12.責任と罪
(犯罪心理学専攻生・篠崎紗実)
「これは、責任の問題でもある。ボクは罪を償いたいんだよ」
里中さんはそう言っていた。里中さんに、責任の一つがあるといえば、あるのかもしれない。でも、そこまでするような事なのだろうか?
猿ヶ淵刑務所。
なにか、おかしい。明らかに。
だけど私は、結局はその言葉に甘えてしまった。
「君が気に病むような事じゃないよ。これはボクの所為なんだ。ボクが、君のナノネットを削除したりしなければ、お兄さんは殺人なんて犯さなかっただろう。君が不安がっていたのに、ボクが無理矢理にそれをやらせたのだから……。
ボクが罪を被るのが、一番の良い選択なんだよ」
――あの時、兄から電話が入った。
「紗実、助けてくれ…」
兄はとても混乱していて、何を言っているのかよく分からなかった。独房がどうの、悪魔がどうの、父親がどうの。辛うじて、住所だけは教えてもらう事ができた。それで私は里中さんに連絡を入れてからそこに向かったのだ。時刻は夜の九時を過ぎていた。場所は、意外に近くにあって、そんなに時間はかからなかった。
里中さんに連絡をしたのはもちろん、一刻も早く兄のナノネットを削除してもらいたかったからだ。私のナノネットを削除した時に、猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”の特性が分かったので、もうカプセルを飲めば削除が可能だと、私は前もって説明を受けていたのだった。
私が到着した時、里中さんはまだ来ていなかった。もう少し待とうか、もう一度連絡を入れてみようかと躊躇したが、結局は一人で兄の部屋のドアを叩いた。一人で兄に会うという不安はあったけど、やはり心配の方が勝っていたからだ。
戸を叩いても、部屋の中からは何の反応もなかった。
「兄さん?」
呼びかけてみる。返事はなかった。ただ、微かにドアの向こう側で、何かの気配を感じた。それで私は思い切ってドアを開けたのだ。
部屋の中は暗かった。ただ、ドアを開けた事で街灯の明かりが入り、少しは部屋の様子が分かった。
兄がいた。
兄は外の明かりに照らされて震えていた。体操座りで膝を抱え、感情を昂らせた悲壮感に染まった瞳で私を見ている。私だと分かると「紗実…」と呟いたようだった。
「すまない。また、アイツがドアの向こうにやって来たのかと思って、動けなかったんだ」
兄さんは続けて、そう意味の分からない事を言った。私は困惑する。
「兄さん、どうしたの? 心配していたのよ」
私はそう言うとそれから部屋に足を一歩踏み入れた。そこで気が付いた。部屋の中に何か黒くて大きなものが倒れている。“それ”からは何かの液体が大量に流れ出ていて、アパートの畳を染めていた。
――何?
私は戦慄する。
そして、兄の言葉を思い出し、悪い予感を覚えた。大慌てで電灯のスイッチを探す。手探りで何とか見つけ、それを押した。
独房がどうの、悪魔がどうの、父親がどうの。
父親。
そこには、男の人が倒れていた。お腹をナイフで刺され血をたくさん流している。ナイフが刺さっていたのは、お父さんと同じ場所だった。それで私は確信したのだ。間違いなく兄さんがやったのだと。
兄さんの部屋には何もなかった。生活臭がほとんどしなかったのだ。家具類は、わずかに食器類がある程度だ。独房のよう。それで私は、兄さんの言葉から独房を連想した。その独房のような部屋には、やはり携帯電話の存在は不釣合いで、まるで囚人に連絡手段を持たせているかのような違和感があった。
兄は、ナノネット“黄泉の国”の虜囚なのだろうと思う。きっと。
否。違う。
兄が囚われているのは、不幸の連鎖なんだ。不幸が不幸が招く人生そのもの、社会と人間の構造に囚われている……。
私はショックでしばらく何も考える事ができなかった。運良く、というべきか、兄の部屋は角部屋で隣の部屋に人はいなかった。ここで起きている事態は気付かれていないようだ。後で分かった事だけど、隣の部屋の住人は、刺されて倒れている張本人らしい。いないのは当たり前だ。
私は病院に電話して、救急車を呼ぶという事を思い付かなかった。どうしてなのかは私自身にも分からなかった。どう見ても手遅れの状態だったからか、それとも、私も、兄と同じ様に父親の思い出を重ねたのかもしれない。父。それは生きていてはいけない存在。
しばらくが過ぎて、里中さんが到着した。里中さんによれば部屋に入った時、私は死体の傍らで放心し、兄は部屋の隅で体操座りのまま震えていたらしい。
里中さんに話しかけられて、ようやく私は我に返った。
「警察に……、連絡しないと」
そう一言、私は言った。
里中さんは全ての状況を察したらしく、その言葉に頷いた。私はそれで完全に観念した。兄はまた捕まるのだ。殺人罪で。やはり私には兄を救う事ができなかった。刑務所の中で兄は苦しみ続けるのだろう。これから、一生。
しかし、その後で里中さんは、私が予想だにしない発言をしたのだ。
「ボクがやった事にしよう」
私は自分の耳を疑った。
「何を言っているんですか?」
「君のお兄さんは、ほぼ間違いなくナノネット“黄泉の国”の影響で、殺人を犯しているよ。きっとこれは、ボクが君の中のナノネットを削除した事に対する報復なのじゃないかと思う。お兄さんが悪いのじゃない。君のお兄さんが捕まるのは、間違っている」
里中さんは真剣な表情だった。確かに里中さんの言う事には一理ある。でも、だからといって、里中さんが代わりに捕まるなんてそれこそ間違っているじゃないか。だから私はこう言ったのだ。
「確かにそうかもしれませんが、なら、ナノネットの存在を立証すれば良いのではありませんか?
兄が人を殺してしまったのが、黄泉の国の所為だと証明できれば、兄を無罪に…」
その私の言葉に里中さんは、首を振った。
「その証明は限りなく難しいんだ。猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在する事くらいなら或いは確認できるかもしれないけど、それだけじゃ意味がない。君のお兄さんがこの人を殺してしまったのが、そのナノネットの影響によると証明できなくちゃいけないんだよ。そんな事はほぼ不可能だ。何の証拠も残っていないだろうからね」
「でも!」
「落ち着いて。
いいかい? そもそも、猿ヶ淵刑務所にはナノネットが存在していて悪影響を与えていると、世間に伝える事だって困難なんだよ。実際、連中はこうして君のお兄さんを操って、人殺しをさせまでしているじゃないか。そんな事をすれば、何をやるか分からない。もしかしたら、今度は君自身が殺されてしまうかもしれない」
私はそれを聞いて黙った。その通りだと思ったからだ。兄が人を殺してしまったのが、ナノネットの影響だとしたら、連中はもっと他にも色々な事ができるはずだ。実は無力でないかという私の願望は、見事に打ち砕かれてしまった事になる。
「だから、ボクが捕まって、猿ヶ淵刑務所の中を調べるんだよ」
「え?」
私はそれを聞いて、驚いてしまった。
「でも、猿ヶ淵刑務所に入るとは限らないと思うのですが……」
「いや、ボクはナノネットの専門家だ。そして、日本でナノネットを扱っている刑務所は猿ヶ淵刑務所しかない。ボクが捕まれば、ほぼ確実に猿ヶ淵刑務所に入れられると思って間違いない」
里中さんの話は本当だった。刑務所の利益は、運営側の利益になる。だから、受刑者の持つ技術によって入る刑務所が決まってくるのだ。技術需要のある刑務所に、その受刑者は供給をされる。里中さんなら、猿ヶ淵刑務所に入る可能性が一番高いはずだ。
「猿ヶ淵刑務所に入って、ナノネットの秘密を暴く。その為には、ボクは捕まる必要があるんだよ。これは、チャンスだとも言えるんだ。ナノネット“黄泉の国”を潰す。それができるのは、今の段階ではボクしかいないはずだ。潰した後で、本当はボクがやっていない事を明らかにすればいい。そうしたら、君のお兄さんは捕まる事になるかもしれないけど、ナノネット“黄泉の国”がどんな事をやっていたかが明らかになれば、もしかしたら、刑法39条が適応されるかもしれない。刑が軽くなるくらいの可能性ならば、充分にあると思う」
「でも……」
私はなおも躊躇していた。いくらなんでも、里中さんに悪いし、それに大胆すぎる。しかし、その後も里中さんは繰り返し言葉を述べて私を説得したのだった。
「……これは、責任の問題でもある。ボクは罪を償いたいんだよ」
「……君が気に病むような事じゃないよ。これはボクの所為なんだ。ボクが、君のナノネットを削除したりしなければ、お兄さんは殺人なんて犯さなかっただろう。君が不安がっていたのに、ボクが無理矢理にそれをやらせたのだから……。
ボクが罪を被るのが、一番の良い選択なんだよ」
その間、兄はずっと部屋の片隅で震えていた。恐らくずっと聞いていたはずだ。この会話が、兄の耳から、ナノネット“黄泉の国”まで届いていたらどうしようかと心配になったけど、それを気にしている余裕はなかった。そうして、その後で本当に里中さんは、兄の罪を被って、警察に自首をしてしまったのだった。その後兄はそのアパートには居られなくなり、私の家に引っ越した。話がついた後で、ナノネット削除用のカプセルを、里中さんが兄に飲ませていたので、恐らく黄泉の国が兄に干渉してくる事はないはずだった。危険はない。しかし、それでも兄はショックから立ち直れないで、毎日私の部屋で苦しみ続けていた。
もしかしたら捕まった方が、兄は楽だったのかもしれない。
苦しみ続ける兄を見て、私はそんな事を思った。
(いや、苦しみ続けているのは、兄だけじゃないのかもしれない……)