしかしたら、そうじゃないケースもあるのかもしれないと思ったのです。意図的に、誰かがナノネットを利用して、何かをやっているのかもしれない……。
その質問を僕がした途端、紺野さんの動きは止まりました。それから、
「面白い事を言いますね」
と、そうパーティションの向こう側から言うのです。少し、いつもとは違う感じがしました。それから、また少し何かを探すような物音がしたかと思うと、紺野さんは何かのカプセルをビニール袋に入れて持ってきたのです。
「なんですか。それ?」
僕が訊くと、紺野さんはニコニコと細い目を更に細くして笑いながらこう言ってきました。
「ナノネット予防用のナノマシンが入ったカプセルですよ。私には、猿ヶ淵刑務所に何があるのか分かりません。可能性があるとしか言えないのです。だから、星君に一応、予防用カプセルを渡しておきます。これを飲めば、ナノネットに憑かれる心配はありませんよ。強く効く期間は一週間。微弱になら、三ヶ月ほど効果があります。
ただ、飽くまで予防用なので、既にナノネットに憑かれてしまった人には効果がないので気を付けてください」
それは真っ白いカプセルでした。とても。
「やっぱり、関係者の人達全員に飲ませておいた方が良いのでしょうか?」
僕がそう尋ねると、紺野さんは淡々とした口調でこう返してきました。
「そうですね。その方がいいと思います」
少しいつもの紺野さんとは、様子が違っているように思いましたが、僕はそれほど気にしないでお礼を言うと、そのまま帰りました。
これで、何かのナノネットが、猿ヶ淵刑務所に潜んでいたとしても、取り敢えずの心配はないはずです。
知り合いの専門家から貰った予防用のカプセルだと言うと、篠崎先輩も吉田先輩も信用してくれました。それで、紺野さんの言う通り、確かに警戒心を抱かせないというのは優れた点でもあるのかもしれない、とそう思ったりしました。
刑務所内に入って、まず僕が驚いたのはその敷地の広さでした。と言っても、この猿ヶ淵刑務所では、農業も行われているらしいので、だからこそなのかもしれませんが。
学校のグランドのような場所(と言っても、広さは二倍以上はあります)が、一面畑になっていました。その一角はビニールハウスになっています。
「栽培の簡単な芋類や、大根、ビニールハウスではトマトやイチゴなんかを主にやっています。比較的農薬が少なくて済む、一月から四月頃にかけては、コマツナ、ホウレンソウ、ミズナなんかもたくさんやりますね。所内での自給自足用も含まれているので、多品種になっています。ナノネットを利用して面積効率を良くしているからこそできるという面も、もちろんある訳ですが」
案内してくれた刑務官は、愛想良くそんな説明をしてくれました。遠目から、ネズミ色の作業服で仕事をしている人達の姿が確認できましたが、流石に近くで話しはさせてくれませんでした。僕らが卒論の資料にするつもりだと知っているから、というのは少し穿った見方かもしれませんが、これではあまり良い資料にはなりません。
敷地内に大きな建物が幾つかあるのが目に入りました。その一つは舎房で、窓が少なくまたその少ない窓には、何故かブラインドが下がっていたりしました。中はきっと暗いのでしょう。その他にも、食料加工品製造用の施設や、所員の事務用の施設もありました。そして、農場に隣接してナノネット研究所が。
刑務所に入った事などありませんから、猿ヶ淵刑務所が他の刑務所と比べてどうだとかは分かりませんでしたが、それでも異様な点は直ぐに目に付きました。内部が、農作業や食品加工を行うグループと、ナノネットを研究するグループで大きく二分されていたのです。
説明によると、ナノネットを研究するグループの一部は、受刑者の中でもエリートに分類されるらしく、なんと舎房まで別れているらしいです。ただ、ナノネットに関する技能を持っていたとしても、それほど高度でなければあまり優遇はされていないらしいですが。
「まさしく“芸は身を助く”ですね」
その説明の後で、案内をしてくれた刑務官はそう言いました。その通りなのかもしれませんが、同じ罪を犯しているというのに扱いが違ってくるというのは、少し変な気がしないでもありません。
篠崎先輩は、終始無言で所内を見学していました。必死に観察をしているようです。いつものように軽い雰囲気がない。吉田先輩もあまり喋りませんでしたが、こちらは多分、元からこんな人なのだろうと思います。それで仕方なく僕は里中さんに話しかけたのです。
「ナノネットの研究で来たのに、研究の様子はあまり見学できそうにありませんね。期待外れではないですか?」
すると、里中さんはこう返して来ました。
「いや、そうでもないですよ。この刑務所内に入れただけでも、まずは良かった。どんな場所なのか分からない事には、どうしようもないですから」
僕にはナノネットの専門的な知識はありません。だから、里中さんがどんな点に注目して何を見たがっているのか想像もつきませんでしたが、それでも、その返答に妙な感覚を抱きました。
いえ、返答ではなかったのかもしれません。里中さんが何を見ようとしているのか。それが、本当にナノネットに関するものだとは思えなかったのです。そして、違和感を覚えた僕にはそのままその会話を閉じてしまう事ができなかったのです。なんだか、気になってしまって。
「ここの刑務官の人に、ナノネットの質問をしてみたりしなくていいのですか?」
それでそんな質問をしてみたのです。すると里中さんはこう言いました。
「それで分かれば、ありがたいのですがね。ここの刑務官は、どうやらそれほどナノネットに関する高度な知識を持っている訳じゃないらしいのですよ。もちろん、外部の技術者に依頼して協力してもらってはいるみたいですが。
これは偶然に知ったのですが、この刑務所は、ナノネット研究所の為に人材を特別多く募集したりはしていないようなのです。高度な技術を持った人をたくさん雇うと人件費がかかるかららしい。もし、これ以上ここのナノネットの深い知識を知りたいと思ったら、受刑者としてここに入る以外の方法はないみたいですね。今のところ」
「それって、つまり受刑者にほとんどのナノネットの管理を任せているという話ですよね? 偏見があると思われ兼ねないですが、少し心配ですね。危険なナノネットとか扱う可能性はないのでしょうか?」
「いや。心配するのはもっともです。安全対策は万が一を考えて臨むべきものですから。
ですが、その心配はないかもしれません。少数とはいえ専門的な知識を持った人もいますし、外部の技術者からも監視されています。それに受刑者相互間での監視や、できる限りの刑務官の監視も行われているようなので」
少し会話しただけですが、なんだか妙にこの猿ヶ淵刑務所について詳しい気がしました。僕はますます里中さんを不審に思います。そして、里中さんは、猿ヶ淵刑務所の見学が終わった後も僕らに接触をして来たのです。
「何か協力し合える事があるかもしれないから」
と、連絡先を渡して。篠崎先輩は何も不審に思わずその申し出を快諾していましたが、僕は少しの悪い予感を覚えたのです。