19.悪夢の上書き
(妹・篠崎紗実)
紺野さんは目の細い優しそうな人だった。体格はどちらかと言えば痩せ型なのじゃないかと思う。私は失礼ながら、狐のような印象を持ってしまった。星君の意識と繋がった時にした会話の丁寧な対応から、人当たりの柔らかそうな人だと思ってはいたけれど、実際に会ってみるとそれ以上だった。私には、学者と聞くと、難しそうな偉い人といったイメージを安易に持ってしまう傾向があるので、その所為もあったのかもしれない。
「よく来てくれました」
細い目を更に細くして、微笑みながらそう言う紺野さんの態度からは全く緊張感が感じられなかった。それで私は、自分の抱いていた微かな不安を忘れる事ができた。そして私の後にいる兄も、そう同じ様に感じていてくれればいいのに、と思いもした。
「ナノネット“黄泉の国”の削除処理は、簡単に終わりますので、安心してください」
そのリラックスした印象そのままに、紺野さんはそんな事を言った。そして、紺野さんの目の前の机には、クッションのようなものがついた何かの道具が置いてあった。テレビで見る心臓マッサージ用の機械になんとなく似ているかもしれない。恐らくは、その機械で何かをするのだろう。
「どうして、ナノネット“黄泉の国”の削除処理が成功しているかどうか、里中さんは確認しなかったのですかね?」
そう質問をしたのは星君だった。彼がここにいるのは、場所を知っている彼に紺野さんの研究所までの道案内をしてもらったからだ。
「いえいえ、恐らく里中さんは確認していますよ。削除自体はできるのです。ただし、ナノネット“黄泉の国”にはですね、時間が経つと復活してしまうという厄介な性質があるのですよ。だから、完全には成功していないかもしれない、と私はそう言ったのです。だから、多分、今はほとんど無力になっていると思いますよ。影響力があったとしても、微弱なものでしょう。ただし、これから先は分かりません。だから、今の内に完全にその機能をなくしておく必要があるのです」
紺野さんが説明し終えるのを聞いて、私はなるほど、それなら里中さんが勘違いをしてしまっても無理はないかもしれない、とそう思った。
紺野さんのナノネット研究所は、広々としていて爽やかだった。緑が周りにたくさんあるし、気持ちの良い場所だ。窓も開いていて、開放的な印象がある。廊下だけは窓がない所為か暗かったけど、基本的には居心地が良かった。ただし、その場には一人だけ、私を落ち着かなくさせる存在がいた。
まだ、ほとんど言葉を発していないのじゃないかと思う。やたら無口な高校生。祭主君というのだそうだ。何故か、額の真ん中に黒い宝石のようなものが嵌っている。アクセサリーには見えなかったので、もしかしたら先天的なものなのかもしれない。紺野さんは紹介をしてくれはしたけど、その子がどうしてここにるのかは教えてくれなかった。そして、何故かその子だけは緊張をしているように私には思えていたのだった。
ただ初めは、そう見えていたのだけど、ずっと無口で座っているので、慣れてくるとそういう子なのかもしれない、と思い始めた。星君は前に会った事があるらしく、「あの時はお世話になりました」などと、挨拶をしていた。雰囲気から、星君と同系統の紺野さんの知り合いかもしれない、と私は考えた。
やがてナノネットの出力する電磁波を探知するのだとかいう機械で、紺野さんは私達を軽く検査した。私、それから兄へとその機械を当てる。紺野さんは数値を見ると、「やはり、ナノネット“黄泉の国”はかなり微弱なレベルまで結び付きが弱くなっていますね。ただし、完全には死んでいない」と、そう言った。それから机の上にある心臓マッサージの機械のようなものを手に取ると私達の身体にそれを当てた。なんでも、強力な磁場を発生させてナノマシンを壊す装置なのだとか。そうして、削除処理は呆気ないほど簡単に終わってしまった。
ただ。
「さて。ナノネット“黄泉の国”の削除処理はこれでお終いなのですが、まだ少し心配事があるのです」
と、それから紺野さんはそう言ったのだ。
「何でしょうか?」
私がそう質問すると、紺野さんはこう答えた。
「あなたのお兄さんです」
兄?
それを聞いて、兄は微かに身を震わした。
「あなたのお兄さんは、心に深い傷を負っているのではありませんか? そして、その傷の痛みを今も受け続けている」
それは確かに正しかった。どうして知ったのかは分からないけど……。いや、この人には兄が殺人を犯した事は既に告げてある。しかも、この人はナノネット“黄泉の国”を色々と調べているのだ。私達の経歴くらい調べていても、不思議はないか。
私は無言のまま、ゆっくりと頷いた。
紺野さんは私が頷くのを受けると、微かに微笑んでから言った。
「少し話を聞いてはくれませんか?
いえ、大した事は話しません。ちょっとした雑学です」
私はそれにも頷く。すると紺野さんはこんな説明をし始めたのだった。
「人間は学習するという機能が、高度に発達した生き物です。学習とは、学んだ事に基づいて己の行動を修正する事。生物において、もっとも初期に現れたのは、危険を回避する為の学習だと言われていますね。辛い体験をした場合、強くそれを刻印し、次からは同じものを避けようとする。最も原始的な感情が恐怖だと言われているのはだからです。そしてその“恐怖の学習”は、容易に為されてしまうものでもあります。つまり、人間はストレスを経験すると、簡単にそれを脳に刻んでしまうのです。そして、同じような境遇に陥ると不快を感じたり、不安になったりするようになる。酷ければ、パニックに陥ります」
その紺野さんの説明が、兄の心の傷に関するものだというのは簡単に分かった。兄は、その酷い体験を深く心に刻み過ぎてしまったんだ…。
「それが生物の生き残りの為に、必要な性質であったのは言うまでもありません。それは環境に適応する為の仕組みでもある。しかし“恐怖の学習”には副作用もあります。許容範囲外のストレスが人間に加わると、その人は間違った適応の仕方を学習するようになってしまう……。例えば、防衛の為に暴力的になってしまったり、必要以上に固まってしまったり……」
そこまでを話すと、紺野さんはしばしの間を置いた。私はその間に少し不安を覚える。すると、私の顔色を見抜いたのか、私の顔を見ながら紺野さんは微笑んだのだ。
「人間……、いえ、学習するという性質は中々厄介なものでもあるのですね。ただし、この“恐怖の学習”を、防ぐ手段が全くない訳でもありません。
何か悲惨な体験をしたとしましょう。その時にももちろんショックを受けるのですが、それで完全に脳への刻印が為される訳ではないのです。脳はそれから、その記憶を恐怖と結び付ける為の処理を行うのです。その代表例が夢ですね」
「夢?
夢の中では、そんな事が行われているのですか?」
それを質問したのは、星君だった。
「恐怖だけではありませんけどね。少なくとも夢の機能の一つに、脳に蓄えられた情報の整理というものがあると分かっているのですよ。もっとも、その整理の過程で副作用として現れるのが夢なのか、絶対に必要なものなのかまでは分かってはいませんが。
恐怖というのは重要な感情ですから、できるだけ深く脳に刻み込もうとします。ですから、それを何度も反復する。結果的に、酷い体験をすると、それを悪夢として何度も見る事になるのです。この過程で、脳は恐怖回避を学習していく……。
という事は、その処理を薬品などで和らげてやれば、恐怖の体験は酷い傷にはならないのです。もちろん、タイミングが遅すぎれば意味がありません。ですが安心をしてください。遅過ぎた場合でも、対抗手段があるにはあるのです」
私はそれを聞くとほぼ反射的に反応してしまっていた。もしもそれができるのなら、と心の底から願っていたのだと思う。
「その手段とは何ですか?」
そう言った後で、後に兄がいる事を思い出す。兄は、私の反応をどんな思いで受け止めたのだろう?
紺野さんはニッコリ笑うと言った。
「その恐怖体験を、上書きして修正してやればいいのです。よく言うでしょう? 文章を書いて、それを整理する。過去の経験になってしまっているそれは、既にそれほど恐れるべきものではない事を、脳に教えてやるのですね」
私は兄を背後に感じつつ、こう言った。
「でも、それはそんなに簡単なものではありません。それに、もしそのストレスが酷過ぎて、自身のコントロールすら失われていたのなら、どうすればいいのですか?」
半分、私は涙ぐんでいたかもしれない。この会話は、もう悩み相談に近くなっている。
「そうですね。酷いストレスが、長期間続くと、人間は深く深くそれを心に刻み込んでしまうものだといいます。短期間ならば何とかなっても、日常的に長期間暴力を受け続けるような場合は難しい。それでも、全く無意味という訳ではないのでしょうが」
「じゃあ、どうすればいいのですか?」
すると、紺野さんはまた笑った。私をリラックスさせようとしているのかもしれない。それからこう言う。
「安心をしてください。通常では、決定的に有効な手段がなくても、私にはナノネットがあります」
紺野さんはそう言い終ると、私の背後に視線を移した。恐らくは兄を見ているのだろう。そして、続けた。
「“夢”を使いましょう。
恐らく、あなたのお兄さんは、悪夢を何度も見続け恐怖の体験を再刻印しているのではないかと思います。それを逆手に取って、その夢を上書きしてやる事で、トラウマを克服してやるのです」
そこで星君が口を挟んだ。
「でも、確か精神に影響を与えるような、ナノネットの使用は法律で禁止されていませんでしたっけ?」
それに対して、紺野さんはこう返す。笑いながら。
「通常は、危険なので禁止されていますよ。しかし、私はその為の資格を持っているのです。伊達にナノネットの研究者をやっている訳ではありませんからね」
それから紺野さんは私の背後に視線を向けた。恐らくは、兄を見ているのだろうと思う。
「さて。後はあなた次第です。あなたに克己心があり、妹さんを苦しみから救いたいと思っているのなら、悪夢に挑む決心をしてください。
危険がない事は、私が保証しましょう。あなたは少しの勇気を持てばいい。それだけです。自分自身に向かい合い、変わる為の少しの勇気を持てば……」
私は怖くて、振り返って兄の反応を見る事ができなかった。しかし、一呼吸の間の後で紺野さんはこう言ったのだった。
「分かりました。
それでは、準備をしましょう。あなたには眠ってもらう必要があります」
恐らく、兄は頷いたのだろうと思う。
……眠りに就いてからしばらく、兄は苦しそうにしていた。私が心配しているのを察したのだろう。紺野さんは「まだ、悪夢を見ているのです。もう少し経って、ナノネットが馴染んでくれば、夢の上書きが始まり、楽になっていくはずです」と、そう説明してくれた。
その言葉通り、しばらく経つと兄は笑い始めた。鍋だとか、料理だとか、お母さんだとか……、そんな寝言を言っている。仕合せそうにしている兄を見るのは、随分と久しぶりの事で、それを見ている内に、私もなんだか仕合せな気分になってきた。私達にだって、こんな風に、当たり前の日常を仕合せに感じられる日が来てもいいはずなんだ。私は、その時、そんな事を思った。
「もう大丈夫でしょう。さて、あちらに移動して、コーヒーか何かでも飲みませんか?」
しばらく安定して兄が心地良さそうな表情を続けているのを確認すると、紺野さんは私にそんな提案をしてきた。本当はもう少しこの場にいたかったのだけど、私はその言葉に従う事にした。多分、何か話したい事があるのだと思ったから。
一角だけ、病院の一室のようにカーテンで仕切られた場所を抜けると、先にいた居間のようなスペースに移動する。紺野さんの研究室は、大きなフロアをパーティションで区切っているような作りになっていて、境界線は曖昧なのだけど、ソファの置いてあるそこが居間の役割を果たしているだろう事は、なんとなく分かった。
その居間のような場所に移動すると、紺野さんはコーヒーを淹れながら、頻りに時間を気にしているようだった。何があるのだろう?と思ってふと気付く。腕に付けてあったから腕時計だと思い込んでいたけれど、それは腕時計でないようなのだ。何か、グラフのようなものが表示されている。
なんだろう?と、不思議に思ったけれど訊くに訊けなかった。その内、紺野さんはコーヒーを私に持って来てくれた。しまった、取りに行けば良かったと私は後悔をする。星君は、自分で受け取りに行っていたのに。
紺野さんはその後で窓辺に移動すると、こう私に言って来た。
「本来ならば、直ぐにでも自首すべきなのかもしれませんが、今回に限っては、この治療をしばらく続けた後にするのが賢明なのではないかと思います」
もちろん、兄の事だろう。
「あなたのお兄さんは、悪循環のスパイラルに陥っています。このまま刑務所に入って、運悪く悲惨な経験をすれば、更に状態は悪化してしまうでしょう。少なくとも、それに対抗できるような精神状態を作った後でなければ、自首するべきではありません」
「それにはどれくらいかかるのでしょう?」
私がそう尋ねると、紺野さんは何故か少し大きな声でこう答えた。
「そうですね。少なくとも、二週間は必要でしょうか」
それから視線を祭主君という、例の無口な高校生に向ける。大した動作ではないかもしれないが、何故か私にはそれが少し不自然な動作であるような気がした。それから、星君がこんな質問を紺野さんにする。
「ちょっと前に吉田先輩から、感受性が強い所為で、問題行動を執ってしまうタイプがあると教えてもらいました。
もしかしたら、篠崎先輩のお兄さんはそんなタイプだったのでしょうか?」
紺野さんはそれに軽く頷いた。
「そうだと思います。だからこそ、余計に苦しんだのでしょう。本来、精神感応型のナノネットは、そういった人間を治療する為に発達したものなので、今回のケースには適していたのですよ。もっとも、ご存知の通りに危険性もあるので、軽々しく使ってはいけないのですがね」
紺野さんの説明を聞き終わると、更に続けて星君は質問をした。
「なるほど。
すると、その逆のタイプには、ナノネットはあまり有効ではないのですね。これも吉田先輩に教えてもらったのですが、問題行動を執るタイプには、刺激に対して鈍感な人達もいるそうなのですよ」
その質問に紺野さんは何故か嬉しそうな反応をした。
「いい質問です、星君。実は、それがそうでもないのですよ。ちゃんと、鈍感なタイプを改善するナノネットもあるのです。そこの棚に入っているカプセルに、その為のナノマシンが入っているのですがね……」
一見、普通に会話をしているようにも思える。しかし私は、その一連の流れに、何か演技しているような妙な印象を持ってしまったのだった。何でもない会話のはずなのに、祭主君という高校生が、さっきよりも緊張しているように見えたのも気になった。一体、何が行われているのだろう。今、この場所では。
私はなんだか少しだけ、窓の外が気になってしまった。




