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10.不幸な連鎖

 (妹・篠崎紗実)

 

 「暴力行動を起こしてしまう人間は、大きく分けて2タイプに分かれると言われているんだ。少なくとも行動を研究している一部の人はそう考えている。

 一つは、過剰に刺激に対して反応を起こしてしまうタイプだね。少しの接触でも過激に反応してしまって、それが暴力行動に繋がってしまう。

 もう一つは、それとは正反対の鈍感なタイプ。相手と共感する能力が少なくて、痛みも実感できない。それで、他人を傷つける事に対する抵抗が少なく、結果的に暴力行動を執ってしまう…… もっとも、この場合は暴力行動だけとは限らないのだけど」

 吉田君がそう説明を終えた。私はそれを淡々と聞いている。集中ができない。兄の事ばかり気になってしまうのだ。

 星君が少し不思議そうな顔をして言った。

 「一つ目は分かります。自分の感情が抑えられないとか、そういう人ですよね? でも、もう一つの方はよく分かりません。どうして鈍感だと誰かを攻撃するのでしょう?」

 ……今は、卒業論文の為の勉強会のような事をやっている。吉田君は、社会学を選考している癖に何故か脳なんかの勉強もしていて知識を持っている。それで、私達は講義のようなものを受けているのだ。今回のテーマにも関係してくるから。星君からの質問を受けると吉田君は語った。

 「うん。無痛症を思い浮べてもらえれば分かり易いかもしれない。痛みを感じない人間は大怪我するような行動も簡単に執ってしまう。苦痛がないから、抑止力が働かないのだね。これと同じだと思ってくれればいい。人間は集団で生活する生き物だろう? だから、集団行動の為の能力を本来色々と持っているんだ。仲間内の攻撃行動を抑制するというのもその一つだ。誰か人間を攻撃しようとすると、嫌悪感や罪悪感を感じるんだね。ところがその機能が何らかの原因で上手く働かなくなってしまったとしたら、どうだろう?」

 星君はそれを聞くと大きく頷いた。

 「なるほど。血も涙もない人間、とかよく言うけど、実際に欠けているのは良心じゃなくて相手と共感する感情の能力って訳ですね」

 吉田君はそれを聞くと大きく頷いた。まだまだ話す気でいるらしい。吉田君は普段は無口なのに、ツボに触れると、とてもお喋りになる。このギャップは、慣れていないと少し戸惑いを覚えるかもしれない。

 「その通りだね。道徳が大事とか言う人がいるけど、僕は人間が行動を律するのは感情に寄る部分が大きいのじゃないかと思っている。実際に必要なのは、感情の能力を成長させる事なんだ。例え道徳を知らなくたって、優しい人間は誰かを助ける。それは純粋な意味での知識とは別モノだよ。

 自分が犯罪を犯すと、人間関係を破壊してしまう。誰かを裏切る事になる。感情能力が未熟で、そういう事に対して苦痛を感じない人は人間関係を築いてもそれが抑止力にならない。意味がないんだね。

 ただし、こういった能力が欠けていたって、必ずしも暴力的な人間になる訳じゃない。何をどんな風にその人が学習するのかが重要になって来るんだ。更に、欠けているのは、相手との共感能力だけとは限らない」

 私はその話を聞きながら、兄さんの事を思い浮かべていた。兄さんは暴力を振るってしまうタイプだけど、それとは明らかに違っている。とても感受性が強いもの。

 「どういう事でしょう?」と、星君が尋ねる。どうも星君もそれなりに楽しんでいるように思える。彼には聞き上手な所があるから、吉田君も話し易いようだ。

 「外部から与えられる苦痛。それに対する反応が鈍い場合でも、犯罪行動に結び付いてしまう事があるんだ。

 これはいけないと罰せられる。でも、本人にとってみればそれはあまり苦痛じゃない。苦痛じゃなければ、犯罪の抑止力にはなり得ない。そしてもし、その人の鈍感な世界の中で何かとても刺激的な快感があったとして、それを求めるのが犯罪を伴うとしよう。何を学習するかによっては、そんな人が常習的な犯罪者になってしまうケースが多々ある事は想像に難しくない。

 苦痛による学習ができない。何度でも刑務所に出たり入ったりをする人の内の一部ならば、それで理解できると思う」

 そう吉田君が語り終えると、星君が感心をしながらこう言った。

 「つまり、学習が重要だって事ですね」

 「そうだよ。社会に間違った適応の仕方をしてしまう、とも表現できるけど。でも、学習が重要っていうのは何も鈍感タイプばかりじゃないんだ。過敏タイプでもやっぱり学習が重要なんだよ。例えば、幼児虐待を受けた人間が、大人になってから暴力行動を執るタイプの人間になってしまうという、不幸な連鎖がある」

 幼児虐待を受けた人間。

 私はその言葉に反応をしてしまった。それは、まさに私達兄妹の事だったからだ。吉田君は更に語った。

 「酷すぎるストレス体験をすると、不安に対してとても弱くなるんだ。すると、少しの刺激でも、混乱したり思考を停止させたりして、何か問題行動を起こしてしまう。過酷な刑務所生活を体験して、それが悪化してしまう場合だってあるだろうね。

 こういう人達にまず与えなくちゃいけないのは何よりまず“安心”だろうと思う。この世界が安心できる場所である事を学習させてやるんだ」

 星君がそれを聞いてふんふんと頷いた。私はその時、その吉田君の話を聞いて、胸が締め付けられるような感覚を覚えていた。

 兄さん…… あなたは、ずっと安心な場所を知らずに苦しみ続けているのね。

 ふと顔を上げると、吉田君が私をじっと見つめていた。話すのに集中していて、私の事は意識していないのかと思っていたから、それに少し驚いた。しかも、珍しくその視線には感情が乗っている。私を、心配しているように思える…

 吉田君は意外に勘が鋭い。あまり表情を変えない癖に、周囲の変化を敏感に察するような所がある。

 もしかしたら、私の事も何か気付いているのかもしれない。

 私はその視線を受けてそう思った。

 ――それから、そういった観点からも刑務所と再犯の関係を調べてみようという事になって、その勉強会は終わった。

 

 ちょっと前に、里中さんに質問する為に、皆で集まった事がある。私が提案して席を設けたのだ。本当に卒業論文の為にナノネットに関する質問がしたかったというのもあるのだけど、目的の半分は兄を救う相談をする為に、里中さんに近付く事だった。その席で、吉田君は私が猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在すると考えているのじゃないかと言った。もちろん、私がそれに関するような質問をしたのが原因で、それは前後関係を考えるのなら、自然に推理できるだろう事でもあったのだけど、でも彼はその時にこうも言ったのだ。

 「もっとも、ナノネットが存在しているという確信的な証拠があるのなら話は別だけどね。卒業論文の事とは関係なしに直ぐに行動しなくちゃいけない」

 彼は私が猿ヶ淵刑務所のナノネットに既に侵されている事を予想して、あんな事を言ったのじゃないだろうか? 私の反応を観察する為に。その時は、私は吉田君が猿ヶ淵刑務所のナノネットに気が付いている可能性を全く考慮していなかった。だから全く無防備だったのだ。

 もちろん、それは単なる私の憶測である訳だけど。

 どうであるにせよ、気を付けて行動しないといけないのは変わらない。今後は、できるだけ私一人で里中さんと接触した方が良さそうだと、私はそれで考えたのだ。兄のナノネットを削除する前に、猿ヶ淵刑務所のナノネット“黄泉の国”の存在が公になるのは危険だ。兄がどんな目に遭うかも分からない。

 私は、そうして吉田君達と卒業論文の作成を進める傍らで、密かに里中さんと連絡を取り合った。猿ヶ淵刑務所にナノネットが存在する事も打ち明けて、兄がそのナノネットに侵されている事も告げた。少し心配だったけど、里中さんはとてもいい人で、その相談に快く応じてくれた。できるだけ協力してくれるとメールで返信をくれたのだ。

 ただ、詳しい事情までは流石に教えられなかった。私自身がナノネットに侵されている事や、兄が人質に捕られている事などは説明しなかったのだ。まだどこまで信用していいのか分からなかったし、それにメールだと何処かに漏れてしまう可能性もある。

 状況が変わったのは、頼んでいた探偵から報告があってからだった。以前から兄を探してはいたけれど、探偵まで雇うのは初めてだった。もちろんそれは、兄を人質にされている今、できるだけ早く兄を見つけなくてはいけなかったからだ。

 探偵は私に兄の携帯電話の番号が分かった事を報告してくれた。どうして分かったのかは企業秘密だそうだ。私は兄が携帯電話を持っているなんて考えもしなかった。多分、人間関係を避けるようなイメージのある兄と携帯電話が結び付かなかったのだろうと思う。契約の為に登録されていた住所は、私の家のものだったというから、契約したのは私の家に居た頃なのだろう。兄は、私にそれを告げなかったのだ。もっとも、直ぐに私の家を黙って出て行くつもりだったのだろうから、それも当たり前なのだけど。でもそれでも、少し哀しく、そして辛くなった。

 私は信用されていない。

 私は兄の“安心”にはなってやれなかったんだ。今までだってそれは分かっていた事であるはずだけど、改めて私はそれを思い知ってしまった。それで、兄に電話をかけるのが怖くなってしまったのだ。

 でも、これは緊急事態でもある。だけど、こんな事を頼める人間は私の身近にはいなかった。兄の中のナノネットを削除する為には、ナノネット“黄泉の国”の存在を伝えなくちゃいけないはずだ。そこまで信用できる人間は私にはいない。だけど、そこまで考えて私は思った。里中さんには、どちらにしろその事を伝えなくちゃいけないという事実に。ナノネットの削除も、里中さんに頼む事になるのだろうから、それは避けられない。それならば……、

 それから私は里中さんに連絡を入れて、個室になっているタイプの喫茶店に来てもらった。そこで猿ヶ淵刑務所のナノネットの存在から、私や兄がナノネットに侵されているだろう事まで全てを報せたのだ。

 どうせ報せなくちゃいけないのなら、里中さんに全てを託してみようと思ったのだ。これは賭けでもあった。そもそも私の話を信用してくれない可能性だってある。しかし、里中さんはかなり驚いてるようではあったけど、私の話を真面目に聞いてくれたのだ。しかも、有難い事にかなり積極的に関心を示してくれているようでもあった。

 ただ、私にとって予想外だったのは、里中さんが協力する条件として、私の中のナノネット削除を前提とした事だった。そんな事をすれば、兄がどうなるかも分からない。それに私の中のナノネットを証拠に、ナノネット“黄泉の国”の存在を証明する事もできなくなってしまう。

 しかし、結局は私は里中さんの言葉に従ったのだった。その条件は、里中さんが私の身を本当に心配してくれている事の証拠でもあったし、今の状況で誰か里中さん以外を頼りにはできない。それに、里中さんに協力してもらえれば、私の中からナノネットを削除しても黄泉の国の存在を証明できるかもしれない。その壊滅だって可能かもしれない。

 里中さんはそれから、兄にその場で電話をかけてくれた。生憎、兄は留守だったけど、留守番電話を残してくれた。その後、休日に里中さんの会社の設備を使って、ナノネットの削除をやってもらった。里中さんは、設備を使えるくらいの権限は持っているらしい。終わった後、確かにナノネットの痕跡が残っていたと教えてくれた。私は兄の事を心配しつつも、それでやはり安心感を覚えてしまった。

 “黄泉の国”の手から逃れた。これでもう私は、虜囚なんかじゃない。もう大丈夫だろうと思ったけど、一応私は家に帰ってから、星君から貰ったナノネット予防用カプセルを飲んでおいた。何かの拍子で、またナノマシンを取り込んでしまうのが怖かったのだ。

 

 でも。

 それから数日経った後の事だ。突然に、私の携帯電話が鳴ったのだ。見てみると、それは兄からだった。緊張しながら電話に出ると、兄は泣いていた。酷く混乱しているようでもあった。

 「紗実、助けてくれ…」

 受話器の向こうから、兄はそう訴えていた。

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