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14.黄泉の国通信

 (憑人・星はじめ)

 

 刑務所の労働は、それほど効率が良くないのが普通らしいです。受刑者の高齢化や、熟練の度合い、また機材の制限などがあるのがその主な原因で、一般の民間企業に比べて6分の1程度の生産効率しかないと、そう参考にした本には書かれてありました。

 それでも利益があるのは、受刑者の労働賃金を異常なほど低く抑えてあるからです。そして、その利益の多くは国庫に入っているのだとか。業務の一部が民営化されているケースもありますが、そういった場合は官僚の天下り先になっているのが常だそうです。

 さて、では猿ヶ淵刑務所ですが、実は他の刑務所に比べて生産効率は大変に高いそうです。ナノネットを応用しているのが、その主な理由らしいのですが。そして、労働賃金に関しては他の刑務所と同様。だから他の刑務所に比べて利益が大きい。更に、産業部の経営は民間企業が担っているらしいです。民間企業と言っても、それは独立行政法人です。つまり、商品の生産、売買といった部分は、独立行政法人が担当しているのですね。もちろん、そこは例に漏れず官僚の天下り先の一つとなっています。利益が高いとくれば、それは権力の強さとも結び付きます。

 こういった事情から一部では、猿ヶ淵刑務所の再犯率が高いのは、運営側が優秀な労働力を確保しておきたいからだ、という噂が流れているのだそうです。その権力を用いて、誰かが犯罪をでっち上げている……。

 もっとも単なる噂に過ぎない上に、ナノネットと結び付けられて考えられている訳でもないようなのですが。

 ――以上は、主に吉田先輩が調べてきてくれた事で、図書館に僕らが集まって、卒論作成の意思統一の最中に聞いた話です。

 

 「観点としては面白いと思うんだ。僕らは犯罪心理学だとか、社会構造の方面からばかり猿ヶ淵刑務所を調べていたけど、こういった運営問題も決して見過ごせない。もっとも、この噂をそのまま信じる訳じゃないけどね」

 「うん……」

 吉田先輩の説明が終わると、気のない様子で篠崎先輩はそう返事をしました。吉田先輩は少しだけ眉をひそめます。それを敏感に感じ取ったのか、篠崎先輩は慌てて、こんな言い訳をしました。

 「いえ、ごめんなさい。面白い話だとは思うのだけど、私達にそこまで調べる時間があるのかちょっと心配だったものだから… 卒業論文作成の期間も限られているし…」

 言葉を濁して篠崎先輩は黙り込んでしまいました。その後で、気まずい沈黙が流れます。

 いつもの篠崎先輩らしくない。と、そのやり取りを見てそう僕は思いました。きっと、吉田先輩も同じ様に思ったはずです。篠崎先輩は、受刑者の社会復帰問題に関しては、この中で一番意欲を持って取り組んできた人です。今までは、この程度の事を躊躇しはしなかった。それに、本当に無理だと思っていたとしても、もっと毅然とした態度を執っていたはずです。やっぱり、先の里中さんの殺人事件で、何かがあったのでしょうか?

 篠崎先輩と、里中さんの殺人事件との関係について、僕らは何も篠崎先輩に質問をしていませんでした。普通に話しても、正直に話してくれるとは思えないし、それに、下手に触れれば、全てが台無しになって、根本から関係が壊れてしまうかもしれないからです。ただし、篠崎先輩が、僕らがその事を気にしているのを疑っているのは確かだと思います。篠崎先輩は、どんな思いでこの場にいるのだろう… 僕はその沈黙の間でそんな事を想像しました。

 しばらくが過ぎると、そのやや重い沈黙の間に耐え切れなくなった僕は、それをなんとか打破しようと無理に口を開きました。

 「あの… 話は変わるのですが、前に連絡を入れておいた件… 紺野さんのナノネット検査を受ける話は何とかなりそうですか?

 一応、検査をしておいた方がいいかもしれないって紺野さんが言っているのですよ。前にも話しましたが、無料ですので。できるだけ早く検査を受けた方がいいと思います」

 それを聞くと、篠崎先輩は明らかに動揺した様子でこう返してきました。

 「ごめんなさい。やっぱり、ちょっと予定が合わないのよ。待たせちゃうのは悪いから、先に吉田君と星君だけでも受けてもらっておいた方がいいかもしれない」

 その言い訳も何か不自然です。確かに、紺野さんの研究所に行く必要があるので、それなりに時間は取られますが、それでも全く予定の都合が付けられないなんて事はないでしょう。

 僕が訝しげに思ったのを、篠崎先輩は察したのか、言葉はそこで止まりました。それからまた気まずい沈黙が流れます。

 「はぁ…」

 少しの間の後で、吉田先輩は軽く溜息を漏らしました。恐らく半分は、篠崎先輩を責めているのだと思います。

 「まぁ、取り敢えず、資料はプリントにまとめてあるから、また各自で調べよう。なんとなくの方向性は定まってきたしね。

 ある程度、文章を書いてからまた集まって、その内容を吟味した上で、どんな構成にするかを決定する。その時に、削る部分は削って、足りない部分は更に調査すればいい。こんな感じで、今日は解散で良いのじゃないかな?」

 吉田先輩がそう言うと、僕らはそれぞれ無言で席を立って、図書館を出ました。なんだかとても悪い空気です。不自然さが停滞しているような感じ。もちろん、原因は篠崎先輩にあるのだとはっきりしています。でも、どうすれば良いのかはまったく分からない。

 今日はもうこれから講義もないので、そのまま帰ろうかと道を歩いていると、後から呼び止められました。振り向くと、そこにはさっき別れたばかりの吉田先輩の顔が。もちろん、何か用事があって追いかけてきたのでしょう。

 「やぁ」

 吉田先輩からは、珍しく表情がアリアリと感じ取れました。なんとなく疲弊したような、半分諦めたような表情。

 「少し話さないか」

 僕は無言で頷きます。何の事について話し合うのかは分かり切っていましたから。

 そのまま僕らは暗黙の了解で、中庭まで足を運びました。比較的人が少ないし、落ち着ける場所だからでしょうか、吉田先輩と話し合う定番の場所になっていたのです。吉田先輩はベンチに座ると、ゆっくりと口を開きました。

 「分かっているかもしれないけど、篠崎さんの話だよ。このまま、何があったのか有耶無耶なままで事を進めるのは、もう無理なのじゃないかと思うんだ。いや、卒論作成くらいなら多分なんとかなるよ。でも、問題はそれだけじゃないはずだ」

 僕は頷くとこう言いました。

 「それは分かります。篠崎先輩の状態は、明らかにおかしい。このままではいけないはずです。

 ただ、どうすれば良いのか、僕には分からないのですが……」

 吉田先輩は、その言葉を受けると無表情のままで言います。

 「僕は、少々強引にでも何があったのか尋ねてみるべきだと思う。君の知り合いのナノネット専門家の所に無理矢理にでも引っ張っていくとかね。

 とにかく、彼女と僕らの間にある壁を壊す事が第一だと思うんだ」

 「でも、正直に篠崎先輩は話してくれるでしょうか?」

 「分からないよ。だから、こっちも何を疑っているのか何を知っているのか、そういった事を正直に話すんだ。それでも彼女が何も話さないようなら、それで終わってしまってもいいと僕は思っている。卒論作成なら、別のをやるか、または今のままで共同作成じゃなくしてもいいと思う。彼女との関わりは、それで終わり……」

 吉田先輩の言葉を聞いて、僕は何も言えなくなってしまいました。やっぱり、空気が重い。その時でした。

 「こんにちは。何か暗いですね」

 そう突然、明るい女の人の声が響いて僕はびっくりしたのです。見ると、吉田先輩も驚いているようでした。誰だ?という目で、その女性を見ています。ですが、僕にはその女性に見覚えがありました。

 「山中さん…… どうしたんですか? 僕の大学にいるなんて」

 山中理恵さん。紺野さん関係で、知り合いになった女の人です。

 「星君、久しぶり。ちょっと星君を呼んでくるように頼まれちゃってね。こちらの方はどちら様ですか?」

 「この人は、吉田という先輩です。一緒に、卒業論文を作成しているんですが」

 僕がそう言うと、山中さんはニッコリと笑いました。それから、「なるほど、あなたが吉田さんですか。それはちょうど良かったわ。もし、時間があったら星君と一緒に来てもらえませんか? 大丈夫です。直ぐそこですから」と、そう吉田先輩に向かって言ったのでした。

 吉田先輩は無表情のまま僕に目で訴えてきました。多分、誰なのか説明を求めているのだと思います。

 「ナノネット専門家の紺野さんの知り合いで、時々、調査とかを手伝ったりしている人です。怪談なんかに詳しかったりで、少し変わったところはありますが、怪しい人ではありませんよ」

 それを聞くと山中さんは、「“変わった”は酷いな。まぁ、敢えて否定はしませんけどね」と、そうおどけて言いました。もしかしたら、僕らの暗い雰囲気を感じ取って、少しでも明るくしようとしてくれているのかもしれません。

 僕らはそれから、山中さんに連れられて歩きました。どうやら、大学のキャンパスの外を目指しているようです。人通りの少ない道路をしばらく歩く……

 「それにしても、よく僕の居場所が分かりましたね」

 そう尋ねると、山中さんは「星君はナノマシンには反応し易いので、分かり易かったのですよ」と、説明してきました。その返答で紺野さん絡みなのだと僕は察します。そのまま進むと、大きな白いワゴン車が停めてありました。どうも山中さんはそこを目指しているようです。

 僕らが近付くと、ワゴン車のドアは自然に開きました。山中さんはその中へ素早く乗り込みます。大きなワゴン車でしたが、中は様々な機材があって狭い。僕らが躊躇していると、「早く」と言って、山中さんは急かしてきました。

 「どうも、ご苦労様です」

 中に入ると、運転席の方からそう声がしました。山中さん及びに、僕らに向けてそう言っているようです。こちらを覗き込んでいるその細い目、なんとなく狐を思わせるような顔立ち。そこにいたのは間違いなく紺野さんでした。

 「初めまして。そちらの方は、話に聞いていた吉田君ですね。とても聡明だと星君から伺っています」

 「紺野さん。一体、どうしたんですか?

 いきなりこんな形で。連絡をくれれば、良かったのに」

 吉田先輩は萎縮してしまったのか、何も言いません。無理もないでしょう。

 「軽はずみに連絡を入れる訳にもいかない事情があるのですよ。ナノネット“黄泉の国”が監視していますから。もっとも、この行動も既にばれてしまっている可能性はありますけどね。一応、念の為に、ナノネットに感応し難い体質を持つ、山中さんに呼んで来てもらったのですが」

 ナノネット“黄泉の国”?

 ――まさか、それは…

 「それは、猿ヶ淵刑務所に巣くっているナノネットの事ですか?」

 そう質問したのは吉田先輩でした。

 「その通りです。今回は、少々厄介でしてね。このナノネットは、自然発生したものじゃないのです。その背後には、ナノネット専門家が付いている……。

 シャレて黄泉の国などと名乗っているようですが、それに当て嵌めると、そのナノネット専門家は、差し詰め冥府の王といったところでしょうか」

 僕はそれを聞いて、思い出しました。確か前に紺野さんと話してて……、

 「その専門家ってもしかして、以前に話していた紺野さんの知り合いですか? 確か人体実験をやって捕まったとかいう…」

 あの時、紺野さんの様子が少しおかしかった事を、僕はよく覚えていました。

 「よく覚えていましたね。まぁ、知り合いと言えるレベルでもないのですが、その通りですよ。もうかなりご高齢の方です。今でも独自の研究を進めていらっしゃるようで、困ったものです」

 そこで吉田先輩が手を上げました。そして、こんな事を言ったのです。

 「すいません。質問があります。さっき、こちらの女性の方が、星君はナノマシンに感応し易い体質だから見つけ易い、というような事を言っていたのですが、その意味をそのまま受け取ると、星君にナノマシンが混入していると取れます。

 その混入しているナノマシンとは、もしかしたら、以前に僕らが飲んだ、あの予防用のカプセルに含まれていたものですか?」

 それを聞くと紺野さんは、驚いたといった反応を見せました。

 「これは驚きました。なるほど、聡明な学生さんですね。将来が楽しみです。その通りです。よく分かりましたね」

 「いくら感応し易いと言っても、位置を特定するのなら、どんなナノマシンを体内に取り込んでいるかくらい分からないと難しいのじゃないかと思っただけですよ。なら、意図的に、あなたが飲ませたモノである可能性が高いでしょう。

 その事自体はそれほど気にならなかったのですが、一つ疑問があるのです。どうして、そんな事ができるのを前もって星君に話しておかなかったのですか? 信用していなかったからですか? それとも…」

 騙そうとした。或いは、これから騙そうとしている。

 多分、吉田先輩はそう考えているのでしょう。でも、それは誤解です。紺野さんを知らないから分からないかもしれませんが、紺野さんは決して悪い人じゃない。確かに、目的の為なら嘘くらいは平気でつく人ですが、そこに根本的な悪意はないのです。物事を丸く治める為には、ただ率直に行動すればいいという訳じゃないのを知っているだけで。

 「いえ、余計な面倒に巻き込みたくなかったからですよ。ナノマシンを飲ませた理由を説明すると、却って危険が及ぶ可能性があったのです。もしも、事態がこんな展開を見せなければ、この機能を活用する事もなくただ自然消滅させていました。予防効果があるのは本当ですしね」

 「つまり、ただの保険で、本来なら巻き込むつもりはなかった、と」

 「その通りです」

 しばらく吉田先輩は、何かを考えていたようでしたが、その後で何かを吹っ切るようにして、

 「分かりました。あなたを信用しましょう」

 と、そう言いました。

 多分、吉田先輩は今回の件で何かしら紺野さんの得になる事はないか、と考えたのだと思います。それが見当たらなかった。だから、紺野さんを信用するべきだと結論出したのではないでしょうか。それに、ナノネットに対抗するには、どちらにしろ紺野さんを頼るしかないのでしょうし。吉田先輩は、だから腹を括ったのだと思います。もちろん、僕の方は始めから、紺野さんを信用していますが。ただし、それでも僕には少し心配な点がありました。今から紺野さんは、一体何をしようとしているのでしょうか? どうして、僕を呼び寄せたのでしょう? しかも、山中さんまで使って。と言っても、薄々は勘付いているのですが。紺野さんの方から、僕に積極的に用がある動機は、大体が決まっています。十中八九、僕のナノマシンに感応し易いという体質を用いたがっている。嫌な予感を覚えます。これから僕は、何をやらされるのでしょうか?

 そして、吉田先輩が納得をしたのを見て取ると、案の定、次に紺野さんはこんな事を言ってきたのです。

 「さて。星君。もう勘付いているでしょうが、久しぶりにナノネットの世界に入ってもらいますよ。

 これから、獄中の里中さんと交信します」

 どうやら、僕の嫌な予感は的中をしてしまったようです。獄中の里中さんと交信って……。

 「理由はもちろん、里中さんが罠に嵌った可能性があるからです。ナノネット“黄泉の国”は人を誘い、罪を犯させている可能性がある。だから、何があって殺人を犯したのか、詳しい事情を里中さんから聞き出さなくてはならない。場合によっては、それで里中さんを助け出せるかもしれませんしね」

 もちろん、そんな事を言われてしまっては、僕にはとても断れませんでした。やるしかないみたいです。

 

 「“あの世”が“この世”と水平に位置する自然観って知っていますか?」

 紺野さんが“交信”とやらの準備をしている間で、突然山中さんは、そう僕に質問をしてきました。

 「“あの世”が水平に?

 いえ、あまり聞いた事はありません」

 普通、あの世と言ったら、上とか下とかに在るものでしょう。天国だとか、地獄だとかいった感じで。水平にあると… なんだか遠く離れた異界というイメージに合っていないような気がします。辿り着く事だってできてしまえそうな。ところが、僕がそう言うと山中さんは少しだけ笑ってこう説明してくれたのでした。

 「そう思いますか?

 ところが、日本には古くから、この水平の自然観が根付いていたりするのですよ。あの世が、身近にある自然観ですね。もちろん、天上や地下にあの世がある自然観も同時にあった訳ですけど。

 海を渡った先にある常世の国、この常世の国は、死者の国と解釈される場合もあります。四方と書いてヨモと読むのですが、黄泉という言葉の起源の一つを、ここに求める指摘もあります。そして、その意味での黄泉は、自分達の生活圏外を指し示しているのです。

 山一つ越えた向こう側は、もうあの世。生活圏が限られていた昔の人にとって、そこに住む人達は異界の人間です。そして、異界と死者の国の概念は被りもします。他の文化に住む人達は、その文化の人達にとって、死者でもあった。そこの食べ物を食べる…… そこの文化に染まり、その社会の一員になってしまったのなら、もう元の社会に復帰する事は難しくなります」

 説明をし始めた時、どうして山中さんがそんな事を言ってくるのか、僕には分かりませんでした。でも、それを聞いている内に、山中さんが何を思ったのか分かった気がしてきたのです。山中さんは更に続けました。

 「でも、本当はそんな事はないのですよね。例え、異なった文化に染まってしまったとしても、社会側に異物を受け入れる許容力さえあるのなら、その人達が異界の住人になるなんて事はないのです。“そこ”は初めから異界なのじゃない。異界にしてしまっているのは、それを受け入れる側……

 だから、黄泉の国の食べ物を食べてしまった人だって、この世に呼び戻す事ができるのだと、少なくともそう私は思っています」

 言い終わった後で、山中さんは「がんばってください」と、小さく呟きました。僕はそれを聞いて、少しやる気が出てきたのを感じます。

 ――僕ががんばれば、もしかしたら、里中さんを連れて帰ってこれるかもしれない。

 しばらくすると、紺野さんから白いカプセルを渡されました。見覚えのあるカプセルでした。確か、前にナノネット予防用だと言って渡されたものがコレと同じものだったような気がします。

 「そろそろ、それを飲んでおいてください。多分、平気だとは思うのですが、あなたの中のナノマシン濃度を高くしておきたいので」

 その意味は直ぐに分かりました。

 「つまり、前に渡された予防用ナノマシンには、そんな機能もあるのですね。里中さんもそれを飲んでいるから、通信が可能と…」

 「まぁ、そういう事です」

 僕はその白いカプセルをもらうと、一瞬だけ躊躇いましたが、それを一気に飲み込みました。通信の為に必要、とそういうモノだと聞くと、同じモノを飲んでいても何か違うような気がします。

 僕がそれを飲み込む終わると、それから連想したのか、吉田先輩が紺野さんにこんな質問をしました。

 「あの…… 星君の位置が分かったって事は、もしかしたら、篠崎さんがそのナノマシンを飲んでいるかどうかも、ここから分かったりするのですか?」

 紺野さんは作業を進めながら答えます。

 「星君の場合は特別です。星君は非常にナノマシンに感応し易いという特異体質の持ち主ですから、反応の強さや特性から特定ができたのです。だから、反応を調べても篠崎さんだと特定することはできません。ただし、今回のケースに限っては事情が異なります。予防用カプセルは私の特製品ですから。偶然、同じものが存在するとは考え難いので。そして、どうもこの近くにもう一つ反応があるようなのですね。あの予防用カプセルをあなた方が他の誰かに飲ませていない限り、それは篠崎さんだとほぼ言えると思います」

 篠崎先輩は予防用カプセルを飲んでいる。

 それを聞いて僕は少しの安堵を覚えました。ただし、同時に困惑もしました。それが正しいのなら、『篠崎先輩が予防用カプセルを飲んでなくて、刑務所のナノネットに既に憑かれている』、という吉田先輩の予想が間違っている事になります。ですが、だとするのなら、今回の里中さんが犯した殺人との奇妙な関連性が見え難くなってしまう。

 ところが、そんな僕の困惑を余所に、吉田先輩は続けてこんな質問をしたのでした。

 「その反応の強さは?」

 紺野さんはその質問を受けると、これは面白いといった表情で少し笑って、「強いですね」と、そう一言答えました。その後で「あなた達と比べて」と付け足しました。

 「という事は、予防用カプセルを飲んだのはつい最近、と考えられませんか?」

 「要因はそれだけじゃありませんが、恐らくその通りだと思います。篠崎さんは何かしらの必要があって、以前は飲んでいなかった予防用カプセルを最近になって飲んだのでしょうね」

 僕はそれを聞いて感心しました。吉田先輩は短絡的に結論を出さないで、別の可能性まできっちり考えているのです。多分、紺野さんは初めからそれに気付いていながら、半分は試すつもりで、半分は悪戯心でそれを隠していたのでしょう。

 「何かしらの必要があって飲んだ……」

 紺野さんの言葉を聞いて、吉田先輩はそう呟きました。それを聞くと、紺野さんはこう言いました。

 「おっと、その話はまた後です。気になるのは分かりますが、今は里中さんと通信する事を第一に考えましょう。

 星君、このコードを頭につけてください。こめかみの位置辺りが良い」

 そう言うと、紺野さんは僕に吸盤がついている白いコードを手渡してきました。僕は緊張しながらそれを受け取ると、言われた通りこめかみの位置に取り付けました。

 「さて、いきますか」

 僕が付けたのを確認すると、紺野さんはそう言いました。僕はそれを聞くと、反射的に「待ってください!」とそう言っていました。「どうしました?」と、紺野さんは尋ねてきます。

 本当は単純に覚悟が決まっていなかっただけなのですが、僕はその場の思い付きでこんな事を訊いてしまいました。

 「その…、猿ヶ淵刑務所に入所しているナノネット専門家は、一体どんな研究をしていた人なのですか?」

 もしかしたら、自覚していなかっただけで、ずっと気にしていたのかもしれません。紺野さんは少し躊躇したように見えましたが、ちゃんと説明をしてくれました。

 「あの人の研究テーマはナノネットそのものではなく、“意識”です。ナノネットを用いて人の意識を研究していた。自由意志とは何か、自由意志はどこまで本当に自由意志と呼べるのか… その中には、無自覚の内に人の行動を左右する、という研究も含まれています。捕まる原因となった人体実験とは、まさにそういったものでした。あの人は、大人数の無意識下に一度に働きかけ、問題行動を引き起こさせてしまったのです」

 人の意志を操る? 問題行動を引き起こさせた? まさか、その能力を使って犯罪を……。

 「さて、今度こそいきますよ。直ぐに里中さんと繋がるはずです」

 「ちょっと待ってください。本当に危険はないのですよね?」

 「それは、私を信用してください。今回は、直接相手のナノネットに侵入する訳でもないですから、安全のはずです」

 「分かりました」

 僕はそう言うとゆっくりと息を吐き出し、覚悟を決めました。紺野さんは、その様子を見ると、

 「では」

 と、言って、パソコンか何かのキーを叩きました。視界が暗転して、落ちていくような奇妙な感覚を覚えます。そして、僕は誰かの意識と接触したのでした。そう、それはまさに接触と呼ぶに相応しい感覚でした。それは今までに経験したナノネットの感覚とは異質なものでもありました。

 『もう、いいですよ』

 気付くと、辺りから音が消えています。そして、その音の消えた世界にそんな言葉が響いたのです。口調から、紺野さんのものだと分かりました。その言葉から、既に里中さんと繋がっているのだと判断した僕は、戸惑いながらもこう言いました。どう言えばいいのかなんて分からなかったので、相応しくない内容だったかもしれませんが。

 『聞こえますか? お久しぶりです、里中さん。僕は星です。今、ナノネットを通じてあなたに直接言葉を送っています。驚かないで聞いてください。あなたは罠に嵌った可能性があります』

 しばらく無言が続きました。しかし、何かしら影響を与えているのが何故か僕には分かります。そこに誰かがいて、そして迷っているという感覚が僕に伝わって来る。その後で、こんな言葉が返ってきました。

 『ちょっと待ってくれ。いきなり頭の中に言葉が響いて、その相手が星君だと言われても、そんな事信用できるはずないだろう。それに、そもそもどうやってボクの頭の中に言葉を送っているんだ?』

 『もちろん、これを実現したのは紺野さんですよ。里中さんも一度、会った事があるはずです。

 紺野さんから、ナノネット予防用のカプセルを渡されて、里中さんはそれを飲みませんでしたか? そのカプセルの中に入っていたナノマシンには、こんな通信機能もあったらしいのですよ。今日、僕も初めて聞かされたのですけどね』

 そう僕が答えると、再び沈黙が続きました。何かを考えているらしい。それから、また慎重な様子で言葉が返ってきました。

 『確かにボクは紺野さんから、予防用カプセルを貰って飲んでいる。ただ、その効果は既に切れているはずだ。どうして、通信が可能なんだ? まだ、それだけじゃ、完全には信用できない』

 僕はそれを聞いて、なんと答えようかと迷って言葉を止めました。すると、その一瞬の隙に別の言葉が響いたのです。

 『里中さん。私は紺野です。その点は私が説明しましょう。あなたに飲ませたカプセルの切れている効果は、飽くまで予防効果だけです。通信機能の方はまだ活きている。どうしてそんな事が実現できるのかというと、あの予防用カプセルのナノマシンには、周囲にあるナノマシンを利用して、通信に用いるという離れ技が可能だからです。周囲にナノマシンがあれば、体内に残っているのが少量でも通信機能は失われない。あなたなら、この原理も予想できるのじゃありませんか? 因みに、電磁波の中継には、自然界に広範囲に分布している、あるナノネットを用いてあります』

 どうやら、この会話に紺野さんも参加できるようです。ところが、紺野さんがそう説明しても何も返事がなかったのでした。しばらくの沈黙の後、紺野さんが再び言います。

 『かなり慎重ですね。どうして、あなたが判断を迷っているのか当てましょうか? あなたは、既に猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”の存在を知っているのじゃありませんか? そして、私達を“黄泉の国”じゃないかと疑っている。どうでしょう?』

 里中さんが既に黄泉の国と接触している。

 猿ヶ淵刑務所に入所しているのなら、それを里中さんが知っていても不思議でもないかもしれません。普通の人なら気付かないかもしれませんが、里中さんにはナノネットに関する知識があります。僕は、そんな風に考えました。ところが、紺野さんの見解は多少違っていたようなのでした。里中さんが返答に迷っている間で、紺野さんは続けてこんな質問をしたのです。

 『もしかしたら、あなたは、猿ヶ淵刑務所に入る前から、その存在を予想していたのじゃありませんか?』

 それを聞いて僕は思い出します。そう言えば、以前に里中さんと話し合った時に、そんな話題が出たような気がします。

 そう紺野さんが問い掛けると、ようやく里中さんから返事がありました。明らかに里中さんが動揺しているのが感じ取れます。

 『まだ確証が持てませんが、一応、あなたが紺野さんであるという前提の下に話をさせてもらいます。

 確かにボクは、この猿ヶ淵刑務所にナノネットが巣くっている事を知っていました。しかし、ボクがここにいるのと、それはあまり関係がありません』

 紺野さんはそれを聞くと、こう返しました。

 『果たして、それはどうでしょうか? あなた自身はそう思っているかもしれない。しかし、その猿ヶ淵刑務所のナノネットは、人心を操作します。しかも、本人が無自覚なままにいつの間にかに。もしかしたら、あなたは自分だけはそんな事はない、とそう思っているかもしれませんが、その可能性は考慮しなくてはならない。

 どうか、あなたが犯罪を犯した経緯を、詳しく話してはくれませんか? もしかしたら、あなたは罠に嵌ったのかもしれない』

 ところが、里中さんはそれでも説明をしてくれなかったのです。感じ取れる感触は、微妙に変異し何かしら決意のようなものが伝わってきました。

 『ボクは、あなたから渡された予防用カプセルを飲んでいますよ。その可能性は考えられないでしょう? それとも、あなたの渡したあれは失敗作だったのですか?

 とにかく、ボクの方からは何も話す事はありません』

 『それを話してくれさえすれば、もしかしたらあなたを救えるかもしれないのです。それでも、話してはくれませんか?』

 『ボクを救う? それは傲慢というものです。ボクは自分で選んで、この場所に来たんだ。これだけは言っておきましょう。ボクを救えるのは、ボクだけです。ボクは常にその為に行動をしている』

 『ですが、あなたの意思は既に操られているのかもしれないのですよ?』

 『くどいです。いい加減にしないと、あなたが通信して来たという事実を、ナノネット“黄泉の国”に伝えますよ? どれだけ頼まれても、ボクはここに来た経緯を説明するつもりはありません』

 『そうですか… では、仕方ありません』

 ――プッ

 ……それで、唐突に通信は切れてしまいました。僕に、徐々に通常の聴覚と視覚が復活してくるのが分かります。

 「もっと粘って質問をしなくて、良かったのですか?」

 あまりに呆気なく切れたのでそう質問すると、紺野さんはこう説明してくれました。

 「通信時間が長くなると、多少危険ですから。黄泉の国にばれるのはやはり避けた方が良いので。それに、あれだけの会話からでも充分に情報は得られました。やはり里中さんは、何か訳があって猿ヶ淵刑務所に意図的に入ったようです。私は、それに黄泉の国が関与していると考えます」

 確かに口調を考えても、あの伝わってきた感情のようなものを考えても、里中さんからは、過ちを犯して後悔している受刑者といった雰囲気はなかったように思います。普通の受刑者ならば、あなたの意思ではなかったかもしれない、救えるかもしれない、と言われれば、その言葉にすがるでしょう。

 「では、次のルートです。別の方面を探ってみましょう」

 「次のルート?」

 そう僕が質問すると、吉田先輩がこう言いました。

 「篠崎さんですね?」

 紺野さんはこう答えます。

 「その通りです。では、星君。よろしくお願いしますよ」

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