23.おかえりなさい、この世界へ
(ナノネット研究員・里中蛍)
結局、僕は振り上げた消火器を、小村独歩の頭に落とす事ができなかった。どうしても。妹の仇。この男は妹を殺したんだ。しかも、とても酷い殺し方を……。何度もそう繰り返した。可愛かった妹を思い出しもした。
でも。
目の前にいる哀れな老人に、その影を見出す事はどうしてもできなかったんだ。
廊下から僕を眺める亡者どもは、いつの間にか消えていて、妹がただ一人、僕をじっと見つめていた。妹は、もう何も言わなかった。ただ僕を哀しそうに見つめていた。僕はその妹に対して、ごめんと謝った。触れたかったけど、触れられなかった。多分僕はずっとそんな事を繰り返していたのだろうと思う。
もう存在しないものを求めていたんだ。
この老人の目の前に立って、消火器を振り下ろせないでいる自分を自覚して、僕はそれに気が付いた。
やがて警備の人間が僕を見つけた。僕はそのまま懲罰独房に入れられた。
懲罰独房にもう“真夜中”は現れなかった。それどころか、どんなナノネットも現れなかった。ナノネット“黄泉の国”は、どうなってしまったのだろう。
小村独歩の姿を思い出した。
しばらく後、懲罰独房の中で、救急車のサイレン音を聞いた気がした。あれが、仮に小村独歩を運ぶ為のものだとしたら……。
何日か後で、懲罰独房を出ると、僕は再び外部のナノネット専門家と面会する機会を持った。以前に面会したのと同じ人間だった。その時に、ここ猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在する事を告げた。以前に面会した時、既に疑っているような素振りを見せていたけど、やはり彼は猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在すると考えていたようだ。僕の主張は簡単に受け入れられた。
それにナノネット“黄泉の国”の邪魔が入るかとも思ったけれど、それはなかった。恐らく、もう小村独歩はここにはいないのだろう。塀の外の病院に入っているのだ。或いは、既に死んでしまったのかもしれない。そしてその何日か後で、ナノネットの削除が猿ヶ淵刑務所全体で行われたのだった。
それからしばらくが過ぎた後で、突然に僕の出所が決まった。冤罪である事が判明したからだった。篠崎さんのお兄さんが、自首をしたらしい。どんな経緯があったかは分からないけれど。
冤罪で捕まった人間も、偏見の対象となる場合があると聞いた。一度捕まったというだけで、それでもう同じ人間としては扱われなくなってしまうんだ。被害者と言うべき人間が、更に辛い目にあう。酷い話だ。しかし、僕の場合はそれはなかった。それどころか、出所すると僕は半ば英雄扱いをされたのだ。ナノネット“黄泉の国”の正体を暴くために敢えて罪を被った事になっていたからだった。
違う、と僕は思った。本当は違う。
でも、僕はそれを否定しなかった。保身を考えた訳じゃない。本心では、本当の目的を言ってしまいたかった。だけど、それでは篠崎さんに迷惑がかかってしまうかもしれない。僕は彼女にそう言って、捕まったんだ。恐らく、そう言ったのは彼女なのだろう。彼女を嘘つきにしてしまう訳にはいかない。
塀の中にいる頃は、実感できなかったけれど、外に出ると、今回の件がちょっとしたスキャンダルになっていると分かった。テレビのニュース番組では、ナノネット使用を推し進めていたどっかの独立行政法人が、釈明に追われる映像が流れていた。僕も当然、コメントを求められたけど、テレビを見ている人間が、喜ぶようなことは何も言えなかった。もちろん、後ろめたさがあったからだ。
今回の事件で、恐らく、ナノネットの使用規制の熱が高まるのは避けられないだろう。ナノネット技術者は、少し肩身の狭い思いをする事になるかもしれない。
僕は同じ会社に再び就く事ができた。特例中の特例で、捕まっている間は休職扱いにしてもらえた。ただ、なんだかんだ言っても多少は白い目で見られはするだろうと僕は思っていた。ところが、それもなかった。それどころか、皆は僕に気を遣ってくれているようだった。どうも、皆は不幸に巻き込まれた被害者として僕を見ているようだ。
何日かは、かつての調子を取り戻せないで戸惑ったけれど、やがては問題なくかつての日常を取り戻す事ができた。そして、そんなある日、職場に紺野さんが訪ねてきたんだ。どんな用事かは知らない。もしかしたら、僕の様子を見に来たのかもしれなかった。
紺野さんは僕を見ると、少し微笑んで近付いてきた。そして、小声でこう言ったのだ。
「もう、殺意はありませんか?」
僕は驚く。一体、どうしてそれを知っているのだろう?
僕は「はい」と小さく答える。すると、紺野さんは、
「おかえりなさい」
と、そう応えてきたんだ。
おかえりなさい、この世界へ と。




