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15.後悔の迷子

 (犯罪心理学専攻生・篠崎紗実)

 

 吉田君や星君の視線が痛い。

 何も質問をしては来ないけど、彼らが里中さんの殺人事件を知らない訳もなく、また私…… 私の兄がそれに関わっている事も恐らくは知っているはずだ。そう前提すると、質問をして来ない事が、彼らが私を疑っている証拠にもなっているように思える。

 気を遣われているのが分かる。でも、それが却って辛かった。と言っても、もしも質問をされたらされたで、私は困惑してしまうのだろうけど。

 図書館での話し合いの最中、吉田君が刑務所の運営側の問題点について解説してくれた。猿ヶ淵刑務所の場合特に、受刑者の労働賃金が利益に対して低過ぎるという話……、そして、労働力確保の為に、出所した元受刑者に犯罪を犯させているのではないか、という疑惑。

 猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”の存在のおぞましさを実感した今の私にとって、その話はリアリティを持って響いていた。しかし、だからこそ私はそれに触れたくはなかったのだった。

 “アレ”は危険すぎる。それに、何より兄はもう解放されているのだ。積極的に関わりを持つ気にはなれない。

 所詮、私も個人的な動機から、受刑者の社会復帰問題を考えていただけに過ぎなかったのだろう。

 いや、それも少し違うのかもしれない。

 兄…… 兄の犯してしまった犯罪。兄はまた人を殺してしまった。本当に捕まるべきなのは兄の方だったんだ。里中さんじゃない。確かに、受刑者の社会復帰は重要で、私はその問題と兄を重ねてもいた。しかし、それと罪を犯した人間が、刑罰にかけられないのとは別の話だ。やはり、罪を犯した人間が確りと刑に服すべきだ。その上で、社会復帰を行わなくてはならないはずだろう。

 私にはその負い目がある。多分だから、私は吉田君の持って来たその話題を避けたがったのだろうと思う。

 「いえ、ごめんなさい。面白い話だとは思うのだけど、私達にそこまで調べる時間があるのかちょっと心配だったものだから… 卒業論文作成の期間も限られているし…」

 私は吉田君の言葉に応えている途中で、言葉を濁して黙ってしまった。その後で、沈黙が続く。

 ……ごめんなさい。

 私は心の中で謝っていた。今目の前にいる二人に対してはもちろんだけど、それ以外の何かに対しても。

 私が始めようと言い出した卒業論文の共同作成を、私自身がぶち壊している。

 やがて、星君が口を切った。きっと、重い沈黙の間に耐え切れなくなったのだろうと思う。

 「あの… 話は変わるのですが、前に連絡を入れておいた件… 紺野さんのナノネット検査を受ける話は何とかなりそうですか?

 一応、検査をしておいた方がいいかもしれないって紺野さんが言っているのですよ。前にも話しましたが、無料ですので。できるだけ早く検査を受けた方がいいと思います」

 私はそれを聞いて焦ってしまった。里中さんから、ナノネットに侵されていたかどうかの痕跡は残るものだと教えられていたからだ。紺野さんという専門家の方は、優秀らしいからそれくらいは簡単に見つけてしまうだろう。私は慌ててそれにこう返した。

 「ごめんなさい。やっぱり、ちょっと予定が合わないのよ。待たせちゃうのは悪いから、先に吉田君と星君だけでも受けてもらっておいた方がいいかもしれない」

 きっとこの返答も、星君達からはおかしいと思われているだろう。そう思った。当然の事ながら、また重い沈黙の間が生まれた。

 「はぁ…」

 吉田君から溜息が漏れた。

 私を責めているんだ。そう思った。無理もないかもしれない。私は、吉田君達を信用できずに、何も話していないのだから。そしてその上で、こんな雰囲気を作り出してしまっている。吉田君は、続けてこう言ってその場を切り上げてしまった。

 「まぁ、取り敢えず、資料はプリントにまとめてあるから、また各自で調べよう。なんとなくの方向性は定まってきたしね。

 ある程度、文章を書いてからまた集まって、その内容を吟味した上で、どんな構成にするかを決定する。その時に、削る部分は削って、足りない部分は更に調査すればいい。こんな感じで、今日は解散で良いのじゃないかな?」

 もちろん、そうするしかなかったからだろう。私がこんな調子じゃ、話し合いなんか続くはずはない。

 それから私は逃げるようにして、図書館を出た。とにかく、何処か一人で落ち着ける場所に行きたかった。まだ講義が残っているから帰る訳にもいかなかったのだ。それに、家には未だに苦悩し続けている兄もいる。

 喫茶店で時間を潰そうかとも思ったけど、周囲の人間達の楽しそうな顔に、何か居心地の悪さを感じて直ぐに外に出てしまった。当てもなくしばらく彷徨ってから、私はほとんど人の入らない資料室に足を運んだ。薄暗い部屋。木製の床が微かに光を返している。音のないその空間は、私を許容してくれているようだった。

 そのまま冷たい床に寝転んだ。

 助けて、

 誰かが助けを求めている。私の中に、その誰かはいた。初め、それは兄なのだろうと私は思っていた。罪の連鎖。その環に嵌ってしまい、犯したくもない罪を犯し続け、苦しみ続けている兄。でも。

 それは徐々に形を変えていった。そして私は、自然と子供の頃の自分を思い出していた。父親が支配する、逃れられなかった、閉塞感と絶望感に満ちた世界。

 ――神様が嫌いな子供が言う。

 『ねぇ、なんで僕は生まれ来たの?』

 気が付くと私は泣いていた。助けを求めていたのは自分じゃないか。それは分かり切っていた事のはずだった。

 助けて。

 助けて。

 どうすればいいのか全く分からない。一体、出口はどこにあるのだろう?

 その時だった。不意に、私の頭の中に言葉が響いたのだった。

 『篠崎先輩? 聞こえますか?』

 何?

 一瞬、自分の頭がおかしくなってしまったのじゃないかと考えた。それから、ナノネット“黄泉の国”を思い出す。まさか、あれがまた現れたのだろうか? 感覚も、何となく似ている気がする。そんな…… (私は不安を覚え戸惑う) 確かに里中さんに消去してもらったはずだ…… それに、予防用カプセルも飲んだのに。私は急速に不安感を加速させていく。しかし、言葉はそれからこう続けたのだった。

 『怖がらないでください。僕は星です。今、ナノネットを介して、直接篠崎先輩の頭の中に言葉を送っているのです』

 星君?

 どういう事だろう?

 『どういう事? どうして、そんな事ができるというの?』

 『以前に僕が渡した、予防用カプセルを篠崎先輩は飲みましたよね? 実は、あのカプセルにそんな機能が付いているらしいのですよ。それで今、紺野さんの助けを借りて篠崎先輩の意識と通信できているのです』

 紺野さん……? 確か、星君の知り合いのナノネット専門家だったか。そう思っていると、また言葉が響いた。

 『初めまして、篠崎さん。私は紺野といいます。いきなり意識に働きかけるような事をしてしまって失礼しました。ですが、これには事情がありまして。一つには、できるだけ他の人間に知られないようにして、あなたと連絡を取り合う必要があった事があります。そして、できるだけ早く情報を知りたくもあった』

 “失礼をしました”と言われたけど、事態が常軌を逸し過ぎていて、私には何がどう失礼なのかが分からなかった。もっとも、確かに失礼と言われればそうなのかもしれないとも思ったけれど。

 情報が知りたい? もしかして、それは……。

 紺野という人は、先の里中さんの殺人事件について知りたがっているのだろうと私は察した。けど、私はそれに気付いていない振りをした。我ながら、情けないと思いつつも。

 『情報って何の事ですか?』

 そう返した途端、心が痛んだ。

 紺野さんという人と、星君だけならやり過ごせると思った。事態がこうなってしまった以上、本当は兄が殺人を犯した事を知られる訳にはいかないんだ。ところが、次の瞬間にこんな言葉が響いたのだった。

 『それは、既に君も分かっているのじゃないか? 篠崎さん』

 口調から、それが誰のものなのか私には直ぐに分かった。

 『まさか、吉田君?』

 『そうだよ。僕も今、一緒にいるんだ。僕も君と話す必要があると思ってね。君も本当はそれをしなくちゃいけないと、分かっているのじゃないか?』

 吉田君の存在に私は揺れた。吉田君は勘が鋭い。それに、こういう事態に対して無関心なようで、本当はとても感情面を気にかけている人でもあるし。そして、それに追い討ちをかけるようにして、こんな言葉が響いたのだった。

 『篠崎先輩。落ち着いて訊いて下さいね。捕まった里中さんですが、紺野さんの推測だと罠に嵌った可能性があるらしいのです。だから、どういう経緯で里中さんが殺人を犯してしまったのか、それを知らなくてはいけないのだそうで……。篠崎先輩はその事について何か知っているのじゃありませんか?』

 星君だ。

 里中さんが罠に嵌っただって?

 『何の事だか、全く分からないわ』

 違う。里中さんは罠に嵌ってなんかいない。むしろ積極的に自らの意志で、罪を被る事を訴え出たんだ。

 しかし、私はそこで気が付いた。自らの意志…… 確か、猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”は、人の意志を操作するのじゃなかったか? あの時の里中さんの様子は、今にして思えば明らかにおかしかった。まさか。それから、吉田君の言葉が響いた。

 『篠崎さん。これは飽くまで推測に過ぎないよ。でも、猿ヶ淵刑務所にナノネットが巣くっているというのはどうやら事実らしいんだ。そして、そのナノネットは人心を操作する事をやってのける…… なら、誰かに人殺しをさせる事だって可能なんだ』

 そう言われて、私は何も応えられなかった。里中さんは操られているかもしれない。それはまさに私が今想像した事だったからだ。

 『篠崎さん』

 吉田君は更に続けた。

 『君は猿ヶ淵刑務所を見学する前、星君から渡された予防用カプセルを飲まなかったのじゃないか? ところが、つい最近になってそれを飲んだ。驚かなくても良いよ、反応の強さから君がどれくらいの時期にそれを飲んだのかくらい簡単に分かるんだ。

 どうして君はそんな行動を執ったのだろう? もしかして、君は一度猿ヶ淵刑務所のナノネットと接触しているのじゃないか? それで怖くなって予防用カプセルを飲んだ。僕はそう考えている。そして、その一連の行動は里中さんの殺人事件とも繋がっているのじゃないだろうか?

 だとするのなら、里中さんが罠に嵌った可能性は更に高くなるよ』

 その吉田君の言葉に、私は絶句してしまった。一体、彼はどこまで分かっているのだろう?

 『でも…… 里中さんは、予防用カプセルを飲んでいるはずじゃ…』

 すると、今度は紺野という人がこう説明してきた。

 『確かに、彼は予防用カプセルを飲んでいます。ただし、人心を操作する方法は、ナノネット以外にも存在します。彼の周辺環境に働きかけていけばいい。

 それに、あの予防用カプセルは、飲む前に既にナノネットに憑かれていた場合は、効果がないのです。そして、微弱にならば、彼が感染していた可能性は大いにある。あの猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”は外部にも影響力を持っていますからね。自分でも気付かない内に、彼は何らかの影響を受けていた可能性がある』

 ナノネット“黄泉の国”。驚いた、紺野という人はその名を知っている。つまりは、それだけ調べているという事だろう。その上で里中さんが罠に嵌められた、と言うのであればそれなりの確証があっての話なのかもしれない。それに、そう言えば、忘れていたけど黄泉の国は紺野さんを恐れていた……。

 私はその時、自分でもどうすれば良いのか分からなくなっていた。確かに、理屈で考えれば吉田君達の言う事の方が正しいように思える。里中さんは、罠に嵌った。でも。

 『でも、だとしたって、里中さんはどんな理由で罠に嵌められたというのですか? それにどんな意味があるというの?』

 その質問には、吉田君が答えた。

 『そこまでは分からないよ。ただし、僕が前に語った運営側の問題を思い浮べてくれれば、それをやる理由が充分にあるのは簡単に分かるだろうと思うよ。里中さんは、若くて優秀なナノネットの技術者だ。黄泉の国は、多分そんな人を欲している』

 それに私は何も返せなかった。

 どうしよう? どうすればいい? 本当は私の兄が殺人を犯したのを告白するべきか? でも、それをやったら里中さんに迷惑をかけてしまうかもしれない……。

 困惑している私に向けて、また言葉が響いた。今度は、星君のようだった。

 『篠崎先輩。あなたがどんな状況に追い込まれているのかは分かりませんが、どうであるにせよ、僕らには真実を話して相談するべきだと思いますよ。どんな行動を執るべきなのか選択するのはそれからでも遅くはないと思います。それに、何より…… あなたはそんなに苦しんでいるじゃありませんか。

 いえ、すいません。どうも、直に繋がっている僕には、篠崎先輩の感情が少しだけ分かってしまうようなんです』

 私が苦しんでいる?

 そうだ。私は苦しんでいたんだ。何よりも、偽りで罪から逃れたという良心の呵責で。もう嘘はつきたくない。

 『僕らは協力者同士のはずです。どうか、何が起こったのか話してください』

 私はその星君の言葉に、遂に折れてしまった。

 『分かったわ。何があったのかを話す…… 本当は、殺人を犯したのは里中さんじゃないの。殺したのは、私の兄なのよ』

 気付くと、私は堰を切ったように話し始めていた。多分、ずっと告白してしまいたかったのだろうと思う。

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