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9.心がノックされる

 (兄・篠崎忠志)

 

 安アパートは暗くて狭い。誰もいないその部屋は、まるで監獄に入っていた頃の独房のようだとぼくは思う。

 ぼくは何度か懲罰独房に入った事がある。もっともぼくが自分から何か問題を起すのは稀で、ほとんどの場合はぼくは被害者なのだけど。ただ、それでも身を護る為に相手を傷つける事があったのは事実だ。皆とあまり馴染めないぼくは、よく隔離され独房に入った。

 冬はとても寒いんだ。暖房なんてなくて薄い毛布が一枚だから。そんな時は、少しくらい嫌がらせを受けたって、他の皆と一緒の方が良いって思うんだ。やっぱり人数がいた方が温かいから。

 お腹が減る。カップ麺を食べる。

 寒い。

 独房のようなぼくの部屋。人の体温を欲した記憶が蘇る。すると、誰かに頼りたいという思いが自然と頭の中に浮かんでくる。そんな時は、妹の、紗実の顔が少しだけ見たくなるんだ。でも、同時に辛くなりもするのだけど。

 あいつは、今のぼくを見たら、どんな顔をするのだろう?

 

 工場のアルバイト工員として、ぼくは今働いている。町工場のような所で、工場長は優しい人だった。それで、アパートを近くに世話してもらえたんだ。ぼくの経歴はあまり深くは尋ねられなかった。不自然だって事は、多分最初から気付かれていると思う。ぼくが刑務所に入っていた人間だって事は、薄々勘付いているのだろう。それを知った上で、工場長はぼくを雇ってくれたんだ。しかも部屋まで世話してくれて。アルバイトの立場とはいえ、感謝しなくちゃいけない。だからぼくは、今度こそは罪を犯さないようにしなくちゃいけないんだ。

 ぐらぐら。

 どうか、ぐらぐらが起きませんように。ぼくの存在を根底からおかしくさせる、あのぐらぐらが。

 毎朝、毎晩、ぼくはそう祈る。

 ここ最近は調子が良いんだ。父親のあの夢も見ないで済んでいる。

 でも。

 

 職場で、少しずつ、ぼくに対する風当たりが強くなってきたのを感じる。初めは、様子見をするように距離を置いていた同僚や先輩達も、慣れて来ると色々とぼくに干渉をするようになっていった。ぼくの経歴がおかしい事も、何処からか彼らは知ったようだ。ぼくが皆とあまり馴染もうとしないのも気に入らないでいるらしい。

 先輩がぼくをなじる。仕事が遅いと怒られてしまう。それは仕方ない事だと思う。迷惑をかけているのは事実だろうし。でも、それはぼくにもどうにもならない事なんだ。ぼくは誰か他の人と一緒にいると、作業効率がとても悪くなるんだ。刑務所みたいに、誰も喋らないで作業するのが規則になっていれば平気なのだけど、皆との会話が認められているような作業場になるとどうにも駄目になる。緊張しちゃうんだ。

 ……多分それは、人を恐れているからだろうと思うのだけど。

 

 コンコンッ

 

 心がノックされる。

 イメージの中だけにあるドア。久しぶりにそれが叩かれた。ぼくはそれを開けない。でも、そんな事をしても無駄なのは分かっている。ドアの向こうから声がする。ぼくが聞いているのをドアの向こうの誰かはよく分かっているんだ。

 『久しぶりに、“あれ”が始まるぜ』

 ぼくは耳を塞ぐ。でも、そんな事をしてもまるで意味がない。無駄だ。その声は絶対にぼくの元に届くのだから。

 『もう大丈夫だと思っていたのか? あんな思いが蘇る事なんてないと。甘い考えだぜ、それは』

 甘い考えだって事は分かっていた。恐らくは駄目だろうと。でも、確かに微かな希望は抱いていたかもしれない。

 “あれ”は、もう始まらないのじゃないか、という。

 でも。

 『無理だぜ。お前のあれは、お前の根底の奥深くに根付いているのだから。お前の感じる不安の全ては、父親を刺し殺したあの記憶に結び付き、お前の世界を、あの世界の色に染めていくんだ。

 ほら、このドアを開けてみろよ、お前のあの世界が薄い膜の向こう側に満ちて溢れ返っているのがよく分かるから』

 ドア。

 ぼくはそれから逃れられない。多分ぼくは、自分から、それを開けてしまう。ドアノブが目の前にあるのが分かった。

 

 「おいっ 何をボーっとしているんだよ?! 手を動かせ!」

 そう怒鳴られて気が付いた。工場の流れ作業がぼくで止まっている。ハッと我に返るとぼくは慌てて作業を再開した。

 大丈夫だ。怒鳴られても、父親の姿は蘇ってこない。あのナイフを、ぼくは必要としない。作業に集中すると、ドアの幻想は遠くに消え去ったような気がした。

 (でも)

 安心しかけたその時に、足元を何かが転がって来たんだ。

 見てみる。声がした。

 『無理だって。逃れられないんだ。言っただろう?』

 それは生首だった。

 ずっと前に、猿ヶ淵刑務所で見た事のある、あの生首。

 「うわぁぁ!」

 ぼくは悲鳴を上げてしまった。

 

 独房のようなぼくの部屋。

 眠りに就く前に、久しぶりに携帯電話を見てみた。ここに入る前に、連絡手段が必要だと言われて契約したものだ。

 着信履歴が残っていた。驚いた。多分、初めての事なのじゃないかと思う。電話番号を見て更に驚いた。それは、妹のものだったからだ。

 どうやってこの番号を知ったのだろう?

 その時、ぼくは自分が喜んでいるのを自覚してしまった。

 誰もいない独房のようなぼくの部屋。少しくらいの苦痛なら享受する。誰でもいいからぼくの世界に。

 ドアの向こうから、声がした。

 独房のようなぼくの部屋の、ドア。

 『妹に頼った方が良いのじゃないか? あの世界がやって来るぞ』

 そう。その通りだ。妹なら、ぼくを絶対に裏切らない。

 留守番電話が残っていたので、それを聞いてみた。だけど、その声は妹のものじゃなかったのだった。誰だ、この男は?

 どこかの知らない男の声。男は自分は妹の知り合いで、ナノネットの専門家であると言った。そして、ぼくがナノネットに侵されているかもしれないと語り、続けて妹がそんなぼくをとても心配していて、更にナノネットの削除が可能であるとも言った。

 それが何を意味するのかは、ぼくにとってはどうでもいい事だった。ただ、妹の声が聞けると思っていたのに、その期待を裏切られた事がショックなだけだった。

 だけど、その後で思った。

 どうして妹は、紗実は、そんな事を知っているんだろう? もしかしたら、どこかで危険な目に遭っているんじゃないか?

 ナイフ。それなら、ぼくが護らなくちゃ。心の中でナイフを握る。ドアの向こうから声がする。

 『そうさ、護ってやらなくちゃ。その為には、このドアを開けなよ』

 

 コンコンッ

 

 心がノックされる。

 声がした。「いるか篠崎?」。ドアの向こうから声が。やがてドアはゆっくりと開いた。「なんだいるじゃないか」。と声は言う。影が濃くてよく顔が見えない。これは誰だっけ? 職場の先輩? それとも…

 その誰かは、無遠慮にドカドカとぼくの独房に入ってくると、そのまま部屋の真ん中に腰を下ろした。

 「今日は話があって来たんだよ。お前の事で、職場の連中が戸惑っているのは気付いているな? お前の経歴とか、お前が皆に馴染まない事とかで」

 影はそこまで語ると、「なんとか言え!」とぼくを怒鳴った。

 暗い部屋。こいつは、あの時のあの悪魔だ。とぼくは思う。

 「悪いが、もうここから出て行ってくれないか。迷惑なんだよ。お前は」

 心が、ぐらぐらした。

 護ってやらなくちゃいけない。じゃないと殺されてしまう。妹も、ぼくも。ぼくはナイフを握った。心の中にあるナイフを。

 怒りがこみ上げてきた。

 ……クソオヤジ、お前なんか殺してやる! 何度でも!

 (そうしてぼくは、何度でも罪を犯す)

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