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2.暴力の再生産施設

 (犯罪心理学専攻生・星はじめ)

 

 「人間社会が、人間の性質を勘違いして認識している例は数多くあるが、刑務所の制度はそれが誤って反映されてきた最も顕著なものの一つかもしれない。未だに、人間は求めるべき刑務所の理想像を定められず、軋轢を生み出し続けている」

 現代社会論の授業中。講師の先生が、そんな事を語っているのを僕はなんとく聞いていました。

 重要そうな点だけをノートに取って、後は適当に聞いている感じで。今回の内容は、犯罪心理学の講義とも被るので、それほど真剣に聴く必要はないと思っていたのです。この先生は単位を簡単にくれる方ですし。温かな日差しが窓から入ってきて、自然と目蓋が下がってくる午後の昼下がりの講義では、集中力がなくなるのも無理のない話です。ところが、

 ズンッ!

 ボーっとしていた僕の頭に、突然、そんな鈍い痛みが走ったのでした。一瞬、混乱しましたが、その痛みには覚えがあります。これは、頭突き。しかも相手は決まっている。

 「篠崎先輩……?」

 「星君、やっほ」

 振り返ると、そこにはニッコリと笑う篠崎紗実先輩の顔がありました。僕を見下ろしています。

 彼女は、僕が専攻している犯罪心理学教室の先輩で、何故か人に頭突きをかますという奇癖があるのです。僕は先輩の頭突きを、今までに何度もくらっているのですが。だから、その感覚に覚えがあったのです。

 僕は頭を摩りながら、尋ねました。

 「どうしたんですか? まさか、先輩、この講義の単位落としてるとか」

 「まさか。星君に、ちょっと用があって教室に入ってきたのよ。駄目よ、講義はちゃんと聴かなくちゃ」

 篠崎先輩は、そう言うと空いている僕の横の席にそのまま着席してしまいました。僕に用事を言うのが目的にしては、少し入ってくるタイミングが早いような気がしましたが、何も言わないでおく事にします。

 「刑務所の歴史は、そのまま失敗の歴史でもある」

 先生がそう言うのを、篠崎先輩は真面目に聴き入っています。僕がその様子を不思議そうに眺めていると、篠崎先輩は僕のその視線に気が付いたのか、

 「卒論に関係のある範囲だから、一応、真面目に聴いておこうと思ってね」

 と、そんな事を言ってきました。「星君も、真面目に聴きなさい」

 卒論に関係のある範囲……。僕はそれを聞いて少し驚きました。刑務所の問題は、犯罪心理学の中でも特に厄介な分野だからです。一般の人から誤解を受ける事が多く、かなりデリケートであるのと同時に、刑務所内という閉ざされた空間で研究もし難い。どちらかというと軽い印象を受ける篠崎先輩が、まさか卒業論文のテーマとしてそんな重いものを選択するとは僕は思っていなかったのです。

 「刑務所という施設が懲罰の為に存在していると思っている人は多い。確かに、実際そのように機能してもいるのだから、その誤解は仕方がない。しかし、少なくとも法律上、建前上は、近現代の法律論では刑罰の本質は教育であるとされている。何故、そのような結論に辿り着いたのかには、当然の事ながら理由がある……」

 いつの間にか、僕は先輩につられて講義を真面目に聴いていました。ただ、同じ様な事を犯罪心理学でも習っていたので、この内容は知っているのですが。そんな事を思っていると篠崎先輩が僕の腕をつつきました。

 「星君は、この答え知っているわよね」

 僕は頷きます。その間も、先生は続きを語っています。

 「……まず第一に、人権思想の国際的な普及がある。近代国家として、犯罪者にも人権を認めなくてはならない。その要請に答える為には、刑罰の基本を教育として定める必要があったのだ」

 その講義の声に続けるようにして、僕は小声でこう言いました。

 「でも、それだけじゃない」

 篠崎さんは頷きます。

 講義の声に合わせて、僕は続けました。

 「過酷な懲罰を与えて、見せしめにしつつ、反省を促す。時には、集団から隔離して孤独を体験させる。

 そんなやり方では、犯罪者が一般社会に適応した人間にはならない事が経験的に分かってきたのです。いえ、それどころか刑務所生活を体験した人が、もっと暴力的な人間になってしまうケースすら多くあり、結果的に刑務所は犯罪者を再生産する施設のようになってしまった。様々な犯罪者が集まるお陰で、犯罪の技術を学べてしまえるという要因も見過ごせません。

 つまり、ただの懲罰の場所として機能する刑務所では、犯罪者を増やしてしまい、社会全体の不利益になってしまうのです。だからこそ、そういった問題をクリアする為に、再教育の場としての刑務所が必要になっていった。それが、近現代刑罰が教育主義に達した大きな理由です」

 僕がそう言い終ると、篠崎先輩は満足そうな表情を見せました。そして、こう言いました。

 「偉いわね。ちゃんと真面目に勉強しているじゃない。良かった、良かった、これなら合格だわ」

 どうして先輩がそんな事を言うのか、その時僕は不思議に思っていました。

 それからも講義は続き、刑務所運営の問題なんかにも触れました。その辺りの話は犯罪心理学ではあまりやらなかったので、僕にとっても耳新しいものでした。こんな事を先生は説明しました。

 刑務所の運営は、自給自足が原則となっている。その為に、受刑者達の労働賃金は異常とも言えるレベルに低い。一方、刑務所を運営している側の人間達の人件費は高い。独立行政法人によって一部営まれているケースがある事も考慮するのなら、天下り官僚などの一部の人間の利益の為に、そういった現状が齎されているのではないかという懸念がある。

 要するに、本来受刑者達に支払われるはずの賃金は、運営側の利益になっているのです。さらに、その労働賃金の低さは様々な問題を引き起こしてもいるらしいです。まず、受刑者達の社会復帰を妨げる事、そして、労働賃金が低いからこそ、受刑者達の収入の一部を、犯罪被害者等への給付金に当てるような事も実現できない。だから、もしも天下り官僚の高過ぎる給料などを低く抑える事ができたなら、この現状を変えられるかもしれない、らしいです。

 「真面目に聞いてみると、犯罪心理学の観点とはまた違った話が聴けて、案外、面白いものでしょう?

 こういう問題は、あまり犯罪心理学では取り上げないけど、明確に刑務所の問題と繋がっているのよ」

 講義が終わった後で、篠崎先輩が僕にそう言ってきました。僕は素直に認めます。

 「本当にそうですね。少し軽く見ていたので、驚きました」

 「よしよし、いい反応だ。じゃ、ちょっと食堂まで付き合ってくれない? ほら、用事があるって言ったじゃない」

 篠崎先輩はそれからやや強引に、僕を食堂まで引っ張っていきました。篠崎先輩の物言いには何か引っ掛かるものがありましたが、これから予定がある訳でもなかったので、そのまま付いていったのです。一応先輩だから、断り難いですし。多分、断ったら頭突きをかまされるし……。

 食堂に入ると、篠崎先輩はコーヒーを二つ買って、何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回しました。どうも、誰かと待ち合わせをしているようです。目的の人物を見つけたのか、それから一人で本を読んでいる男の学生らしき人物の所へ向かいました。誰?

 僕は見た事がありませんから、犯罪心理学の専攻生でないのは確かでしょう。篠崎先輩が近付いても、その人は気付く様子を見せず本を読み続けていました。

 「お待たせ、吉田君」

 そう言いつつ、篠崎先輩はその人の前の席に座ります。

 吉田? やはり聞いた事のない名前です。

 僕は戸惑いながらも、篠崎先輩に続いて隣の席に座りました。その吉田という人は、読書を中断するのが惜しいといった感じで、やや緩慢な動作で本を閉じると、僕らの方に目をやりました。それから、挨拶もせずにいきなりこう言いました。

 「この人が、星君? 僕らの卒論を手伝ってくれるという……」

 はい?

 僕はそれを聞いて当然驚きます。慌てて、問いただしました。

 「ちょっと待ってください。聞いてませんよ、そんな話!」

 ゴツ。

 慌てた僕を落ち着ける為か、それともただ単に頭突きがしたかったのか、篠崎先輩はそんな僕に軽く頭突きをかましました。

 「落ち着く。確かにまだ何も言ってないけど、これから説明するから。何も強制しようっていうのじゃないのよ。

 安心して、星君にとってもそんなに悪い話じゃないと思うから」

 それを聞いて、僕は悪い予感を覚えます。これと似たようなパターンで、僕は本来なら全く関係のない事件に何度か巻き込まれている経験があるからです。何だかインチキ商売の勧誘のような雰囲気もありますし、逃れられるような感じでもないし。――それから篠崎先輩達は僕に説明をし始めました。

 「……つまり、卒論の資料作成を手伝う代わりに共同作成者にさせてくれるというのですか?

 それで、僕の時はそれを更新するだけで大丈夫なようにする、と」

 説明を聞き終えた後で、僕はそう言いました。因みに前に座っている吉田という人は僕より一年先輩で、社会学を専攻しているそうです。うちの大学では、異なった専攻教室間でも卒論の共同作成は認められているのです。普通の研究でも異なった分野の人達が協力する事は、極一般的にある訳ですが。

 篠崎先輩は僕の発言に、にこやかに笑いながら答えました。

 「その通りよぉ。卒業する年に大慌てするよりも、今からやっておいた方が後で楽できていいでしょう? 私達の研究を引き継ぐ形で卒論をやった方が、絶対に簡単なのは分かるわよね。

 私達もそれで助かるし、星君も楽をできるんだから、みんな得をする訳よ」

 みんな得をする……。

 どうも、やっぱり、何か騙されているような気がします。それに疑問もあります。

 「あの、それで、どうして僕なんですか?」

 僕に協力を求める理由が分かりません。別に他の人でも良かったのじゃないでしょうか? ……押しに弱そうで利用し易かったからじゃないのか、という嫌な考えが頭を過ぎりました。が、それはどうも主な理由ではなかったようです(主な理由では、ですが)。篠崎先輩は別の理由を挙げてきたのです。しかし、ある意味じゃ、その理由の方が僕にとっては嫌な理由でした。

 「ほら、星君ってナノマシン・ネットワークの専門家と交流があるでしょう?」

 「はぁ」

 交流があるというか、ただ単に利用されているだけのような気がしますが、確かに僕の知り合いには紺野秀明さんというナノマシン・ネットワークの専門家がいます。

 「実は、私達が今回卒論の題材にしようとしている刑務所では、そのナノマシン・ネットワークを研究開発しているのよ。特殊技能を持った受刑者を集めて、そんな仕事をさせているって訳。それで、その専門家とのコネが色々と役に立つのじゃないかと思ったのよね。私達よりは、星君の方が知識もあるだろうし」

 僕はそれを聞いて、ますますこの話を断りたくなりました。ナノマシン・ネットワークに関わりたくなかったからです。

 ――ナノマシン・ネットワークとは。

 ナノマシンという極細微のマシンがネットワークを形成する事で、何かしらの機能を持つ。というものですが、これがなんとタイプによっては、人間の精神にも働きかけをしてくるのです。ナノマシンを体内に取り込んでしまうと、ネットワークを通して幻覚を見せられたり、酷いケースでは操られたりもする。しかも、これが自然界にも繁殖をしていて、人間の精神やらをコピーし色々と人に悪影響を及ぼしてくるのです。まるで“悪霊”のように。

 ……もっとも、一般社会でこの事実は半分は信じられていないのですが。ちょうど、UMAやUFOのように。

 そして、実は僕はこのナノマシン・ネットワークへの感応性が極めて強いという、あまり嬉しくない体質を持っていたりするのでした。紺野さんと僕が交流を持つようになった理由もそこにあります。紺野さんにその体質を目に付けられて、色々と手伝わされているのです。ナノネットに取り込まれると、ほぼ確実に怖い体験をする破目になってしまうので、僕はなるべくナノネットとは関わりたくないのですが。

 僕は篠崎先輩に一から事情を説明して、今回の話を断ろうかと思いました。刑務所に関する事を卒論の題材にするのは大変でしょうが、申し訳ないけど、他を当たってくれないかと言おうと思ったのです。気の弱い僕でもそれくらいは言えます。ですが、そこでふと疑問に思いました。

 ……どうして、篠崎先輩は後輩に協力を求めまでして、刑務所を卒業論文の題材に選択しようと考えたのでしょうか?

 その時に、横の席からこんな声が聞こえてきました。

 「さっきの講義で、やたら犯罪者の肩を持つような事を言ってたけどさ。悪い事をやった連中の人権を保障するなんて、馬鹿げているとオレは思うけどね」

 大きな声だったので目立ちました。どうも、僕らと同じで、先の刑務所に関する現代社会論の講義を受けていた学生のようです。篠崎先輩は、その声に反応して視線をやります。発言から察するに、講義の内容を充分に理解できていないようでした。続けて、他の誰かがこう言います。

 「まだ法律できちんと罪が裁かれるのならいいけどさ、精神病の連中なんて罪が許されて、病院に入院するんだぜ。犯罪を犯したってさ。許せないよな」

 そのタイミングでした。そうその誰かが言い終えた途端、篠崎先輩の表情が変わったのです。しかも、そこからは、明らかに怒りの感情が読み取れる。

 僕は少し驚きました。

 「じゃ、もし精神病に罹っている人を、刑務所に入れたらどうなるの? あなた達の望み通りに」

 そして突然、その人達に向かってそんな質問を投げかけたのです。もちろん、言われた人達は驚いていました。

 なんだ、こいつは?

 というような表情になっていましたが、やがて自分達の発言に対し怒っているのだと察すると、こう答えました。

 「公平に罪が裁かれるようになるんだから、その方が良いじゃないか」

 それにまた篠崎先輩は噛み付きます。

 「それじゃ答えになってないわ。もしも、刑務所に入れたとしても、そこには悪い結果しか待っていないのじゃないの? 刑務所じゃ病気は治らない。もしかしたら、もっと悪い状態になるかもしれない。しかも、いずれそういった人達は出所してくる。そうしたら、また病気が原因で罪を犯すかもしれない。もちろん、そこには被害者がいるわ」

 時々、その理由をあまり深くは考えずに、『心神喪失者の行為を罰しない』、『心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する』という刑法39条を批判する内容を読みますが、これらの考えも刑罰の教育主義によります。犯罪者を社会復帰させるのが刑罰の目的なら、病気で犯罪を犯したものに必要な更正手段はその治療になるはずでしょう。

 篠崎先輩は、この観点から軽率な発言をした彼らの事を怒っているのだと思います。ただ、と僕は思います……

 「お前、被害者の立場を考えた事があるのか? 自分の家族を殺されて、そいつが無罪になったら許せないだろう?」

 そう。やはり罪を犯した者は許せない、復讐がしたい。というのは、自然な感情だとも思うのです。篠崎先輩はそれに対して更に何か反論をしようとしました。口を開きかけます。しかし、そこで吉田という先輩がそれを止めたのでした。

 「ちょっと待った、篠崎さん。少し熱くなり過ぎだよ」

 篠崎先輩は、そう言われて吉田先輩を見ました。吉田先輩は、感情を昂らせることなくそれを見返します。淡白に。それで、篠崎先輩は何かを呑み込むように黙りました。それから、今度は吉田先輩が語り始めます。ただし、それはまるで独り言のようでしたが。

 「近現代、刑罰の基本は教育で、だから更正手段として必要なのが治療ならば、罪を許すのは理に適っている。

 ただし、機能的に刑罰には、やはり復讐や犯罪抑制という面があるのは否定できないと思う。理性で自分の行動を制御できている人間には、確実にある程度の効果を発揮しているはずだ。だから、彼らの言う事にも一理あるんだ。刑務所で、病気の治療が行えるなら、或いは、それが一番かもしれないとも思うけどね。それと、二点ほど補足させてもらう。

 実社会では、一般の人が心配しているほど心神喪失で罪を免れる人は多くない。それに、精神病や神経症が原因となって、暴力行為を行う例も少ない。むしろ、健常者よりも少ないんだよ。小説だとか、物語の中ではそういう人が安易によく出てくるけどね。まぁ、物語を作る上で便利なのかもしれないけど。何かに襲われるという妄想が激しかったり、薬物依存やアルコール依存などの極一部の例外を除けば、そういう人達は安全だと思ってくれていいんだ。もちろん実際に危険であったとしても、治療による救いの手を差し伸べるべきであって、迫害なんかしちゃいけないよ。そんな事をすれば、もっと悲惨な事態になる」

 吉田先輩が語り終えると、そこにいた彼らは顔を見合わせました。微妙な空気になっているのが分かります。それから、直ぐに席を立つと何処かへと去ってしまいました。

 篠崎先輩を見ます。まだ、感情の昂りは完全には治まっていないようで、目を赤くしていました。そしてその所為で、僕は協力を断りたいと言い出せなかったのです。

 篠崎先輩の過去に、一体どんな事があったのでしょう?

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