11.不可解な関連性
(犯罪心理学専攻生・星はじめ)
そのニュースは、不意に僕らの許にやって来ました。
――里中蛍というナノネットを研究している会社員が、殺人を犯し、警察に自首をした。
話を聞いた時は、耳を疑いました。何処か別の里中蛍さんだと思おうとしたのですが、それが間違いなく、僕らと一緒に猿ヶ淵刑務所を見学したあの里中蛍さんだと分かると、僕は軽く混乱をしました。
僕は確かに里中さんを、何か怪しいと疑ってはいたのです。でも、それはこんな事ではありません。不自然に、里中さんが猿ヶ淵刑務所を調べたがっているように思えて、その点を変だと思っていただけ。犯罪を犯す可能性を心配していたのは、むしろ篠崎先輩の方だったのです。どうしてなのかというと……。
「――篠崎先輩は、ナノネット予防用カプセルを飲んでいないんですか?」
突然に吉田先輩に呼び出された時は、少しビックリしました。僕が驚いてそう言うのを聞くと、吉田先輩は首を振って否定しながらこう言いました。
「違うよ、星君。そこまでは分からない。僕は飲んでいない可能性がある、とそう言っているだけだよ。飽くまで、可能性」
「はぁ…… でも、またどうして、そんな可能性があると思ったのですか?」
そう言われて、僕はカプセルを渡しただけで、篠崎先輩がそれを飲んだかどうかまでは確認していない事を思い出しました。
「まず、君は気付いていなかったみたいだけど、猿ヶ淵刑務所を見学している時の篠崎さんの様子は明らかにおかしかった。歩くのも遅かったし、表情も深刻そうで、ほとんど口を開かないでいたよ。僕はそれを見ながら、もしナノネットに憑かれたら、あんな状態になるのかもしれないって思ってたんだ」
猿ヶ淵刑務所の見学の時は、僕は里中さんを怪しいと疑っていて、里中さんとばかり話していたので、篠崎先輩にはあまり気をかけていませんでしたが、思い返してみれば、確かに変だったかもしれません。いつになく無口でいたのを覚えています。見学に集中しているのだとばかり思っていましたが。
「あの時、もしかしたら既に篠崎さんはナノネットに侵されていたのかもしれないって、僕はそう考えているんだ。もちろん、彼女はわざとそうするようにした。だから、ナノネット予防用カプセルも飲まなかった」
「それは変ですよ。そんな事をする必要は全くないじゃないですか」
「そうかな? もし、彼女が猿ヶ淵刑務所のナノネットを退治したいと思っていたなら、そうでもないと思うよ。
彼女がナノネットに侵されれば、それがナノネット存在の証しになる。それを公にすれば猿ヶ淵刑務所のナノネットを除去する事だってできるじゃないか」
僕はそれを受けると、少し考えてからこう言いました。
「でも、それ、リスクが大き過ぎませんか? それに、例えナノネットが存在していたって、今まで見つかってこなかったのなら、それなりに見つかり難い理由があるって事になりますよね? それくらいで発見できるって考えるでしょうか? 篠崎先輩がそんな軽率な行動を執りますかね?」
一応、今まで付き合ってきて、篠崎先輩には冷静な判断力があると僕は分かっているつもりでいます。だから、そう思ったのです。すると、吉田先輩は軽く頷いてからこう言うのです。
「うん。普段の彼女なら、そんな軽率な行動は執らないと思うよ。でも、君も知っていると思うけど、彼女は刑務所の… というか、犯罪者の社会復帰の話になると冷静さを失ってしまうんだ。それに、君の知り合いのナノネット専門家…… 確か紺野秀明さんというのだっけ? 専門家は、かなり優秀なのだろう? その可能性に賭けたのじゃないかと僕は想像したんだ」
そう言われて僕は、以前に食堂で僕を卒業論文共同作成に誘った時に、篠崎先輩が隣の席から聞こえてきた、何気ない刑罰の話題に感情を昂らせて反論をしていたのを思い出しました。紺野さんが優秀である事も、僕はナノネット体験談と一緒に話していたような気がします。
「篠崎さんの、犯罪者の社会復帰問題に関する熱意はただ事じゃないよ。何しろ、僕が篠崎さんと知り合いになったのも、彼女が誰か一緒に研究をしてくれる人間を探していたのが切っ掛けだからね……。
普通は面倒だから、あまり関心を示さないだろう?こんな事。でも、彼女は違う。どうして、彼女があんなに熱心に取り組んでいるのか不思議に思った事はないかい?」
確かに、ちょっと不思議に思った事ならばありました。初めてこの卒論の事を聞かされた時も、どちらかというと軽そうなイメージのある篠崎先輩が、こんな重いテーマを選ぶなんて、と僕は意外に思っていたのです。
「これは単なる憶測なのだけど、彼女の身内に上手く社会復帰できない人がいるのじゃないかと僕は思っているんだ。念を押して断っておくと、本当に単なる憶測だよ。何の証拠もない。ただ、身内を救う為なら、彼女はそれくらいやりかねないとは思う」
なるほど、と僕はそれを聞いて、納得をしました。そう聞いてから思い出すと、篠崎先輩の色々な行動や発言の意味が分かったような気がしたのです。
ナノネットに関する質問の内容。関心の示し方、
……でも、
「でも、だとすると、どうして篠崎先輩は僕に何も言ってこないのでしょうか? 早く紺野さんに診てもらわなくちゃいけないと思うのですが……」
「うん。その点が僕にも分からない。ただし、分からないけど、それなりに予想ならできる。ナノネットに侵されている彼女は、既に自由が利かない身になっている、という想定はどうだろう? それで君にその事を相談できないでいる。……だからこそ、僕は彼女を心配しているのだけどね。もし、そうなら今彼女は危険な目に遭っている事になる」
「自由が利かない身?」
「例えば、何かナノネットに脅されているとかね。意識が乗っ取られていないのは、普段接していて分かるけど、微かにでも何かしら働きかけを受けている可能性もある。本人は自覚していないかもしれないけど。それで冷静な判断力が失われているケースも否定できないと思う」
そう聞いている内に、僕は徐々に怖くなってきてしまいました。
「でも、本当にそんな事……」
信じられない。と言おうと思ったのですが、信じられない事ならば、ナノネットに接してきて今までに何度も経験しているのです。僕は言葉を濁してしまいました。“勘違いであって欲しい”。それが僕の願望である事を、自覚してしまったからです。
「もちろん、単なる杞憂かもしれないよ。ただ、一応最悪の事態を想定して動いておいた方が無難だと僕は思う。もし、猿ヶ淵刑務所のナノネットに篠崎さんが侵されていたら、そして、その影響下にあったなら、彼女は犯罪を犯してしまう可能性がある。
君の知り合いのナノネット専門家に、相談しておいてくれれば有難いのだけどね」
吉田先輩の言う事には説得力がありました。何でもないなら、それでいい。でも、何かあったなら…
「分かりました。紺野さんに連絡を入れてみます。忙しい人なので、直ぐには無理かもしれませんが、何とか篠崎先輩を説得して、検査を受けてもらうようにしましょう」
「ありがとう。助かるよ」
僕がそう応えると、吉田先輩は少し微笑んだような気がしました。もしかしたら、安心をしたのかもしれません。感情の起伏があまりないようで、実はそれなりに感情豊かな人なのかもしれない、とそれで僕はそう思いました。
それから僕は、吉田先輩の約束通りに紺野さんにメールで連絡を入れました。ただ、中々都合はつきませんでした。いつもは、紺野さんの方からコンタクトを取ってくる事が多いのでそれほど実感していませんでしたが、やっぱり多忙な人なのです。そして、そうして返信を待っている間で、里中蛍さんのあの事件が起こったのです。殺人罪で捕まってしまった。最近は、連絡すら取っていませんでしたが、それでも衝撃的でした。しかも、話はそれで終わらなかったのです。
「どうも嫌な噂を聞いたよ」
その日、僕は再び、吉田先輩から呼び出されていました。大学の中庭。ベンチに座りながら、吉田先輩は、酷く困惑した表情を浮かべています。明るい日差しで、顔の影が余計に濃くなっているように感じました。
「どうしたんですか?」
「里中さんが、殺人罪で捕まっただろう? アパートで口論になって、男を刺したとかなんとか。そのアパートというのが、どうやら篠崎さんのお兄さんの部屋らしい。不自然すぎると思わないかい?」
僕はそれを聞いてもちろん驚きました。里中さんが殺人で逮捕される。それまでは、まだ不幸な偶然で済ませられるかもしれません。でも、その殺人に、篠崎さんのお兄さんが関わっているとなると……。
「その噂、本当なんですか?」
「僕も疑ってみたんだけどね、どうやら本当らしい。ただ、所詮噂だから、どこまで信じて良いかまでは分からないけど。
里中さんは、そんな場所にいた理由として、篠崎さんに頼まれて、お兄さんを説得しに行ったのだとか言っているらしい。篠崎さんも確かに頼んだと言ったようだけど……」
殺人事件の話を聞いた時、僕は里中さんが猿ヶ淵刑務所のナノネットに憑かれている可能性を疑ったのですが、その関連性を聞いて、ますます疑いを深くしました。そして、これで篠崎先輩もナノネットに憑かれている可能が大きくなった事になります。
「もしかしたら、里中さんも…」
僕がそう言うと、吉田先輩も同じ事を疑っていたらしく、無言で頷きます。
「ただ、あの人は紺野さん経由でやって来た人だろう? 紺野さんが予防用カプセルを渡していないなんて事はあるのかな?」
確かにその通りです。それで僕は「確かめてみます」と言って、携帯電話を取り出すと、その場で紺野さんに電話をかけたのです。運良く紺野さんは直ぐに出てくれました。
「もしもし、紺野さんですか? 星です。すいません、いきなり電話をしてしまって。あの、少し訊きたい事があるのですが…」
それから僕は紺野さんに、事情を説明しました。里中さんが殺人を犯して、捕まってしまった事。その殺した場所が、篠崎さんのお兄さんのアパートである事。篠崎さんがナノネット予防用カプセルを飲んでいない可能性があるのは、既に伝えてあります。
僕はもっと紺野さんが強く反応をしてくれると思っていたのですが、その対応は素っ気ないものでした。
「なるほど。変な話ですね。でも、里中さんはナノネット予防用カプセルを飲んでいますよ。私が君達に紹介する条件として、カプセルを飲む事を挙げましたから。彼もナノネット専門ですからね、直ぐにその必要性を納得してくれました」
僕はそこでピンと来ました。
「でも、約束しただけですよね? 飲んだ事は確認していないのですよね?」
「アハハハ。そんな間抜けはしませんよ。きちんと、その場で飲んでもらいました。効果期間には何の問題ありませんでしたし」
それを聞いて、僕は顔が真っ赤になりました。僕は間抜けという事になるのでしょうから。
「すいません。忙しいので、もう切りますね。里中さんの件は奇妙ですが、これ以上何もしようがないと思います。篠崎さんに関しては、できるだけ早く時間を作って、検査及びに削除をしようと思いますから、心配しないでください」
紺野さんは、それからそう言うと呆気なく電話を切ってしまいました。吉田先輩は、僕の様子から返答を何となく察したのか、軽く首を振っていました。
「さて。中々、困ったもんだね」
そして、そう言って溜息を漏らしました。とにかく、卒業論文の作成を進めなくてはなりません。こうなると、篠崎先輩と顔を合わせ辛くなってくるので、なんとなく憂鬱な気分ではありますが。
「まぁ、調べられる事から調べてみよう。そういえば、あの猿ヶ淵刑務所は、経営部分を一部民間委託しているみたいだよ。と言っても、独立行政法人、天下りの温床の一つみたいだけど…」
吉田先輩は、安全なルートから、猿ヶ淵刑務所を調べてみる気でいるようです。恐らく卒業論文作成以外の目的でも。確かに紺野さんの協力が得られないのなら、それが無難な選択なのかもしれません。