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1.誘われているんだ

 (無職・緒義理)

 

 寒い日だった。

 オレはどこかの閑散とした住宅街を歩いていた。別に何か目的があった訳ではない。ただできるだけ人の少ない場所を求めて歩いていたら、いつの間にかにその道を歩いていたというだけの話だ。

 上手く世間に馴染めない。

 未だに。

 オレは数ヶ月前まで、別世界に住んでいた。塀の中。刑務所で、囚人として暮らしていたのだ。あそこは世間とは異なった一つの小社会だと思う。囚人達を縛るルールだけが異質な訳ではない。囚人達の間に成立している暗黙の約束事は、世間の価値観とは全く異なっている。長年、その中で暮らしてきたオレは、その社会に浸りすぎてしまったのかもしれない。だから世間が、オレには分からないのだ。

 もちろん、それだけではないだろう。オレが刑務所で過ごした数十年の間で、世間の方も変化しているのだ。オレが知っている世間はもう過去のものになってしまった。つまりは、オレは浦島太郎みたいなものなのだ。オレが帰るべき世界は、既に失われてしまったのだろう。

 ――否。

 もしかしたら、帰るべき世界はあるのかもしれない。

 

 塀の中にいた頃、ある男からこんな事を言われた。出所をするちょっと前だったのじゃないかと思う。

 『ここの飯を食っちまうとな、帰れなくなるんだよ、外の世界には』

 何の事かとその当時は思っていたが、今はその意味がよく分かる。オレには、今の自分と世間との差を埋められる自信がない。刑務所からやっと出たにも拘らず、また罪を犯して直ぐに塀の中に戻って来てしまう者がかなり多いのは、多分、こんな理由もあるのだろう。出所が決まると、外の世界に慣れる為に、リハビリが行われる事は行われるが、この現状を考えると、恐らくは充分ではないのだろう。少なくとも、オレにとっては全く無駄だった。

 否。

 ……それだけではないのかもしれない。あの刑務所は、何かしら異常だったのだ。他の刑務所に入った事などないから分からないが、あんな場所が他にあるはずがない。

 オレのいたのは、猿ヶ淵刑務所という所で、ナノマシン研究所が所内にあるという珍しい刑務所だった。ナノマシンに関する専門的な技能を持った囚人の一部に、研究をさせているらしい。オレは特殊な技能など持っていないから、そんな仕事などしなかったし、直接その研究所の中に入った事もない。ただし、その研究成果を利用した農業や食品加工やその他物質加工の仕事などは行っていた。かなり珍しい体制なのだろうが、オレが異常だと言っているのはそんな点ではない。だがしかし、では何処がどう異常だったのかと問われると明確には答えられない。とにかく、空気そのものが異質だったのだ。そして、その“空気”がオレに何かしら働きかけをしていたのだ。塀の中にいた頃は、そんな風には思わなかったが、出所し、世間に出てきた今はそれが分かる。何故なら、オレの中から何かが欠けているからだ。オレに働きかけをしてくる存在が、いない。

 出所したばかりの頃は、慣れない環境に曝されたストレスから、うつ気味になり、そんな感覚を抱いているのかと思っていたが、違うように思う。あの刑務所に入っていた頃はオレは生きている気がしていた。農作業や、その他の肉体労働。過酷だった。人間扱いすらされていなかったようにも思う。間違いなくあそこは酷い場所だ。しかしそれでもオレの感覚は健康だった。それが……。

 つまらなかった。否、それ以前の問題だ。オレは、刺激に対して反応する事ができなくなっている。ストレスの影響じゃないかと思ったが、ならばおかしい。自由がなく、娯楽もほとんどない塀の中の方が、圧倒的にストレスは大きかったはずだ。

 仕事が決まらない。このままいけば、支援も受けられなくなり、生活に困るだろう事は分かりきっているのにも拘らず、オレの中に危機感はなかった。何故だか、何も感じないのだ。

 冷たい風が吹きぬけた。それを受けてオレの皮膚は、冷たい、と感じはする。しかし、それが辛くない。何なのだ、これは? オレはいつ頃からこうなってしまったのだろう?

 昔を、思い出そうと頑張ってみた。

 まだ、刑務所に入っていなかった頃の自分を。あの頃、オレはどんな生活を送っていただろう? それを思い出せれば、もしかしたら、この世間でもう一度生活する術が見つかるかもしれない。

 ところが、それでオレが思い出したのは別のものだった。

 欲望。

 そうだ。オレは、欲望を抱えた人間だった。

 それが原因で罪を犯し、そして刑務所に入れられたのだ。

 それを思い出すと、にわかにオレは興奮した。どうして忘れていたのだろう? あれだけ悔恨し、苦しんだはずなのに。

 その時、歩き続けるオレの目の前に幼女がいるのが目に入った。

 閑散とした住宅街。日中ではあるが、人の姿は他にない。どうして、こんな場所に一人でいるのだろうかと思ったが、あまり気にしなかった。幼女は、大きなくまのぬいぐるみを抱えていた。まるで、そのぬいぐるみに依存しているかのように、ギュッと強く抱きしめている。

 カワイイ。

 オレは自分の顔に、自然と笑みが浮かんでいくのを抑えられなかった。

 罪の意識は、ある。

 だが、オレはその罪の意識を求めていた。苦しみたい。感覚のない世界を打破したい。それができるのなら、感じられるそれが苦しみであっても別に構わない。

 「お嬢ちゃん…」

 と、オレは話しかけた。幼女は、あからさまに不審の表情をオレに向けた。その表情に、逆にオレは惹かれる。このおんなを滅茶苦茶にしてやりたい。そう思う。しかし、そこで別の思考がオレに持ち上がってきた。

 やめろ。

 理性? 倫理観? それを何と呼べばいいのかオレには分からなかった。活性化し始めたオレの頭の何処かから、その声は聞こえてきた。

 そうだ、やめるべきだ。そんな事は。

 オレの頭は多分その時、まともな方向に揺れた。

 だが。

 『一緒に、遊びましょう』

 幼女がそう言った。そう思えた。聞き間違いかとも思ったが、驚いているオレに向かって幼女はまた訴えかけてきた。

 『あなたのしたがっている事を、してもいいのよ』

 いい訳がない。

 オレは再び揺れた。

 オレの中に、何が起こったのだ?

 よく思い出してみる。確かに声は聞こえた気がする。しかし、幼女の唇は全く動いていなかったのではないか?

 幻聴だ。オレの願望が、オレにそんな幻聴を聞かせているのだ。振り切れ! それは、嘘だ。しかし。

 『何をしているの?』

 また、幼女は声を発した。

 『早く遊びましょう』

 続ける。

 どうしてなのか、幼女から言葉を受ける度にオレの中に活力が蘇っていくように思えた。刑務所にいた頃と同じ。何かがオレの足りない部分を充足してくれている。

 オレは大きく揺れた。理屈がよく分からなくなっていく。やめろ、とオレは思う。罪悪感は感じないのか?

 感じる。しかし、大丈夫だ。何故なら、幼女が自らオレを誘っているのだから。

 視界がぼやけた。幼女が怯えている姿が目に映った。ほうら、あんなにオレを誘っているじゃないか。

 大きく揺れたオレの頭のどこかで、オレは思い出していた。そして、納得した。そうか、またスイッチが入っちまったのか。十数年前も、オレは自分の頭の中のこのスイッチの所為で暴走して、そして罪を犯して刑務所に入ったんだ。ずっと、押されていなかったのに。どうして、今更?

 誰かが、押しやがったのか?

 『早く遊びましょう』

 また、幼女が言った。分かった、とオレは返す。遊んでやるさ。一歩、足を進める。周囲に人はいない。子供の、足じゃ、逃げられない。

 が。

 『ヤメロ』

 と、その時、声が響いた。

 音として伝わってくる声ではないように思えた。直接、頭に。目の前を見る。幼女。幼女の様子がおかしい。頭を垂れている。そして、くまのぬいぐるみの両手を持って、まるで劇をやるようにそれを操っていた。

 『里佳子は、オ前ヲ誘ってなんかイナイ』

 そう言葉が、再びオレの頭の中に響いた。

 里佳子? この幼女の名前だろうか?

 オレはショックを受け、その場に座り込んでしまった。視線を、くまのぬいぐるみに向ける。こいつが喋ったのか?

 そのくまのぬいぐるみは、オレを睨みつけているような気がした。もちろん、目なんか作り物のはずだ。しかし、その目で自分が探られているとそう思えてならなかった。

 一呼吸の間の後、くまのぬいぐるみはこう言った。

 「オ前、ナニカと繋がっているナ」

 今度は、しっかり音で聞こえる。まるで少年のような声だった。呆然となっているオレに向かって、くまのぬいぐるみは続けてこう言った。

 「何かニ魅入られているゾ」

 もうオレの中から抑え難い欲望は消え去っていた。ショックで忘れ去ったのか、それとも。

 「一応、忠告しておいてヤルガ、誰カ、ナノマシンの専門家に相談シロ。コノママジャ、また何かをヤル。オ前と繋がった何かが、オ前を狂ワセル」

 くまのぬいぐるみの言葉の意味は、オレには分からなかった。

 オレと繋がった何か? どうして、ナノマシンの専門家に相談しなくちゃならない?

 しかし、薄っすらと感覚的にではあるが、その影をオレは感じてもいた。オレは、何かと繋がっている。そして多分、それはあの刑務所に関連した何かだ。

 多分、それにオレは誘われている。

 ただし、そう自覚してもオレは危機感を覚えなかった。むしろ、悦びを。

 それは、オレを受け入れてくれるはずだ。

 オレの感情を見抜いたのか、くまのぬいぐるみは、それから言葉を漏らすようにこう言った。

 「……コイツは駄目そうダ。紺野のヤツに、一応、報告してオクカ」

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