18.悪夢の足枷
(虜囚・篠崎忠志)
父親はいつもぼくを殴り、そしていつもぼくはその父親の事を刺す。妹が、遠くからぼくの事を悲しい視線で見つめている……。
夢。
最近、毎晩、あの夢を見る。父親を、ぼくが刺し殺すあの夢だ。
ぼくは工場の先輩を刺し殺してしまった。そのはずだ。混乱…… ぐらぐらの中で、ぼくは悪魔を刺し殺した。ぼくの世界の中の皆を護る為に。そして、ぐらぐらが治まって、はっきりとしてきた意識の元で、ぼくは先輩の腹にナイフが刺さっているのを見たんだ。ナイフが刺さっていたのは、父親と同じ場所だった。先輩は倒れていて、そしてたくさんの血を流していた。
また、やってしまった。
ぼくはそれを見て混乱した。もっとも、その混乱には狂想はついてこなかった。心はノックされていない。ドアの向こうの誰かもいなかった。ただぼくは無性に寂しくて。寂しくって堪らなくて。それから逃れる為に、妹を……、紗実を頼ったんだ。
アイツに電話をかけた。紗実の迷惑になるかもしれない、と怯えつつも。……今にして思えば、それはするべきじゃない行為だったのかもしれない。結果的に、紗実をとても苦しめる事になってしまった。
ぼくは確かに先輩を刺し殺したはずだ。だけど、それなのにぼくは逮捕をされなかった。紗実が来た後に、誰か男の人が来て、何かを言い合っていたのは聞こえていたけど、ぼくの頭にはそれらの会話は残らなかったんだ。だから初め警察が来た時は、ぼくはそのまま逮捕をされるものだと思っていた。それなのに、実際に逮捕されたのは後に来た男の人だったんだ。
ぼくは軽く混乱した。全ては夢で、そして本当はぼくは先輩を殺していないのじゃないかとも考えたけど、それは有り得ないと何故だかぼくは確信していた。
悪魔を殺したのは、このぼくであるはずだ。
つまりは、ぼくの身代わりで、あの男の人が逮捕されたという事だろう。どうしてそんな事を、あの男の人がしたのかはまるで分からなかった。後になって“里中”という言葉を紗実から聞いて、それがあの男の人の名前なのだと知った。もっとも、名前を知ってもどうしてその“里中さん”が、ぼくの罪を被ったのかは分からなかった。そして…… 現実感がなかったからだろう。ぼくにその“里中さん”に感謝する気持ちは少しも沸いてこなかったんだ。その原因の一つには、紗実が苦しんでいた事があったのかもしれない。紗実を苦しめているのはぼくで、そしてその“里中さん”なのだとぼくは悟っていたのだ。紗実は、多分罪の意識に苦しんでいる。
……ぼくが先輩を刺し殺し、そして“里中さん”がぼくの代わりに捕まったあの日から、ぼくは毎晩、父親のあの悪夢を見る。
紗実のアパートの一室。
そこに横になりながら、ぼくは父親と闘っていた。でも、父親はぼく自身でもあった。紗実を苦しめる父親。それはぼくだ。
なんで、こんな事になってしまったのだろう?
自問して、自悶する。
なんで、生きているのだろう? 早く死んでしまわないのだろう? 自分も他人も苦しめて……。
その時、声が聞こえた。
『お兄ちゃん、助けてぇ!』
それは明らかに紗実の声だった。しかも助けを求めている。ぼくは慌てて、部屋を飛び出した。
何があったのだろう?
だけど、飛び出した瞬間にぼくは混乱してしまった。そこが明らかに紗実のアパートではなかったからだ。紗実のアパートの廊下はこんなに長くない。大きくない。こんなに深い灰色はしていない。
一瞬、子供の頃に住んでいたあの家かとも思った。でも、何故そう思ったのか分からない。それくらいその廊下は異質だったんだ。ただ、一度も見た事がないはずなのに、どこかで見た事があるような気もした……。
『兄さんを助ける為なの。だから、お願い。一緒に来て』
確か、紗実からそう言われた気がする。それでぼくは紗実のアパートの外に出たんだ。もっとも、ぼくは自分の事なんてどうでも良かった。そう訴える紗実がとても苦しそうにしているようにぼくには思えて、それでその言葉に従ったんだ。紗実を助ける為に。
そうだ。とそれからぼくは思う。だから紗実は助けを求めているのかもしれない。
灰色の廊下は何かをぼくに思い起こさせた。刑務所の中。しばらく歩いてそれに気が付く。ここは刑務所の中にも似ている。ぼくをずっと捕らえている刑務所。そう思った瞬間に、そこは刑務所になった。長い長い廊下。牢獄がいくつもあって、そこを走り抜ける度にウツロな目をした囚人達が、ぼくをじっと見つめていた。
外にいたって、お前なんかちっとも羨ましくないぞ。
囚人達はウツロな目でそう言っていた。
外に出たって、お前はずっとここに囚われたままでいるんだからな。
その通りだとぼくは思った。ぼくはずっと刑務所の中にいるんだ。そして、その迷路を彷徨っている。きっと、ぼくはこの迷路を抜けられない。重い重い目には見えない足枷が嵌っているから。
でも。
妹だけは巻き込む訳にはいかないんだ。
ぼくは力強く足を踏んだ。重い足枷を実感しながらも。
やがて、灰色の長い大きな廊下の先に、黄色い光を放つ何かが見えた。どうも、それはドアらしい。ドアは開いていて、そこから光は入ってきている。
『助けて、お兄ちゃん!』
また、声が聞こえた。紗実の声だ。ぼくは足を速めた。絶対に、紗実を助け出してやるんだ!
ぼくは力強くそのドアの中へと入った。
光。
その瞬間に光が、ぼくの全視界を覆いつくした。何も見えない。あれ? ぼくはどうなったのだっけ?
ブスリ…
その瞬間。何かを刺したような嫌な感触が。あれ? 視界が明瞭になる。
父親が目を剥いている。ぼくは手にナイフを持っていて、それで父親の腹を刺していた。妹の声が聞こえる。
『お兄ちゃん、助けて!』
あれ?
だって、ぼくはお前を助ける為に……。遠くの方で、妹が涙を流してぼくを見ていた。あれ? だって…
また、視界がフェードアウトしていく。
『もう、お兄ちゃん。助けてって言っているのに、どうして手伝ってくれないのよ!』
気が付くと、ぼくは肉の塊を包丁で刺していた。妹は隣で戸棚から鍋を下ろしていて、転びそうになっている。
『お肉なんか切っている場合じゃないでしょう?』
妹がそう言った。
ぼくは何が起こったのか分からなくて、それで唖然となる。白い光。台所。清潔そうで仕合せそうな光景。
あれ?
『ほら、あなたたち。喧嘩しないで仲良くご飯を作りなさいー』
居間から母の声。
『分かってるわよ。喧嘩なんかしてないもん。ただ、お兄ちゃんに鍋を下ろすの手伝ってもらおうと思っただけ』
と、そう幼い妹は言う。
そうか、とそれでぼくは思い出す。確かぼくは妹と二人で鍋料理を作ろうとしいたんだ。偶には兄妹で昼ご飯を作ろうって話になって。
ぼくは紗実から鍋を受け取ると、『無理しないで、初めからぼくに任せておけば良かっただろう』と、そう言った。あの肉を刺す感触はそれだったんだ。父親を刺し殺す感触なんかではなくて、料理のために肉を切っただけ。
そうだ。と、ぼくは思う。
そもそもこの世界に父親なんかいないじゃないか。
父親と別れた後、お母さんが僕らを連れて一緒に暮らし始めて… それで。ぼくは殴られていないし、妹も泣いていないんだ。世界には光が溢れていて、温かくて優しい。
そうだ。
何も怖がる事はないんだ。ぼくは紗実を苦しめる父親なんかじゃない。だって、この世界にはアイツはいないのだから…




