20.刺激を欲して
(無職・浦上真)
突然に仮保釈が決まった。
ワタシにとって、それは予想外の出来事だった。否、それが予想外だったのはワタシだけではなかったはずだ。恐らくは、刑務官や他の受刑者にとっても予想外だったろう。
確かにワタシの刑務所での態度は良好だったかもしれない。だから、仮保釈が決まる理由があるにはあるのだ。だがしかし、それでも不自然な点がある。仮保釈が決まるには普通、塀の外にツテがなければいけない。就職先の雇用主だとか、知人でもいいのだが、身元引受人が必要なのだ。ワタシの場合はそれがなかった。もちろん、知人が設定された事はされたのだが、それは以前に刑務所で知り合った人間だった。結び付きもそれほど強くはない。審査が通るとも思えないのだが、通ってしまった。
それに。ワタシは、もう何度も刑務所から出所しては、また捕まり戻っているのだ。しかも、いずれも刑務所内での態度は、真面目なものだった。真面目だからといって信用すべきではない。そんな経歴がある人間に、仮保釈が認められるだろうか?
ワタシが何度出所しても、また罪を犯す理由は簡単だ。何も感じないからだ。例えば、街に出て何かの店で、美味しそうなものが目に入ったとする。お金がなかったのなら、ワタシはそれを躊躇する事なく盗んでしまう。盗みはいけない。知識として、道徳として、そんな事くらいは知っている。だが、それが何だというのだ? ワタシには分からない。ワタシはそれを悪いとは感じない。恐らく、ワタシにはその仕組みがないのだろう。
ワタシは今まで何度も人を傷つけてきた。何か欲しいものがあって、それを手に入れたいと思ったのなら、もうワタシは行動してしまう。少しも苦しさは感じない。世間で言われている罪悪感というものを、ワタシは理解できないのだ。
罪を犯せば、罰を受けるだろう。それなのに何故、お前は罪を犯すのだ。何故、それを学習しないのだ。
或いは、世間の人間はそうも言うかもしれない。しかし、ワタシにはそれも分からない。罰が、そもそもワタシには苦痛ではないからだ。刑務所に入れられ、管理される生活はそれなりに窮屈だとは思うが、それだけだ。何か欲しいものを手に入れる時の、抑止力になりはしない。管理されるというのも、考え方によっては楽なものだ。少なくとも、飢えて死ぬ事はない。
仮保釈される前の晩、異変が起きた。
雑居房で寝転がっていると、隣の男の枕の向こうから、声がしたのだ。正体を見ようとしたのだが、身体が動かなかった。金縛りというヤツかもしれない。ただ、それでも黒いモヤのようなものが、視界の隅に微かに見えてはいたが。
その声はワタシに言った。
『オマエは、黄泉の国の使者だ』
と。
黄泉の国の使者? 何の事だか分からなかった。しかし、ワタシはそれでも興味を覚えた。何故か、楽しかったからだ。快感を感じている。モヤは続けた。
『オマエは、外に出て紺野秀明というナノネット専門家を目指さなければならない。また、ある兄妹にも注目しなくてはいけない。いずれ、オマエの前にそれらの存在の手がかりは現れるだろう』
普段のワタシなら、そんな言葉に従ったりはしない。しかし、その時は違った。何故なら、快感が、刺激があったからだ。ワタシはそれに興奮していたのだ。
仮保釈された後、ワタシはまず更生保護施設に入った。行く当てなどなかったからだ。だが、迷う必要はなかった。何故なら初日から、モヤが言っていた手がかりがワタシの許に入ってきたからだ。
「里中って男が犯した殺人事件を知っているか?」
近くにいる男達から聞こえてくる何気ない世間話。積極的に聞く気があった訳ではない。ただ単に耳に入ってきただけだ。しかし、そこで気になるキーワードを偶然、ワタシの耳は拾った。否、それが本当に偶然だったのかは分からないのだが。
「その里中ってヤツはさ、篠崎の妹と知り合いだったらしいぜ。覚えているだろう? 同じ刑務所にいた、なんだか、神経質そうなあの男だよ。しかも、里中って男が逮捕されたのは、その篠崎のアパートだったらしいぜ。偶然にしては、でき過ぎていると思わないか? 篠崎は、何か情緒不安定そうなヤツだったしな。
俺は、あの殺人事件で、本当に人を殺したのは、篠崎だったのじゃないかって思っているのだけどな」
妹。
ワタシは直感的に、これだと思った。あのお告げの中にでてきた兄妹とは、その篠崎とかいうヤツらの事に違いない。
ワタシはその事件が起こった場所を、その男達から聞くと、次の日、早速出掛けた。もちろん、快感がその行為には伴っていたからだった。ワタシは常に、刺激の為に動くのだ。ワタシの身体はそれに反応する。微かにでもそれを見つけたのなら、それを離さない。ワタシの世界には刺激があまりないからだ。
その篠崎のアパートを訪ねると、既に妹の家に引っ越していると言われたので、その場でその引越し先を聞いて、ワタシは妹のアパートを目指した。ところが、その日、兄妹は留守にしていた。管理人に、何処に行ったのか知らないかと尋ねると、最近、事件に巻き込まれたから、念の為に場所を聞いていて知っているという。そして、こう教えられたのだ。兄妹は、紺野というナノネット専門家の許へ行った、と。
繋がった、とワタシは思った。こんな偶然があるはずがない。ワタシは正解を引き当てていたのだ。
ワタシは何かに導かれているかのような気分になった。否、実際にそうだったのかもしれない。ワタシは場所を尋ねると、そのまま紺野ナノマシンネットワーク研究所を目指した。もう、足は止まらない。
その研究所は、田舎にあった。好都合な事に、閑散としている。研究所に近付いていく。窓が開いていたので、その傍にワタシは身を潜めた。人の気配は感じる。しかし、近くにはいないようだ。どうしようか悩んだが、その場に留まる事にした。何か圧迫感のようなものを感じたからだ。少し覗き込んでみると、高校生くらいの黒い石を額に嵌めこんだ妙なガキが窓の外を睨みつけていた。その圧迫感は、そのガキから放たれているような気がした。何か嫌なガキだとワタシは思う。しかし、ワタシには気付いていないようだった。もう少し待つと、やがて数人の気配が近付いて来るのを感じた。覗いてみると、白衣を着た男がコーヒーを淹れていた。恐らくは、あの男が紺野なのだとワタシは思う。それからその男は窓辺に来ると、こんな事を言った。
「本来ならば、直ぐにでも自首すべきなのかもしれませんが、今回に限っては、この治療をしばらく続けた後にするのが賢明なのではないかと思います」
自首……。
ワタシは思い出す。噂をしていた男達は、本当は篠崎が殺したのじゃないかと言っていたか…。更に黙って聴いていると、自首するのはいつ頃になるのかという話になった。
「そうですね。少なくとも、二週間は必要でしょうか」
少し大きな声で、紺野という男はそう言った。二週間後。ワタシはその言葉を何故か、頭の中で反復した。まるで、誰かに伝えてでもいるかのように。
会話は更に進む。問題行動を起こす人間のタイプを話している。なんだか、難しそうな事を話す連中だ。ワタシは鼻でそれを笑った。感受性の強いタイプに、問題行動を起こす人間がいるような事を話していたからだ。ワタシにはまるで当て嵌まらない。
しかし、それから全く逆の鈍感なタイプもいるというような話になった。少しだけ、ワタシは興味を覚えた。恐らく、ワタシはそれに当たるだろう。そして、紺野とかいう男が、こんな事を言ったのだ。
「いい質問です、星君。実は、それがそうでもないのですよ。ちゃんと、鈍感なタイプを改善するナノネットもあるのです。そこの棚に入っているカプセルに、その為のナノマシンが入っているのですがね……」
ほぅ… とワタシは思う。それを飲めばワタシも変われるかもしれない訳だ。ワタシはそれを欲しいと思った。
そこで一度会話は途切れた。少しの間の後で紺野とかいう男が口を開く。やや不自然な気もしたが、ワタシは大して気にはならなかった。
「ところで、もう私は猿ヶ淵刑務所からは手を引こうと思っているのです」
猿ヶ淵刑務所?
ワタシはその単語に驚く。それはワタシがつい先日まで入っていた刑務所の名前だったからだ。一体、何の話だ?
「どうしてですか?」
如何にも驚いたといった感じで、二十歳前後の男の声が響いた。
「危険過ぎるからです」
と、紺野。
危険過ぎる……。それから女の声が響く。
「何かあったのですか?」
紺野はやや言い難そうにしながら、こう説明をし始めた。
「世の中には、色々な考えを持っている人達がいるものでして。ネット上に、少々変わったサイトがあるのですよ。犯罪者を監視するという。そのサイトを見れば、どんな犯罪を犯した人が、どの刑務所に入っているのかが分かるのです。もちろん、重罪を犯した人間ばかりですけどね。賛否はあるかもしれません。過剰な防衛は、人権侵害に当たり、受刑者の社会復帰を妨げてしまう可能性がある。また、そうした事自体が、モラルハザードを招いてしまう恐れもある。ただ、受刑者の更正に失敗し続けている今の現状を鑑みるに、心配に思う気持ちも分かるのですが。
そして、このサイトでは、その受刑者が仮釈放を認められたりした場合、警告を発するような事もしてしまうのです。何処から情報を拾ってくるのかは分かりませんが。そしてつい先日ですが、猿ヶ淵刑務所にいる浦上という男が仮釈放されたと、そのサイトに載っていたのですよ」
ワタシは笑った。それは間違いなく、ワタシの事だったからだ。面白い。
「それが何か?」、男の声。また、紺野は説明を始めた。
「このサイトで警告されていたのですが、どうも不自然に突発的に、この男は仮保釈が決まっているのですよ。そして、この男の経歴を観る限り、ほぼ間違いなく鈍感タイプだったのです。鈍感タイプは、ナノネット“黄泉の国”にとって、敏感タイプよりも行動を操作し易いのではないか、と思います。快感…… 行動を促すのと同時に、快感という刺激を与えてやれば、あまり考えなしに行動するでしょうから」
ワタシはそれを聞いて止まった。その説明に、ワタシのこの一連の行動が悉く当て嵌まっていたからだった。“黄泉の国”。そう、仮釈放前に現れたあの黒いモヤもそう言っていたか。
少しだけ、悔しさを感じた。ワタシは言いように操られていたのか。
女の声が響く。
「つまり、ナノネット“黄泉の国”が、その男を使って、私達に何か危害を加える可能性がある、という事ですか?」
「その通りです。ですが恐らく、手を引く姿勢さえ見せれば、黄泉の国は何もして来ないだろうと思います。私達に危害を加えるのも、黄泉の国にとってリスクがありますから、意味のない行動は執らないでしょう」
「では、里中さんは見捨てるのですか?」、男の声。しばしの間。「二週間後、篠崎さんが自首するまでに何かが起こった場合は、仕方ないと考えています」と、紺野は答えた。
それで会話は終わりだった。
ワタシは、研究所に誰もいなくなったのを見計らって忍び込んだ。何か面白くなかったからだ。そして、鈍感タイプを改善すると紺野が言っていたナノマシン・カプセルを盗み出した。
これを飲めば、ワタシのこの刺激のない世界も変わるはずだ。
――操り人形。
ふん。と思う。試しに飲んでみるか。
それを口に入れる。何も変わらなかった。その時はそう思っていた。しかし、その晩ワタシは夢を見た。何の夢だったかは思い出せない。しかし、起きた後、ワタシは涙を零していた。そして微かに胸に苦しみが。それは毎晩、酷くなっていった。眠る度に、苦しみが強くなっていく。ワタシの世界に、刺激が現れ始めていたのだ。
自分の脳が作り変えられているのだと悟るまでに時間はかからなかった。過去の自分を思い出すのが辛くなっていく。しかも逃れられない。
ワタシは、
ワタシは、どうなるのだろう?