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アルフレド -世界の心臓に眠る少女ー  作者: 北島 将


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第二話「父の手帳と行先のない言葉」

挿絵(By みてみん)

ラドは、風の音がよく響く町だ。


 山に囲まれた、街道から少し外れた小さな町。旅人がわざわざ立ち寄るような場所じゃない。

 春先は乾いた風が石壁の角を舐め、冬になれば骨まで冷える音を立てて戸板を揺らす。

 畑は痩せているが、食っていけないほどでもない。 貧しいと切って捨てるにはしぶとく、豊かと胸を張るには少し足りない。


 そういう町だった。


 若いやつは、大抵いずれ出ていく。


 残るのは土地を継ぐ者と、出ていく理由を持たなかった者と、どこへ行っても同じだと知っている者くらいだ。


 レオン・ヴァルハイトは、そんな町に十九年住んだ。


 十九年、と言っても、いまはもうこの町に俺を引き留めるものは、なにもない。


 朝の光が差し込む家の中は静かだった。

 静かすぎて、風が窓枠の隙間を鳴らす音までやけに大きく聞こえる。

 少し前までは、同じ音を聞いても、母ちゃんが台所で立てる鍋の音や、布を裁つ鋏の音に紛れて気にならなかった。


 いまは、何もかもが空っぽの器みたいに響く。


 家に帰ってきても、誰もいない。

 その事実に、三か月たったいまでも慣れたとは言えなかった。


 母ちゃん――ルミネが倒れたのは三年前だ。


 最初はただの疲れだと言って笑っていた。

 少し休めば治ると、俺にもそう言った。


 けど、治らなかった。


 具合のいい日もあった。

 だから、治るかもしれないと何度も思った。

 そのたびに次の悪い日が来た。

 俺は近場の仕事を拾って金を作り、薬を買い、家のことをして、できるだけそばにいた。

 

 三か月前、母ちゃんは春の終わりみたいな薄い朝に、静かに息を引き取った。


 泣いたかどうかは、よく覚えていない。


 覚えているのは、もう呼んでも返事がないと分かった瞬間、家の中から音がひとつ消えたように感じたことだけだ。


 あれから、納屋の奥に積まれた木箱にも、箪笥の引き出しにも、なるべく触らないようにしてきた。

 片づければ、終わってしまう気がしたからだ。

 母さんの使っていた針箱も、冬物の外套も、親父の話をするときだけ少しやわらかくなる声の記憶も、整理した瞬間に遠ざかる気がした。


 だが、いつまでもそのままにしておけるほど、広い家じゃない。


 何より、今日は朝から妙に風が強くて、落ち着かなかった。


 窓の外では、向かいの家の軒先につるした乾燥草が揺れている。空は高く、雲は薄い。

 こういう日は、じっとしているとかえって昔のことばかり考える。


 なら、手を動かした方がましだと思った。


 俺は納屋へ向かった。


 古い木戸を押し開けると、乾いた土と木屑の匂いが鼻に入る。

 陽の差さない隅には、長いあいだ使っていない農具や、割れた籠、使い道のなくなった板材が立てかけてあった。

 母ちゃんは、物を捨てるのが下手な人だった。


 いや、違うな。捨てないんじゃない。そこにあった時間ごと、大事にしていたんだと思う。


 奥の棚の下から、目当ての木箱を引っ張り出す。


 持ち上げた瞬間、思ったよりずっしりしていて、腕に重みが食い込んだ。

 蓋の角は丸く擦り減り、金具はくすんでいる。子どもの頃、勝手に開けようとして母さんに叱られた覚えがある。

 

 あのときはたしか、

「怪我をするようなものは入ってないけど、思い出を雑に扱うな」

と、言われた。母ちゃんらしい言い方だった。


 箱を家の中まで運び、窓際に下ろした。


 昼前の光が斜めに差し込んで、舞い上がった埃が白く浮く。蓋を開けると、古い布の匂いがした。


 中には、母ちゃんのものがいくつも詰まっていた。

 衣類の切れ端。

 手触りの違う糸を巻いた小さな木芯。

 細い針をしまう革筒。銀の指輪。欠けた櫛。色の褪せたリボン。

 どうということのない品ばかりだ。

 けれど、どれも誰かの手の温度を失ったあとも、まだそこに人の暮らしの名残を残している。


 指輪をつまみ上げる。母ちゃんのものだ。細くて、飾り気がなくて、内側が少しだけ擦れている。

 親父にもらったものなのか、自分で買ったものなのか、結局聞けなかったなと思う。


 ふと、箱の底が少し高いことに気づいた。


 布や小物をすべて脇へ寄せる。底板の端に、ごく細い切れ込みがあった。

 爪を差し込み、持ち上げる。かすかに軋む音がして、薄い板が外れた。


 その下に、一冊の古い革手帳が隠されていた。


 息が、止まった気がした。


 見たことがあるわけじゃない。

 親父がいなくなったのは、俺が五歳のときだ。

 顔だって、母ちゃんの話や、家に一枚だけ残っていた古い肖像画の印象とごちゃまぜになっていて、どこまで本当の記憶か怪しい。


 なのに、それを手に取った瞬間、分かった。


ーー親父のものだ。


 理屈じゃなく、そうだった。


 革は何度も水と泥に晒されたようにくたびれていたが、手入れの癖が残っているのか、ただ古びているだけの物とは違う光を持っていた。

 角は擦れて丸くなり、背の糸はほつれかけている。それでも手の中におさめると、不思議と馴染む。長く使われた道具だけが持つ重みがあった。


 喉の奥が妙に乾いた。


 俺の親父、アルフレッド・ヴァルハイト。


 町の人間は、あの人をいろんなふうに呼んだ。冒険者。命知らず。迷宮狂い。夢見がちな馬鹿。

 大迷宮アビス・グランデに魅せられて身を滅ぼした愚か者。酒の入った席では、もっと下品に笑うやつもいた。


 俺はそういうのが嫌いだった。


 いや、嫌いなんてもんじゃなかった。

 物心ついた頃には、父親のことを笑う声を聞くたび、頭のどこかが焼けたみたいになった。

 親父のことなんて、ほとんど覚えていないくせに。

 どんな人だったのか、本当のところは何も知らないくせに。

 それでも、知らないからこそ、奪われたものみたいに思っていたのかもしれない。

 勝手に笑うな、勝手に終わったことにするな、と。


 そのせいで何度も喧嘩した。大人相手にも食ってかかった。

 鼻血を出して帰ったことも、逆に歯を折ってやって騒ぎになったこともある。


 いつからか、陰で“狂犬”と呼ばれるようになった。


 別に誇らしくはない。


 ただ、黙っていられなかった。


 母ちゃんは、一度も親父を愚か者だとは言わなかった。

 困った人だった、無茶をする人だった、と苦笑することはあっても、その目はいつも少しだけ嬉しそうだった。

 親父がどれだけ遠くまで潜ったとか、どんな景色を見たとか、何を信じていたかを話すときの母ちゃんは、ひとりの男を失った未亡人じゃなく、確かにその人を愛した女の顔をしていた。


 だから俺の中で、親父は“英雄”になった。


 ちゃんと知っているからじゃない。むしろ、知らない部分が多すぎたからこそだ。


 俺は手帳を膝の上に置き、ゆっくりと開いた。


 最初の数ページには、地図らしい線が走っていた。直線と曲線。方角を示すような矢印。俺の知らない記号。数字。階層を示すらしい印。ところどころに古語めいた走り書きが挟まっていて、全部は読めない。

 読める単語だけ拾っても意味はつながらない。地図、座標、階層、何かの変動記録。俺の知らない場所を、親父だけが知っていたことだけは分かった。

 

 けれど、これは間違いなく記録だった。

 誰かに見せるために綺麗にまとめたものじゃない。

 自分が辿った道を、自分が見たものを、あとで繋ぎ直すための切実な書き方だ。


 ページをめくる指先が少しずつ重くなる。


 後ろへいくほど、字が乱れていた。線が震え、ところどころ滲んでいる。泥か、水か、それとも血か。

 想像したくもないのに、どうしてもそう思ってしまう。


 そこで、俺の手が止まった。


 他より少し強い筆圧で、はっきりと書かれた一文があった。


 最下層に眠るのは財宝ではない。


 あれは世界の心臓だ。


 思わず、息を呑む。


 大迷宮アビス・グランデ。

 大陸の中央に口を開ける、世界最大最古の迷宮。子どもの頃は誰だって一度は夢を見る。

 英雄になれるかもしれない。まだ誰も見ていない宝があるかもしれない。けど大人になるころには知る。あそこは夢を叶える場所じゃない。帰ってこない場所だ。

 何十もの国家が存在を知っていながら、なお全容を掴めない底なし穴。深く潜るほど、魔物も空気も法則そのものもおかしくなると言われている。


 その最下層に、財宝ではなく、世界の心臓がある。


ーー何だ、それは?


 比喩じゃないのか。親父は何を見た。何をもって、そんな言葉を書いた。


 ページをめくる。指が震えて、うまく紙を掴めない。最後の方の頁は、文字というより傷跡みたいだった。その中で、一文だけ、滲みながらも読める箇所がある。


 もし辿り着いたなら、彼女を一人にするな。


「彼女?」


 そのたった二文字が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。


 彼女って誰だ。


 最下層にいるのか。人がいるのか。

 親父は誰に会った。

 何を見て、何を知って、それをここまで必死に残した。


 手帳を持つ手に、知らないうちに力が入っていた。

 親父は、ただ迷宮に呑まれて消えたんじゃない。


 何かを見たんだ。


 何かを知ったんだ。


 だから、残した。


 死ぬかもしれないところで、それでも誰かに伝えるために、こんなふうに書き残した。


 町の連中は好き勝手に言ってきた。

 迷宮に取り憑かれた愚か者。夢物語に喰われた敗残者。

 けど、この手帳は違うと告げていた。

 

 親父は何も知らずに死んだんじゃない。


 最後まで何かに手を伸ばしていた。


 俺は勢いよく手帳を閉じかけて、違和感に気づいた。

 後ろの見返しが少し膨らんでいる。

 指を差し込み、そっと剥がす。


 薄い金属片が挟まっていた。


 小さい。掌に収まるくらいの大きさしかない。なのに、妙に重い。鉄みたいに冷たいくせに、錆びていない。銀とも白金とも違う、不思議な光沢があった。

 片面には、見たことのない紋様が刻まれている。円をいくつも重ねたような、文字にも機構にも見える細工だ。


 触れた瞬間、理由もなく思った。


「鍵だ」


 正確には、鍵の一部。そう感じた。


 どこの、何を開くためのものかなんて分からない。けど、手帳と一緒に隠されていた以上、無関係なはずがなかった。


 俺はしばらく、その金属片を掌の上に載せたまま動けなかった。


 窓の外で風が鳴る。家鳴りがする。

 どこかで、洗濯物を叩く布の音がした。

 町はいつも通りの顔をしているのに、俺のいる場所だけ、急に別の時間へ滑り落ちたみたいだった。


 母ちゃんは、この手帳を知っていた。


 忘れていたはずがない。底板の下にまで隠してあったんだ。

 俺から遠ざけたかったのか、いつか見せるつもりだったのかは分からない。

 けれど、守っていたことだけは確かだった。

  

 母ちゃんは、そういう曖昧さごと胸に抱えて死んだのだろう。


 それを責める気にはなれなかった。


 むしろ、ようやく分かる。


 母ちゃんが親父を悪く言わなかった理由のひとつが。

 全部は知らなくても、信じるに足るものを見ていたんだ。

 だから、誰にも渡さず、俺にも簡単には見せなかった。


 俺は手帳を開き、もう一度あの頁を見た。

 他より少し強い筆圧で、はっきりと書かれた一文があった。


 ”最下層に眠るのは財宝ではない”


 ”あれは世界の心臓だ”


 

 ”もし辿り着いたなら、彼女を一人にするな”


 

 文字は古びているのに、いま書かれたみたいに生々しかった。


 彼女は誰だ?


 世界の心臓って何だ?


 親父はどこまで行って、何を見て、何を後ろに残して死んだ?


 このまま知らずに、このままラドで生きていける気がしなかった。


 気になる、とか、確かめたい、とか、そういう曖昧な熱じゃない。もっと骨の近くを掴まれる感じだった。

 ここで目を逸らしたら、俺はこの先ずっと、親父を笑った連中の言葉と同じ場所に立つことになる。

 真実を知らないまま、分からないものを分からないままにして、終わったことにして生きることになる。


 そんなのは、無理だった。


「行くしかない」


 親父が何を見て、何を残したのか、知らずにこの先を生きていけるわけがない。


 それに――その“彼女”を一人にするな、という言葉が、頭から離れなかった。

 

 顔も知らない、名前も知らない誰か。

 なのに、その一文だけで、置き去りにされた気配が胸に刺さる。

 親父が最後に気にかけたのが財宝でも名誉でもなく、“彼女”だったという事実が、どうしようもなく重かった。


 気づけば、立ち上がっていた。


 迷いがなかったわけじゃない。怖くないわけでもない。

 大迷宮アビス・グランデがどんな場所かくらい、十九にもなれば分かっている。そこへ向かうってことは、ただ旅に出るのとは違う。

 

 戻れないかもしれない。

 たぶん、戻れない者の方が多い。


 それでも、足が止まらなかった。


 寝台の下から荷袋を引っ張り出す。干しておいた外套を取る。

 革鎧は壁に掛けてあった。ところどころ擦り切れているが、油を入れてあるからまだ使える。

 近場の洞窟や浅い遺跡を潜る程度なら、これで十分だった。

 

 母ちゃんが倒れる前までは、俺とカイルとリシアの三人で、小さなパーティーみたいな真似をして潜っていた。

 カイルは昔から口が悪いくせに、妙なところで人を見る目があった。

 リシアはその逆で、無駄なことはほとんど喋らないのに、肝心なときだけ目で全部言うようなやつだった。


 母ちゃんの看病で俺が町を離れられなくなってから、二人は先にラドを出た。


 止めなかった。


 止められる立場でもなかった。

 あいつらにはあいつらの人生がある。

 ここで足踏みさせる気はなかったし、そう言った。


 出ていく前の日、カイルは鍛冶場の裏で俺に木剣を投げてよこしながら、妙に落ち着いた顔で言った。


「おまえ、どうせ来るだろ。今じゃなくても、そのうちな」


 何のことだと聞き返しても、あいつは肩をすくめただけだった。


「来たときに遅すぎないよう、こっちは先に道でも見とくさ」


 冗談みたいな口ぶりだったが、半分は本気だったんだろう。あいつはそういう言い方をする。


 リシアはもっと何も言わなかった。

 荷物を背負って、町外れで立ち止まり、一度だけ振り返った。

 言葉にしようとしてやめたみたいな顔をしていた。


 結局、最後まで無言のまま小さく手を上げて、それきりだった。


 いま思えば、二人とも、俺がいずれラドを出ると知っていたのかもしれない。


 けど、その時はまだ先の話だと思っていた。母ちゃんがいるうちは、俺はここを離れない。そう決めていたからだ。


 その“うち”が、終わった。


 剣を壁から外す。


 親父の形見じゃない。

 

 俺自身の剣だ。

 

 町の鍛冶師に何年も頼み込み、薪運びや荷下ろしや雑用で稼いだ金を少しずつ払いながら、ようやく打ってもらった。

 派手な名剣じゃない。癖のない片手剣で、鍔にも柄にも装飾はない。けど、重さも握りも身体に馴染んでいる。


 俺が俺の足でここまで来た証みたいなものだった。


 砥石を軽く当て、刃を確かめる。革帯を締める。干し肉、火打石、水袋、包帯、油。ひとつずつ荷に入れていく。


 最後に、手帳と金属片を油紙に包んだ。


 少しだけ迷ってから、それを荷袋じゃなく胸元にしまう。なくしたくなかった。誰にも触れさせたくなかった。


 家の中を見回す。


 まだ片づけていない物はいくらでもある。母さんの針箱も、冬用の毛布も、棚に残った器もそのままだ。帰ってくるなら、続きはそのときでいい。帰ってこないなら、誰かが処分するだろう。


 そう考えると、家が急によそよそしく見えた。


 俺は扉の前に立ち、振り返る。声に出すつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。


「……行ってくる」


 誰に向けた言葉だったのかは、自分でも分からない。


 母ちゃんか、親父か、それとも、もう誰もいない家そのものか。


 返事はない。


 ただ、風がどこかの隙間を抜けて、かすかに鳴った。


 町を歩くと、昼下がりのラドはいつも通りだった。洗濯物を干す女。荷車の車輪を直す男。犬を追い回す子ども。

 誰も、俺が今日このまま町を出ることなんて知らない。あるいは、荷姿を見れば察するやつもいるかもしれないが、いちいち聞いてはこないだろう。


 向かいの家の老婆だけが、戸口の椅子からこちらを見上げた。


 小柄で、背中が少し曲がっていて、けれど目だけは妙に鋭い人だ。子どもの頃から俺を見てきた。親父のことも、母ちゃんのことも知っている。


「おや」


 しわがれた声が風に乗る。


「そんな顔して歩くときは、ろくでもない場所へ行くと決まってるね」


 昔なら、俺は棘のある返し方をしたかもしれない。けど今日は、そんな気にもならなかった。

 立ち止まると、老婆は俺の胸元を一度見て、それから顔を見た。


「似てきたよ」


「誰に?」


「誰に、じゃないだろう」


 その言い方に、少しだけ苦笑しかける。


 老婆は鼻を鳴らした。


「あんたの父親も、何か腹に決めた日の朝はそんな目をしてた。

まっすぐで、頑固で、聞く耳があるようでない。母親似かと思ってたけど、そういうところはちゃんとあっちだ」


 胸の奥がわずかにざわついた。親父を知る人間にそう言われることは、嬉しいような、居心地が悪いような、不思議な感覚だった。


「止めないのか?」

「止めて止まる顔なら、最初からそんな顔しないよ」


 老婆は膝の上で手を組み、少しだけ視線を細めた。


「帰る場所を忘れるんじゃないよ。戻るかどうかは、あんたが決めることじゃないからね」


 縁起でもない言葉だと思ったが、不思議と腹は立たなかった。その人なりの見送りなのだと分かったからだ。


 俺は小さく頭を下げた。


「行ってくる」

「……ああ」


 その意味はよく分からなかったが、聞き返さなかった。


 町外れの道へ出る。


 石畳はすぐ土の道になり、やがて山の影へ向かって細く伸びていく。

 遠くで鷹が鳴いた。風が草を倒し、背中側から外套を膨らませる。

 ラドの風は、昔から見送り方が下手だ。引き留めるみたいに頬を打つ日もあれば、今日みたいに無言で背中を押してくる日もある。


 俺は振り返らなかった。


 戻れるかどうかは分からない。

 大迷宮までの道のりも、その先に何があるのかも、本当のところは何ひとつ分からない。

 親父が残した言葉の意味だって、まだ断片でしかない。


 それでも、もう引き返す気はなかった。


 胸元で、油紙に包んだ手帳と金属片がわずかに揺れる。

 その重みは小さいのに、妙に確かだった。まるで、行き先のないはずだった言葉が、ようやく俺の中で道になったみたいに。


 風が、背中を押した。


 俺はそのまま、山の向こうへ続く道を歩き出した。


 向かいの家の老婆は、その背中が小さくなっていくまで、じっと目で追っていた。


 風に揺れる乾燥草の音を聞きながら、ふと、まだルミネが元気だった頃のことを思い出す。


 まだレオンが今よりずっと小さく、庭先で木の枝を剣みたいに振り回していた日のことだ。

 それを見ながら、ルミネは洗濯物を干す手を止めて、少し困ったように笑っていた。


『この子、じっとしてないでしょう』


『誰に似たんだろうねえ』


『……分かってるくせに』


 そう言ってから、ルミネは物干し竿に白い布を掛ける手をふと止めた。

 遠くを見るような目をして、それから、ほんの少しだけ声をやわらかくした。


『でもあの子、行ったきりにはならない気がするの』

『ちゃんと、帰ってくる子だと思う』


 あのときの声が、なぜだか今になって耳の奥によみがえった。


 けれど、どこか違った。

 あれは、失ったものを背負って歩く者の背中だ。

 

 老婆は目を細める。

 遠ざかっていく青年の背中は、確かにアルフレッドに似ていた。

 


けれど、どこか違う。あれは、遺された者の背中だ。失ったものを背負ったまま、それでも前へ行く者の背中だ。


 風がまた吹いた。


 老婆は小さく息をつき、誰に聞かせるでもなく、風の中へ呟いた。


「……いっといで」


 


 

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