ムシ様
秋の山の澄んだ空気が肺を満たして、疲れた足の痺れなんて気にならない程に壮大な雲海が目の前に広がっている。
少し湿った木の柵によりかかろうとすると、横に錆びた看板があった。『老朽化により脆くなっています——』あっぶね。
「はぁ……それにしても——」
目をかっぴらいて網膜に焼き付けたい景色。なんて口に出したら横で美穂がかっと目を見開いて俺の顔を凝視する。
「何その顔……っやめろって、もう。ちょ、こら」
つんつんと横腹をつついてくるのをチャンバラをするかのように全て防ぐ。いつもとおんなじ。俺をすぐにからかってくる。高校生の時から変わらない。
「えー? わたしは健人の顔を焼き付けたいけどなー?」
美穂はニヤついた笑顔のままわざとらしく上目遣いで俺の懐に潜り込んでくる。
「……やめろって、バカップルじゃないんだから」
「あー、耳真っ赤ー」
「うるさい」
美穂がぶーぶーと文句を言うのに相槌を返しながら、また雲海の景色を見る。わざわざここまで来たんだ。やっぱりもっと見とかないと。
「目ぇそらさないでよー……でも、ほんとに綺麗だよね。こんなとこどうやって見つけたの? わざわざこんなとこまで来ちゃったし……あ、嫌とかじゃなくてね。普通に登山するよりは来やすかったし」
ベンチに座った美穂が撮った写真をインスタ用に加工するのを横目に、俺はスマホで数日前見つけたサイトのブックマークを開いた。
美穂がドライブに行きたいと言ったのでちょうどいいドライブスポットが無いかと検索した時見つけたものだ。
朝方、山の途中にある駐車場から山道を登ると雲海が見えるかも……というものだ。
個人のまとめブログのようなもので、他の場所を紹介している訳でもなかった。それでも本人が撮影したという写真のあまりの美しさに、これは美穂と見たい!という気持ちが勝った。
少し歩くという話を聞いて美穂は顔をしかめていたが、熱心に説得してなんとかここまでやってきた。
「これこれ」
「……ほー、なるほどー。でもこの人、ここのことしか紹介してないんだね」
「そうみたい。まぁもしかしたら、とんでもなくいい景色を知って普段はしないけど紹介したくなったとかあるかもだし」
「いやいや、それだけでサイト作る? 変でしょー」
手をひらひらと振って笑う美穂だったが、編集に飽きたのかさっき俺が見た看板に目を向けた。
すると眉をひそめ、俺の横腹をつついてきた。
「ちょ、やめろって腹つつくの」
「ねぇあれ」
「ん? あー、よりかかんなってやつでしょ?」
「違うって」
どうやら看板を見ていた訳ではないらしい。俺は美穂の指先から辿るようにして周囲を観察する。柵の後ろ側、周囲の木の隙間、雲海……目を凝らすも、何を指しているのか分からない。
「何……何指してん」
「変なのいる。あれ鹿か。ん?」
「なんだよ、いいってそういうの」
首を傾げる美穂の手をそのまま引くと、俺は人差し指を立てた。
「今日はまだいろいろ調べてあるんだよ。この後は山登んないし」
「さすがに次も山だったらキレてた」
口を尖らせ目を細める美穂だったが、ぐっと背を伸ばすと雲海にスマホを向けた。
「じゃ、もうちょっと写真撮ってから行こ?」
「それ送っといてよ。俺目に焼きつけるから」
「まだ言うー」
美穂が一通り写真を撮り終えると、俺たちはそのまま来た道を戻り、駐車場へと向かっていった。
◆
「んー、風景の加工ってムズいなー。こうさ、幻想的空間にしたいんだけど」
「女子って顔以外も加工すんの? 意味わかんね」
「あー、それノンデリ発言。わんあうと」
聞きなれたアイドルソングの流れる軽自動車。助手席でスマホを弄る美穂が野球の審判のごとく腕を振る。
山道の運転だけはどうしても慣れないが、安心しきったように座席によりかかるのを見ると少し肩の力が抜けた。
「んー……写ってないか」
美穂が写真をスワイプしてズームする。しかし、ダッシュボードに取り付けてあるスマホ置きにスマホを挟むと、窓の外を見つめた。
「まだ言うー、鹿なんていなかったですよー」
「ちょっと、私の真似? それ? 似て……ない!」
さすがに多少イラついたのか声が低い。これ以上はやめておかないとどんな報復をされるか分かったもんじゃない。
「ごめんって。でもあの柵のすぐ外崖だっただろ? 雲海に浮かんでたとか言うん?」
「違う……うーん、見えた気がしたんだけどなー……」
美穂がずるずると座席から沈んでいく。
「おい、シートベルトの意味なくなるからもっとちゃんと座れ」
「はいはーい」
気の抜けた返事にため息をついて、緩やかなカーブを曲がった時だった。
「ん? あれ鹿じゃね?」
ガードレールの外側、木々が生い茂る山にそれはいた。
一瞬。目が一度閉じて開くまでの間だったはずが、永遠のように思える。
体格は普通の鹿だった。四足歩行で、角が生えている。オスか。
毛並みは茶色で、腹の方は白い。ただ、奇妙な模様をしていた。
——白い斑点が、まるで人間の瞳のようだった。それだけじゃない。俺の見間違いかもしれないが、本来目があるはずの所に何も無かった。
「え、どこ!」
「あー……通り過ぎちゃった」
「えぇぇ! もー。もっと早く言ってよ!」
「ちゃんと座ってれば良かったんじゃない?」
正直あの鹿の見た目は奇妙、というより気持ちが悪かった。美穂は見なくて良かっただろう。
……なんか、模様が動いてた気もするし。
「まあいいや。それよりさ、お昼何食べるの?」
「もう昼の話……って、あー割といい時間だな」
カーナビの時計を見ると11時前だった。確かに移動時間もあるし、昼の事は考えるべきだろう。
「じゃあいい感じのとこ調べてよ。俺なんでもいいから」
「はーい。ランチ、ランチ……っと」
美穂がスマホで検索をし始める。タン、タンとリズムよく画面を弾く音を聞きながら真っ直ぐな坂道を下る。
ふと、後方に違和感を覚える。なにかが光ったような?
「ん……? 車なんて着いてきてたか?」
バックミラーをちらりと確認すると、目が合った。
鹿だ。体の模様が、俺を見ていた。見ていたはずだ。
じーっと、ちらりと、ぼんやりと、うっとりと、はっきりと、こっそりと。
「ッ!」
「わっ!」
ハンドルを急に切ってしまったことで車体が揺れ、がくんと内臓が揺れそうになる振動が襲う。
美穂をおさえるため咄嗟に腕を伸ばすと、シートベルトが役目を果たして体を固定した。
幸いガードレールにぶつかるようなこともなく、車は道路の中央に横向きに停止した。車通りが少なくて良かった。
「……っ健人大丈夫!?」
「はぁ……はぁ……ごめん、美穂。そっちこそ……なんもない?」
美穂がシートベルトを外して俺に体を寄せる。
ぺたぺたと顔に触れてくる。
「大丈夫。ねぇ何があったの」
両手をだらりと下ろすと、それを真似するように体全体から力が抜けていく。
「鹿だ」
「……………………え? 『しか』? なにいって」
美穂が声を震わせた。「しか」が何を指しているのか、二文字を口に出して、固まった。
そうなんだよ。鹿なんだ。瞳の無い顔が、そっぽ向いてるのに見てるんだ。あぁ、見てるんだよ。
バックミラー越しには何もいない。
「あれ、ちが……見てるんだ。見てたんだ」
おかしい。目が合ったって。さっきからさ。ずっとずっと。
「何言ってんの! ねぇ健人! 私の目を見て!」
美穂が手を握る。汗でびっしょりだ。
「違うんだって、見てんだよ。鹿が」
「いない、いないよ! なんの冗談なの! おもしろくない!」
嘘だ。見てる。もう横にいる。
美穂が無理やり目を合わせようとしてくる。
やめてくれ。たぶんだめだ。
顔を逸らそうとしたのに必死に両頬を掴まれた。
横目に、いつもなら愛おしく思える瞳が見えた。
「——あ、ああ、美穂の目にいるってぇぇ!」
美穂の瞳に写っている。鹿だ。目の無い鹿が目を向けている。
あたかもこっちに興味が無いみたいな目しやがって、そんなにジロジロとよ。その目は節穴か?俺を見てんのに見てねぇってよ!
「けんとぉ!」
美穂が泣き叫ぶ。待ってくれ。ごめん。本当に見てるんだって。
目を閉じてもいるんだ。瞼の裏に、暗い世界にもいるんだ。目を背けてはいけないんだ。
あの目が?俺が?見てるんだ。目を離せないんだ。目を奪われたんだ。
無視できないんだ。
「……目のせいだ」
指を瞼に突き立てる。ぐちゃりと生暖かい感触。人差し指と、中指と、親指。つまんで、回して、引き抜いて……
「いやぁぁぁぁぁ!」
何かが零れた。止まらない。顔を伝って口に入ると、鉄の味がした。でも、そんなことよりも……
「まだ見えるんだよぉぉぉぉぉ!」
あぁ、裏目に出ちまった。




