16.篠崎先輩通信
(憑人・星はじめ)
『分かったわ。何があったのかを話す…… 本当は、殺人を犯したのは里中さんじゃないの。殺したのは、私の兄なのよ』
その言葉に僕は安堵感を覚えました。
殺人を犯したのが里中さんじゃない、というのは紺野さんや吉田先輩が予想していたので、それほど衝撃的ではなかったのです。もちろん驚きはしましたが、僕にとってはそれ以上に篠崎先輩からそう言葉が返ってきた事の安堵感の方が強かったのでした。これで重要な情報が得られるというのもありますが、何より篠崎先輩が僕らを信用してくた事が嬉しかった。
――篠崎先輩との通信前。紺野さんは軽く事の経緯を説明してくれました。
紺野さんは、ナノネットの研究を塀の中でもやっているという事実を知って、ずっと前から、猿ヶ淵刑務所のナノネット専門家を警戒していたのだそうです。ナノネットを使い、人心を操作して、何かをやっているのじゃないか。ただし、確信できる証拠は集められなかった。そして、そんな所に、僕らや里中さんが猿ヶ淵刑務所を見学する話が舞い込んできたらしいです。
「まさか、と思いましたけどね。それで、一応保険として、あの予防用カプセルを渡しておいたのですよ。
もし、猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”が誰かを罠に嵌めた場合は役に立つと思いましてね。もっとも、危険性があるのは特異体質の星君か、ナノネット技術者の里中さんかだろうとは思っていましたが。
里中さんが殺人罪で捕まってからは、特に慎重に行動しましたね。何かしら動くにしても、ナノネット“黄泉の国”の監視網に引っ掛からないようにしなくてはならない。星君から電話がかかってきた時も、それで素っ気無く対応したのですよ。本当は、下手に関わって危険を冒さないように、くらい言いたかったのですが」
調べていく内に、紺野さんはもしかしたら里中さんはずっと前から、ナノネット“黄泉の国”に狙われていたのじゃないかと考え始めたのだそうです。
「飽くまで、勘でしたが。
ただ、そう仮定すると、里中さんが私の所へやって来たのも全くの偶然という訳ではない可能性が出てくるのですよ。ナノネット“黄泉の国”のネットワークが、里中さんを間接的に操ろうとする過程で、私の人間関係のネットワークと、交叉してしまったのかもしれない」
もしも、紺野さんの話が本当だとすれば、里中さんは僕らに会った頃には既に、何かしら操られていた可能性があるのです。なんだか僕は妙な気分になりました。確かに、里中さんの様子はおかしくて、僕はそれを疑っていた訳です。その後で、紺野さんは黄泉の国がどういう理由で里中さんを猿ヶ淵刑務所に入所させたかまでは分からない、とそう付け足しました。そう話し終えた後で、吉田先輩がこう言いました。
「その筋書きが本当だとすると、里中さんが本当に殺人を犯したかどうかは疑わしくありませんか?
人殺しをさせる程の影響力を黄泉の国が持っていたのなら、もうずっと前に何らかの罪を背負わせて入所さていたはずです。それができなかったからこそ、わざわざ遠回しな手段を執ったのでしょうから。なら…」
紺野さんはそれを聞くと頷きました。
「私もそう考えています。先ほど、彼の意識と通信した際の反応も、罪を犯してしまった人間のそれじゃないし、何より言い分は妙なものでした」
僕はその言葉に納得をしました。確かに里中さんの言葉はおかしかったのです。里中さんは、自分は選んで刑務所に入ったというような事を言っていました。それが、誰かの罪をわざと被って、という事ならば意味が通じるように思います。
……篠崎先輩と接続する直前、吉田先輩は自分も参加したいと言い出しました。
「いえ、無理だったら良いんです。ただ、さっきの接続の時、紺野さんもそれに参加していたみたいだったので、簡単にできるのならお願いしたいと……」
「後、1人くらいなら可能ですが…… 一体、どうしたんですか?」
「多分…… 僕も彼女との会話に参加する必要があると思うのです。今、僕らと彼女との関係はぎこちなくなってしまっていてですね……。単純に、里中さんの事を聞き出すとかいった事だけじゃく、そういった意味でもこれは僕らにとって重要なんです」
紺野さんはそれを聞くと、少しの間の後に「分かりました。では、あなたもこのカプセルを飲んでおいてください」と、そう応えました。きっと、その方が篠崎先輩から話を聞きだし易くなると考えたのだと思います。
……篠崎先輩は、なにがあったのかを話すと言った後で、僕らに事の経緯を順序立てて説明してくれました。一度、話し始めると、もう以前の彼女に戻っているようで理路整然として落ち着いていました。いえ、それはむしろ、冷静さを取り戻すべく努めて自分を客観視しようとした結果だったのかもしれません。
『吉田君の言う通り、私は猿ヶ淵刑務所の見学の時、予防用カプセルを飲まなかったわ。もしも、私がナノネットに侵されれば、それを証拠にして、ナノネットの存在を白日の許にさらす事ができると考えたのだけど、今にして思えば、浅はかだったわ』
紺野さんはその説明の時に、腕組みしながらこう言いました。
『確証は持てませんが、或いはその時、篠崎さんは既に黄泉の国の影響を受けていたのかもしれません。
食品。猿ヶ淵刑務所は、食品を製造しています。卒業論文の作成の為に、その一つを買って食べたりした事はありませんか?』
『はい。確かに買って食べました。でも、それだけの事で影響を受けるものですか? 販売されてあるものなのに』
『それは何とも言えません。ただ、可能性は否定できません。続けてください』
『はい。
私は猿ヶ淵刑務所に入ると、トイレに行ってその水道の水を飲みました。もちろん、体内にナノネットを取り入れる為に。そして、そこで地獄絵図のような光景を見せられてしまったのです。もちろん、幻ですが。そして、その場で脅されました。この秘密をばらすような真似をしたら、兄がどうなるか分からないぞ、と。驚くべき事に、猿ヶ淵刑務所のナノネットは兄を知っていたのです。兄は猿ヶ淵刑務所に入っていた事があるのでそれほど不思議ではないかもしれませんが。そして、その時に紺野さんにだけは接触するなとも言われました。何故か、忘れていたのですが』
紺野さんに接触するな?
僕はそれを聞いて驚きました。それは、今回の相手が、既に紺野さんを意識しているという事だからです。紺野さんは苦笑いを浮かべると「やはり、既にばれてしまっていましたか」と、そう独り言を言いました。それからこう言います。
『恐らく、忘れていたのは、黄泉の国の所為でしょうね。そんな重要な事を、普通なら忘れるとは考え難い。
それで事態は更に厄介になっていると分かりましたよ。ただし、そこでちょっと疑問点があります。もしも自分達の存在を隠しておきたいのなら、幻なんてわざわざ見せなくても、何も働きかけずに、黙っている方がいいはずです。その上で、あなたの意識に働きかけて、私に調べてもらわなくてもいいような気分に操作する方がより確実でしょう。どうして黄泉の国はそんな事をしたのでしょうかね……。何か怪しい。
それで、その後であなたはどんな行動を執ったのですか?』
『私は…… 外に出たら、ナノネット“黄泉の国”の影響力は弱くなるのではないかと考えました。それで、里中さんに相談する事に決めたのです。名指しされた紺野さんに相談する度胸はありませんでしたが、里中さんならば大丈夫だと思って……。
どうして、そう考えたのかも、今にして思えば不自然な気がしますが』
僕はそれを聞いて怖くなりました。その時の気分に流されて、冷静さを失い行動を選択してしまう。誰にでもある事ですが、今回のナノネットはそれを操作してしまう。本人が無自覚で、自分の意志だと思っているところがより厄介な点でしょうか。
『なるほど。それであなたは里中さんに接触をし始めたのですね。もしかしたら、黄泉の国の狙いははじめから、それだったのかもしれません。
里中さんに影響を与えたかった』
そう紺野さんが言うと、その後で吉田先輩が質問をしました。
『それは、黄泉の国の、里中さんへの影響力はないか、あってもまだ弱かったからでしょうか? だから、ナノネット以外の何か、ここでは篠崎さんを通して、里中さんの行動を操作しようと考えた』
『恐らくは、そうでないかと私は予想します。だとするのなら、重要なのはその次ですね。篠崎さん。あなたはそれから、里中さんとどんな事を話し合って、どんな事をしたのでしょうか?』
流石にその時篠崎先輩からは、少し言い難そうな感情が伝わってきました。しかし、それでもはっきりと答えてくれましたが。
『里中さんは協力してくれると言ってくれましたが、その条件として、私の中のナノネットを削除すると言ったのです。じゃないと危険すぎると言われました。理に適った事ですから、私は不安に思いながらもその言葉に従いました。ところが、その後で兄から連絡があったのです。様子がおかしくて、それで私は里中さんに連絡を入れてから兄の許に行きました。すると、兄はそこで人を刺し殺していたのです。
私はしばらく放心状態になっていましたが、その後で里中さんもやって来て、それでその場で、里中さんはこの罪は自分が被ると言ったのです。兄が殺人を犯したのは、自分が私のナノネットを削除して、黄泉の国の怒りを買ったからだ。自分に責任があると言って。
もちろん私は、そこまではやり過ぎだと主張しました。ところが、里中さんは続けてこんな事を言ったのです。
捕まれば、ナノネット技術者の自分は間違いなく猿ヶ淵刑務所に入る事になる。そこで調査を行って、ナノネットが存在する証拠を示してみせる。そうすれば、ナノネット“黄泉の国”を退治できるはずだ、と。私はそう説得されて、里中さんが罪を被るのに同意してしまったのです。もちろん、その時も変だとは思っていたのですが』
僕はそれを聞いて、おかしいと感じました。もし、本当に里中さんにそんな目的があったのなら、通信の際にあんな発言はしないのじゃないでしょうか? むしろ、僕らと協力をしようとするはずです。
『変です。 ……篠崎先輩、実はさっき僕らは里中さんと通信していたのですよ。今と同じ方法で。その時は、そんな事は少しも言っていませんでした。しかも、塀の中で里中さんは既に黄泉の国と接触しているようだったのですよ』
『えっ……?』
篠崎先輩はその僕の言葉に驚いたようでした。紺野さんが言います。
『つまりは、里中さんには猿ヶ淵刑務所に入る何か全く別の目的があった事になりますね。そして、恐らくはナノネット“黄泉の国”にも、里中さんを招き入れる何らかの目的がある。それが何かは分かりませんが、取り敢えずは、里中さんの周辺をもっと調べてみる事から始めないといけないみたいですね。
それともう一つ。今の話で気になったのですが、篠崎さんは体内のナノネット“黄泉の国”の削除が問題なく行われたつもりになっているかもしれませんが、恐らくそれは完全には成功をしていません。ナノネット“黄泉の国”は少々特殊でしてね、特別な処理が必要になってくるのですよ。里中さんにそこまでの知識はないでしょうから。あなたのお兄さんも削除してもらっているかもしれませんが、それも同様です』
『それは本当ですか? では、一体どうすればいいのでしょか?』
『安心をしてください。私なら、なんとかできますから。ただし、あなたもあなたのお兄さんも私の研究所に来てもらう必要がありますが。
さて。ここらでこの通信も限界のようです。篠崎さん。話してもらえて本当に良かった。今度は実際にお会いしましょう』
紺野さんはそう言うと、それから通信を切りました。溜息を漏らします。そしてその後でこう言いました。
「まだまだ、色々ありそうですね。今回はちょっと危険かもしれません…… どこまで手を出すべきなのか、それも考えておかないといけないかもしれません」
ここまで弱気になっている紺野さんを、僕は初めて見たかもしれません。