4.復讐という欲望
(ナノネット研究員・里中蛍)
あの男は猿ヶ淵刑務所に居る。
それが分かっていながら、何もできないのは苦痛だった。法律などどうでもいい。刑務所に入れるだけなんて生温い。ボクはあいつに復讐がしたい。直接、自分の手で。
殺してやりたい。
できれば。
あいつは、緒義というあの男は、ボクの妹を殺したんだ。しかも、さんざん陵辱した上で。
なんでそんな目に遭わなくちゃいけないんだ? 何の罪もない、可愛い妹が。
昨年の春。ボクの妹は殺されてしまった。異常性癖を持つ、緒義という男に。もちろん、その男は捕まり裁判にかけられ有罪になった。刑法39条は適応されなかった。性癖は異常だが、充分な理性があり責任能力はあると判断されたんだ。それは当然の判決ではあったけど、もし無罪になっていてくれたなら、とも思う。刑務所の中に入っていなければ、もっと簡単に復讐ができたのに。
緒義という男には前科があったらしい。十数年も服役していたのだとか。しかも、罪状は幼女に対する強姦。ボクの妹と同じだ。つまり十数年服役していても、何も反省しなかったんだ。
そんな男は……、殺してしまうしかないじゃないか。
異常性癖のある人間の性質を変えようとした試みは、ほぼ全て失敗に終わっているという話を聞いた。ホルモン分泌を無効にする薬を投与して化学的に去勢しても、どんなセラピーを行っても、そういう人間の異常性癖とそれに伴う性欲を満足させる為の犯罪はなくならなかったらしい。
捕食者。
そういう人間の一部はそう呼ばれているのだとか。
獲物を求めて彷徨う捕食者。
ゾッとする。
「予防が全てなんですよ」
テレビでどっかの何かの知識人が、そんな事を言っていた。“予防が全て”。逆を言えば、それはそんな人間になってしまったのなら、もう手の施しようがないという事だ。そういった性質を持つ人間の中には、自分は絶対に殺しを止められないから、死刑にしてくれと懇願する者もいるらしい。
憐れな罪深き者ども。
今回の罪で何年間、緒義が刑務所に入っているかは分からない。しかし、いずれはまた出てくるんだ。
なら。
次の被害者…… 何の罪も持たない幼い犠牲者が出る前に、殺してやった方がいいんだ。
刑務所に入る手段。
それが必要だった。調べてみるとその刑務所には、ナノマシン・ネットワーク研究所があるらしい事が分かった。しかも、それなりの業績を残しているのだとか。
そこが狙い目かもしれない。
ボクは薬品メーカーのナノネット研究室に所属している。この肩書きを利用して、何とかこの刑務所に入れないだろうか。見学という手段もあるかもしれない。まずは、入れるだけでもいい。
ボクは仕事をしながら、刑務所内で研究されているというナノネットの勉強をした。どんな研究をされているかくらい分からないと、見学をするチャンスはつかめないだろう。勉強してみて少し驚いた。主に食品加工技術や農業の生物農薬の代わりといった方向で、ナノネットを用いられていたのだけど、それらナノマシンはどれでも人間の精神に作用するタイプのものを元にしていたからだ。あまり一般的な使われ方ではない。
ボクも薬品メーカーに所属している関係で、専門的な使われ方をする特異なケースでなら、精神作用効果のあるナノネットを扱っている事はいるけどそれほど多くはない。薬品メーカーですらそうなのだから、食品加工や農業では更に接点がない気がする。僕は、俄かに興味を覚え始めた。この話をネタにすれば、もしかしたら、上司を説得できるかもしれない。刑務所内を見学できるよう、会社に動いてもらえれば、と思ったのだ。
しかし、それは上手くいかなかった。多少の興味は持たれたけど、刑務所だと印象が悪いと突っ返されてしまった。医療という分野を扱う以上、イメージは重要なのだと。ただその代わりに、情報を教えてくれた。
「紺野秀明というナノネット研究者を知っているか?」
紺野秀明?
名前くらいは聞いた事があったけど、詳しくは知らなかった。そう言うと上司は、こんな説明をしてきた。
「まぁ、企業の研究室にいるとそれほど聞かないかもしれないが、ナノネットの分野じゃちょっとした有名人だよ。あまり金にはならないが発想が独創的で、自然繁殖しているナノネットを中心に研究している」
「はぁ」
それがどうしたと言うのだろう?
「それでな、この人のもう一つ有名な点に、その人脈の多さがあるんだよ。多分、だからウチとも少し繋がりがあるのだと思うのだが。何故か知らないが、警察関係者にまでコネがあるらしい。ナノネット絡みならば、もしかしたら、その刑務所とも紺野さんがコネを持っている可能性はある。連絡をつけてくれるかもしれないぞ」
それからその上司は、ボクにその紺野秀明という男が営んでいる研究所の住所と連絡先を教えてくれた。
「そんなに勉強してみたいのだったら、お願いしてみるといい。会社名を言えばきっと話くらいは聞いてくれるはずだ。個人としてその刑務所の技術を参考にするくらいなら、構わんだろうからな」
ボクの行動に感心したのか、上司は朗らかな表情でそう言った。ボクは少しだけ、心が痛むの感じた。上司はボクを完全に信用してくれているんだ。ボクはそれを裏切った事になるんだろう。ただ、今のボクにはそれ以外に手段はなかった。その日の夜に、ボクは紺野秀明氏の研究所にメールを送った。返事は、数日の後に送られ来た。紺野氏は研究所への訪問を簡単に許してくれた。
その紺野秀明という研究者のナノネット研究所は、そう遠くない場所にあった。それで、研究所自体に多少興味があった事もあって、ボクは直接訪ねてみる事にした。緑豊かな場所で、ガラスハウスなんかが幾つかあって、よく観察しないと先進的な農家かなんかと勘違いしてしまうかもしれないような施設だった。
紺野さんという人は、いきなり連絡を入れた上に、初めて訪ねるかなり年下のボクを温かく迎え入れてくれた。しかも、ボクは一方的な頼み事をしているというのに。人脈が多いというだけあって、社会的な繋がりは大事にしているのかもしれない。
実験室のような部屋の一角をパーティションで区切り、応接室のように仕立てた場所へボクは通され、そこで相談をした。なんとか猿ヶ淵刑務所のナノネット研究所を見学してみたいのですが、どうにかなりませんか、といったような話を。
「猿ヶ淵刑務所…… ですか。それはまた意外な名前が出てきましたね」
話を聞き終わると、紺野さんはそう言ってなんだか複雑な表情を見せた。
「流石に、知り合いはいませんか?」
ボクがそう訊くと、紺野さんは複雑な表情を困惑の表情に変えた。
「直接の知り合いは……、まぁ、いないという事になるのでしょうか。いえ、それも正しくはないですか」
それは明らかに、不自然な言葉の濁し方だった。ボクがどう問いかけようか迷っていると、紺野さんはその表情を読んだのか、
「いえ、知り合いというレベルの知り合いではないのですが、知っている人間ならいるのですよ。ただ、刑務所を運営している側の人間ではなく、まぁ、受刑者なのですね。その猿ヶ淵刑務所の」
とそう言って来た。
「受刑者?」
「はい、今回の話にも出た通り、猿ヶ淵刑務所にはナノネット研究所があるでしょう? その研究所の研究では、受刑者がナノネット研究を行っているのですよ。その受刑者の一人に私の知っている人間がいるのですね。もっとも、知り合いと言っても、一度か二度会った事がある程度なのですが」
受刑者………。なるほど、人脈が広いナノネットの研究者ならば、そういった人間が刑務所にいても不思議じゃない。
「その人は、どんな罪で捕まったのですか?」
やや驚いた事もあって、なんとなくそう尋ねてしまった。すると紺野さんは、苦々しい表情でこう答えてきた。
「人体実験です。もちろん、かなり危険なレベルの。ナノマシン、及びにナノネットに関する見識は大変に素晴らしく、また人体に対する理解もかなりの方でした。ただ、だからこそ、知的好奇心が極端に強い人でもあったのでしょう。結果的に、危険な人体実験を行ってしまったのです」
「その人が、刑務所の中で、まだナノネット研究を行っているのですか?」
「その通りです。少し心配ですね。しかも、この研究内容……。精神に作用するタイプのナノネットを使っている。もちろん、メリットがない訳じゃありません。人の精神への感応性の強さを利用して、ナノネットをコントロールするだとかいった利用方法ならば充分に考えられるでしょうから、それほど不自然ではないと思います。
ただ、それでもやはり気になる。もっとも、まさか人体実験をやっているような事はないと思いますよ。あの刑務所関係で、私にはそれ以外の知り合いはいないので詳しくは分かりませんが」
ボクはそれを聞いて落胆した。この口調からして、紺野さんにこの件を頼む事はできないだろうと思ったんだ。しかし、
「では、猿ヶ淵刑務所の中を、見学できるよう頼んでもらう事はできないのでしょうか?」
と尋ねると、紺野さんはこう答えたのだった。
「それが、そうでもないのですよ。まぁ、偶然なのですが、刑務所の中を見学する手段ならあるのです。紹介しても良いですが……、ただ、少し心配な点があるので、条件付きになってしまいますが、よろしいですか?」