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もうひとつの影

掲載日:2025/12/26


【固定】

始めまして、三軒長屋サンゲンナガヤ 与太郎ヨタロウです。

ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。


挿絵(By みてみん)



 私が最初に“それ”をはっきりと見たのは、放課後の校舎でも、夢の中でもなく、地下鉄のホームだった。


 冬に向かう手前の夕方は、いつも妙に時間の感覚を狂わせる。

外はまだかろうじて明るいのに、地下に潜り込んだ途端、世界は濡れたコンクリートと白い蛍光灯だけになる。


放課後の図書委員の仕事を終えて、私はいつものように乗り慣れた路線のホームに立っていました。

スマホの画面にはメッセージアプリの通知がいくつか並んでいるけれど、開く気にはなれない。

制服のスカートのポケットに押し込んで、視線だけをホームの端から端へと滑らせる。


人の数は多くも少なくもない。

仕事帰りの会社員、買い物袋を下げた主婦、イヤホンを耳に差した大学生。

その誰もが、同じように疲れた顔で、同じように電車を待っている。


だけど、私が見ているのは顔ではなく、それぞれの足元に伸びる“影”でした。


 ホームの天井にずらりと並んだ蛍光灯は、白い光を無遠慮に叩きつけている。

その光に押し潰されるように、人々の影が床の上に重なり合っている。

くっきりした輪郭のものもあれば、形が分からないほど薄く伸びたものもある。


その中に、ひとつだけ、明らかにおかしな影が紛れ込んでいたんです――。


 スーツ姿の男の人でした。

年齢は四十前後でしょうか。

仕事は終えているはずなのに、ネクタイを固く締め、肩にかけたコートが重たそうに揺れている。

彼自身は、どこにでもいるような、疲れた会社員にしか見えない。

帰路という長い旅路に向けて、ただぼんやりとくうを見つめている。


けれど、足元に落ちた影だけが、違いました――。


光源の位置からすれば、影はもっと奥の方へと細長く伸びるはずなのに、彼の影は、足のすぐそばで、妙に濃く、丸く溜まっている。

黒い水たまりがそこだけ滲んでいるような、不自然な形。


 じっと見つめていると、その黒の中で何かが揺れました。


 ——つの


一瞬そう思いました。

影の中から、細く尖った“なにか”が、ぴくり、と持ち上がったように見えたのです。

鹿の角に似ているようでもあり、枝分かれした木の枝のようでもあり、それでいてどこか、もっと別の、見たこともない生き物の骨格を連想させる形。


私は思わず大袈裟なまばたきをしました。

そして、もう一度見る。

しかし、そこにあるのはただの影でした。

濃く、暗く、丸く溜まった影。


 揺れました……。

——また、だ。


胸の奥で、見慣れた種類のざわめきが立ち上がるのを感じる。

幼いころから、他の人が気づかない“違和感”を、私だけはやたらと見つけてしまうことがあったのです。

誰もいない廊下に伸びる、あり得ない向きの影。

真昼なのに、そこだけ夜みたく暗く沈んだ植え込みの隙間。

教室の隅で、誰かの影と重なったまま動かない、もうひとつの影。


怖くて、誰にも言わないまま、ここまで来てしまった。

言ったところで、どうせ「気のせい」で片づけられる。

実際、何度も“気のせいだったこと”にしてきた。


けれど、今ホームの床に溜まっている男の影は、視線を離しても、また戻しても、そこにある。

そこで、揺れている。

さっき見えた“角”の残像が、じんわりと目の奥に焼き付いて離れない。


 ホームに、風が吹きました。

トンネルの暗闇から、低い唸りが近づいてくる。

レールの上を駆け抜ける振動が足の裏に伝わってきます。

電車の到着を告げるアナウンスが、少し遅れて空気を震わせる。


鉄と鉄が擦れ合う、甲高くて冷たい音が鳴り響く。

私のすぐ隣で、ブレーキ音に顔をしかめた男子高校生が、イヤホンの音量を上げたのを感じる。

アナウンスにかき消されそうなほど小さな、誰かのため息が聞こえた気がする。


 その時です。

天井の蛍光灯が、一斉に、ちらりと瞬いた。

ほんの一瞬。

けれど、その一瞬の暗転で、世界の輪郭がふっと緩む。

床の上に押しつけられていた影たちが、揺らぐ。

まるで、水面を撫でる風に波紋が走るみたいに。


私は息を呑んだ。

あの男の足元の影だけが、他の影とは逆方向に揺れたのを見たからです。

光に従うことなく、摂理に遵うことなく、人の動きに合わせるでもなく……影そのものが、何かを“こちら側”に向かって伸ばそうとしている。

不思議とそう感じました。


黒い塊の中から、再び角のような輪郭が突き出す。

今度ははっきりと、二本。

角……いや、細くて長い指?

手のひらを大きく広げるように、左右にゆっくりと持ち上がる。


あり得ないこと……。

影に高さなんて、出せるわけもないのに。


私が凍りついた瞬間、風が変わった。

トンネルから吹き込んでいた風とは違う、ひやりとした冷たさが、足元から這い上がってくる。

冬の水に足を入れたみたいな、真っ直ぐな冷たさ。


それに、何よりも匂い。

腐敗臭でも下卑た香水でもない、息苦しく酸味がかった独特な匂い。


 次の瞬間、男が、ふらりと揺れた。

足を取られたように、前のめりに。

誰かが声を上げるより早く、彼の身体がホームの縁を越え、空中に投げ出される。


時間が、伸びた。

私の視界の中で、世界が極端にゆっくりになる。

落ちていく男の肉体。

咄嗟に伸ばされる周囲の手。

それよりも多い後ずさる脚。

開きかけた口。

そして、その足元に、最後までまとわりついて離れなかった、黒い影。


 ——押された?

そう思いました。

いや、そう自分自身に思い込ませたかったのです。

こんなにもはっきりと、私の三半規管がそれを否定しているのに。


誰かが背中を突いたのではない。

足元から、何かに“掴まれて”引きずり込まれたように思えたのです。


実際、ホームの縁には誰もいない。

男のすぐ後ろにいたはずの人々は、一様に目を見開き、後ずさっている。

誰も手を伸ばしていない。

誰も、触れていない。


 耳をつんざくブレーキ音が、伸びきった時間を乱暴に引き戻す。

悲鳴。

金属の軋む音。

駆け寄る駅員の声。

ひどく冷静な車掌の顔。


世界が一気に現実に戻る中で、私だけが、ホームの床を見ていました。

男が立っていた場所。

その足元には、もう何の影も残っていない。

ただ、蛍光灯に照らされた、平らな床が広がっているだけ。


ただひとつ、私の頭の中に、さっきの感覚だけがこびりついている。

——あれは、きっと“気のせい”じゃない。


そう思ってしまった瞬間、背筋をなぞるように、ひやりとした寒気が走る。

自分の足元から、視線を感じました。



     ◆◇◆



 事故のアナウンスがくり返し流れ、警備員がホームにロープを張り始めても、“瑞希みずき”はその場から動けなかった。

彼女の中で、耳鳴りのような音が反響し続けている。

激しく脈打つ鼓動に紛れて、体の芯だけが薄く震えているのを、彼女自身も理解できた。

しかし、そこにはまた違う理性も混在した。


――男はホームの上から押されたんじゃない。

線路へと引っ張り込まれたんだ——


頭のどこかでそう言葉にしながら、瑞希は視線を落とし、そしてまた上げた。

男が立っていた位置。

そこにあったはずの影は、勿論、跡形もない。

男の身体ごと世界が“消しゴムをかけた”みたいに、きれいに塗りつぶしてしまったようだった。


震える指先を、瑞希は制服の袖でぎゅっと握った。

考えるな。落ち着け。

でも、考えずにはいられなかった。


 幸いなのか、このホームは4車線。

事故が起きたのは反対側。

瑞希を家へと運ぶ電車は、ごく僅かな遅延の後、ホームへと入ってきた。


——あれは何だったの?

帰りの電車に揺られながら、先ほどのことをぼんやりと思い浮かべる。

確かに、人が亡くなる瞬間を見るのは初めてだった。

それ故に、自分自身が混乱しているのも、不思議と納得していた。

だけど、あの影を見たあとで誰かの足元を見るのが、今はひどく怖かった。



     ◆◇◆



 家に帰り着いたころには、外はすっかり暗くなっていた。

母と父はまだ仕事から戻っていない。

いつもの日常。当たり前の光景。

リビングの照明をつけると、何故か暗闇だった時にも増して、部屋の隅まで一気に静けさが押し寄せてくる。


瑞希はコートを脱ぎ捨て、まっすぐに自分の部屋へと向かった。

鞄を机の上に置き、制服のままベッドに腰を下ろす。


目を閉じると、あの黒い影が浮かぶ。

丸く、濃く、淀んだ影の色。

その中から持ち上がった“角の輪郭”。

あれが光の加減で見えた錯覚だとは、どうしても思えなかった。


 深呼吸をひとつして、瑞希はポケットに押し込んだスマホを取り出した。

検索アプリを開き、指を迷わせながら文字を打つ。


『地下鉄 影 事故』

『影が濃い 原因』

『動く影 角 見た』


出てくるのはどれも、心霊系のまとめ記事か、低解像度の動画ばかり。

瑞希の見た“影”の真相を説明できるものは何ひとつなかった。


 ——やっぱり、おかしいのは私なんじゃ……。

そこで思考が止まりかけたとき、画面に一件だけ引っかかった記事のタイトルが目に留まった。


『光源とは一致しない“逆向きの影”が見える現象』


瑞希は反射的にタップした。

大学院生らしき人物が書いた観察記録のようだった。

光の当たり方と逆方向に流れる“影の揺らぎ”が撮影できたかもしれない、という写真が添えられている。

古い記事なのか、解像度は粗くて、ほとんど黒い塊にしか見えないけれど、添えられた文章に瑞希の心臓が跳ねた。


『僕が観測した限り、この揺らぎは“人間の影”ではない。

むしろ、影の奥に別の影が潜んでいるようだ。

まるで、そこに“もうひとつの輪郭”が重なっているように……』


 息をのむ。

文章の言葉が、先の瞬間と重なっていく。

それだけではない。

瑞希が今まで感じて来た“他人とは違う感覚”——


更に読み進めようとしたその時、スマホの画面が照明の光を反射して、ふと部屋の隅が視界に入った。


 机の脚元──

瑞希の影が、ほんのわずかに揺れた。


風はない。

カーテンも閉めている。

照明は安定して、明滅なんてしていない。


なのに……。

自分の影だけが、瑞希の動きとは関係なく、ひと呼吸ぶんだけ“波打った”。


 全身が固まる。

喉に冷たい空気が貼り付いたように、声が出ない。

しっかりと見つめてはいけない気がして、ぼんやりと視界の隅で影を捉える。


次の瞬間には、影は元に戻った。

ただの影。ただの濃淡。ただの現実。


——違う。

その“ただの影”に戻った直後の、ほんの一瞬、瑞希には確かに感じ取れた。

影が、瑞希の位置を“探して”いるような気配を。

自身の影から向けられた視線を……。


 瑞希は反射的に部屋の照明を一段階明るくした。

影は薄れ、足元から遠ざかる。

やっと、息ができる。

気のせいだと片づけようとする意識と、それを激しく拒む直感が、胸の奥でぶつかり合った。


地下鉄のホームで見たもの。

あの影と、今の影。

無関係とはどうしても思えなかった。


 そのとき、玄関のドアが小さく軋む音がした。

母が帰ってきたのかと思ったが、瑞希の胸はなぜか、安堵ではなく“別の感覚”で満たされる。


足音。

ゆっくりとした、しかし迷いのない足取り。

聞き慣れていないリズム。


 ドアの淵の隙間で、廊下の電気が、ふっと陰った。

照明自体は点いているのに、光が壁に吸われるような妙な暗さが生まれる。


瑞希は息を呑み、ドアに向けて視線を上げた。


 コン、と、扉が軽くノックされた。

「瑞希さん、ですよね?」


低く静かな声だった。

男の人の声。

けれど、驚くべきことに、瑞希はその声に“聞き覚えがあるような気”がしてしまった。


“決して開けてはいけない”

瑞希の直感が悲鳴のように張り詰める。

しかし、身体がそれを許してはくれない。


 ゆっくりとドアを開ける。

そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。

「突然すみません。……あなたに、少しだけ話がありまして」


淡々とした表情。

落ち着いた瞳。

青年の黒いコートの裾が、風もないのにゆらりと揺れた。


 瑞希は、言葉を失った。

玄関灯に照らされた青年の足元を、つい見てしまう。

そこに落ちる影は……他の人と、同じように見える。

そのはずなのに、青年の影だけが、ほんの“数センチだけ”、光源の方向とずれていた。


青年は、瑞希の反応をゆっくりと観察するように、穏やかな視線を向けてきた。

その目は、年齢の割に静かすぎる。

不思議すぎるほどに不信感が芽生えず、まるで、ずっと昔から人の表情を見てきたような、深い諦観の色すら宿しているように見えた。


「少し……お話を伺っても、いいですか?」

瑞希は一歩だけ後ずさった。

当たり前だ。

両親が不在のタイミングで、見知らぬ男が家に入り込んで来たのだから。

しかし、声は出ない。

断るべきなのに、喉が閉じてしまったようで、息だけが浅く抜ける。

それに……断ってはいけない気がした。


 青年は慌てる様子もなく、「ここでは落ち着かないでしょうから」とだけ言い、廊下の手前まで下がった。

「あなたが嫌でなければ、リビングでも……」

瑞希よりこの家を知り尽くしたような言い草。

まるで瑞希が、青年の家に招かれたような感覚。


ただ、その声音は、瑞希を脅すでも、追い詰めるでもない。

むしろ、“逃げてもいい”と言っているような柔らかさがあった。


「……少しだけなら」

そう答えた自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。



     ◆◇◆



 リビングに移ると、青年は部屋の隅に立ったまま、瑞希から一定の距離を保った。

椅子に座れとも、向かい合えとも言わない。

ただ、光の届く場所を選ぶように、壁際に寄り添う。


「まず……自己紹介をしておきますね」

青年は軽く頭を下げた。

「僕は凪沙なぎさといいます。あなたと同じ、“影の中”が視える人間です」


瑞希の心臓が跳ねた。

「……影の中が視えるって、何のことですか」

問いながら、自分自身の声が震えているのが分かった。

何にも知らないフリをした。


 凪沙はその不安を和らげようとするでもなく、ただ淡々と答える。

「影の奥にある、もうひとつの輪郭。

科学では説明のつかない揺らぎ。

あなたが今日……いえ、きっともっと前から見てきたものです」


瑞希は大きく喉を鳴らす。

「どうして、それを……」

「僕も今日、同じ電車を待っていました。勿論、それは偶然です」

凪沙はわずかに微笑んだ。

「“視える人”は、自分が視ているものを、誰かに悟られまいとします。

でも、今日のあなたは逆でした。

“誰かに気づいてほしい”という葛藤が滲んでいた」


 瑞希は返す言葉を失った。

しかし懸命に絞り出す。

「……あれは、何なんですか?

ホームで見たあの影……あの男の人の影。

あれは、普通の影じゃない……ですよね?」


凪沙は静かに目を伏せる。

「普通ではありません。

でも、“何か”と断定することもできません。

影とは、ただ光を失った場所のはずなのに……時折、そこに“本来存在しない形”が現れることがある」


凪沙の言葉は、説明というより、“観測の共有”に近かった。

それが余計に瑞希の不安を煽る。

「じゃあ、あの事故は……」

「彼は、おそらく“触れた”のです」

凪沙の声は泥濘んだ水面に石を落とすように静かだった。

そして、一滴の波紋を飛ばす。

「影の……向こう側に」


 瑞希の背中に、冷たいものが走る。

「向こう側……?」

「——世界と世界の継ぎ目——と、言えばいいでしょうか。

ただ、誤解しないでください。

誰にでも見えるものではありません。

見える者は、限られている。

あなたのように」


「私……?」

「ええ。あなたは“見すぎて”しまう体質なんです」


その言葉が引っかかった。

「……見すぎる?」

「影というのは、本来“見えてしまうもの”です。

でも、あなたは“見えなくていい部分”まで視てしまう。

人と影の境界。光と闇の接点。

そして……」


凪沙の視線が、瑞希の足元へゆっくり落ちた。

「あなた自身の影も、もう揺れ始めている」


 瑞希は反射的に足元を見た。

照明は変わらず部屋を明るく照らし、影は薄い。

それでも、瑞希には分かった。

またしてもほんの一瞬、自分の影が“瑞希の立つ位置を探した”ような動きをしたことに。


「どうして……どうしてこんなものが視えるんですか。

私、何もしてないのに……!」

瑞希の声は震えていた。

不安、恐怖、怒り、それらが混ざった響き。


凪沙は少しだけ視線を逸らし、そしてゆっくりと告げた。

「あなたに理由はありません。

これはただ、持って生まれたものなんです。

“視えてしまう血筋”とでも言えばいいでしょうか」

「血筋……?」

「本当に信じる必要はありません。」


凪沙は淡々と続けた。

「でも、あなたが今日視たものは、決して錯覚ではない。

そして、これは忠告ですが……」


凪沙は一歩、瑞希に近づいた。

光が揺れ、瑞希の影がそれを嫌がるように、床の上でわずかに震える。

「影の奥にいる“何か”に、名前を与えてはいけません」


 瑞希は再び息を呑む。

「名前……?」

「名前は“形”です。

形は“証明”を与える。

証明は“橋”になる。

“向こう側”のものが、こちらに渡ってこられる唯一の手段だから」


瑞希の背中を、氷の針でなぞられたみたいな寒気が走った。

「……じゃあ、私はどうすれば……」


凪沙は答えようとした。

しかし、その瞬間──

リビングの灯りが、唐突にふっと陰った。


風も音もない。

電圧の不調とも違う。

ただ光だけが、まるで何かに吸い取られるように弱まった。


 瑞希は即座に足元を見た。

自分の影が、さっきよりも“濃く”なっている。

濃く、深く、まるで暗闇そのものを掬い取ったみたいに……。


そして──

現われてしまった。

影の中から、なにか細長い“指”のような形が、静かに持ち上がろうとしていた。

近くで目の当たりにしても、それが指なのか角なのかは分からない。

だが、避けられぬ事実。

目を逸らせぬ現実。

それはもう、決められた形を縁取るだけの“いつもの影”ではない。


 瑞希はついに呼吸を失う。

凪沙がずいと歩み寄る。

それと同時に、瑞希と凪沙の影が絡み合う。

互いの濃さを競い合うように、渦となり、溶け合う。


凪沙はさらに一歩踏み出し、瑞希の両肩を掴んだ。

「まだ、触れてはダメだ!」

その声は、先ほどまでの静かさとは違う、明確な緊張が滲んでいた。

しかし、肝心の言葉の意味が理解出来ない。


 凪沙の手に掴まれた肩が熱を帯び、瑞希は一瞬だけ呼吸を取り戻した。

だが、足元に広がる影は、依然として濃さを増してゆく。

光が弱まったからではない。

今や凪沙の影すらも呑み込まんとする勢い。

影そのものが“瑞希を起点に深くなっている”としか思えなかった。


「どうして……私の影が……」

「揺らぎが始まってしまったからです」

凪沙は低い声で言った。

「あなたは今日、あれをハッキリと視てしまった。

一度見てしまうと、向こう側のものは“こちら”を探し始める。

ときどき……呼ばれるように」


 「呼ばれる……?」

その言葉の響きが、瑞希の肌の上でひやりと広がる。

影は混ざり合いを緩め、じっとりと床に沈み、微かな震えを繰り返していた。

「あなたに害を与えようとしているのか、それとも、別の意味があるのか……私にも分かりません。

ひとつ言えることがあるとするならば、あなたの影は、あなたに執着しているのです。

まさか、あなた自身であるかのように……」


凪沙の視線には迷いがあった。

それは知識の欠落ではなく、“判断できないもの”を前にした人間の目だった。

「言っておきますが……影の奥にいるものは、悪いものとは限りません」

凪沙はあくまで淡々と続ける。

「ただ、こちらから手を伸ばすべきではない。

境界は、一度でも触れれば壊れる可能性がある」


 瑞希は唇を噛んだ。

胸の中の恐怖と、説明のつかない“別の感情”が混ざり合って、心が締め付けられる。

「……私は、どうすれば……」

擦れる問いは、ほとんど祈りのようだった。


またひとつ、ふっと照明が揺れた。

次の瞬間には部屋全体が元の明るさに戻ったが、影だけは——瑞希の影だけは——濃いままだった。


瑞希はゆっくりと、その影を見下ろした。

すると、影が“呼吸をした”ように、一度だけ波打った。

まるで、そこに何かが潜んでいて、瑞希の存在を確認するかのように。

見つめ返されているかのように。


声にならない空気が胸の奥で暴れる。

「……あなたの名前を……」

凪沙の声が、一段低く響いた。

瑞希は反射的に凪沙を見つめる。

「絶対に言ってはいけません。

影の向こうにいる存在に、名前を与えることだけは」

「……言わない……言うわけない……」


そう言おうとした。

言おうとしたのに。


影が、ハッキリと形を変えた。

瑞希の足元に落ちていた黒が、ほんの少しだけ“人の輪郭”に近づく。

部屋の照明では出来得ない影の形。

目とも口ともつかない暗い窪みが、瑞希の方へわずかに傾いた気がした。


 その瞬間だった。


――“みず……”


声だった。

確かに声だった。

耳ではなく、胸の内側に直接落ちてくるような、小さな囁き。


瑞希の全身が強張る。

自分の名前を呼ばれたわけではない。

呼ばれかけた、というべきだろう。

言い切られなかった“途切れた音”。


幻聴だと、片づけようとする理性が頼りなく働く。

だが、それは瑞希が聞いたことのない種類の音だった。

言葉の形になる直前の、意味だけを帯びたさざ波のような“気配”だった。


 影が、瑞希の方へ触れようと伸びかけた。


「やめろ!」

凪沙の声が鋭く響くと同時に、瑞希は凪沙に突き飛ばされ、身体は後ろのソファへと不時着した。

足が地面から離れ、影から距離が生まれる。


影はふっと元の形に戻った。

ただの濃淡……ただの黒。

そこには何の意志も宿っていないように見えた。


 瑞希は荒い呼吸のままひじ掛けに手をつき、顔を上げる。

「今の……何……?」


凪沙は瑞希にゆっくりと近づき、しかし距離を詰めすぎない位置で立ち止まった。

「答えは……僕にも分かりません。

ただ、あなたの影は間違いなくあなたを“見つけた”。

今日限りで終わる可能性もあるし、これからもっと強くなる可能性もある」

「そんな……どうなるんですか? 私は……」


凪沙はしばらく黙った。

何かを選び取るように、慎重に言葉を探している。

「影が形を持ちすぎなければ、何も起こらないはずです。ただ……」

「ただ……?」

「あなたが“名付けてしまえば”、向こう側のものは確実にこちら側に渡ってきます」


「名付けてなんかいません!」

瑞希は抵抗した。

「今後も、自分の影に名前なんて付けません!」

当たり前だ。名付けるつもりなどない。

それなのに——

あの囁きは、瑞希の名前の“欠片”に触れようとしていた。


「どうして……私なんですか?」

瑞希は疲れたように呟く。

凪沙はわずかに目を細めた。

その表情は、やはりどこか寂しげだった。

「先ほども言いましたが、決して選ばれたわけではありません。

たまたま……“視えてしまう側”に生まれただけです。

それは祝福でも呪いでもなく……ただの事実です」


 その言葉は残酷ではない。

けれど、優しさとも違った。

まるで、長いあいだ一人で雨宿りをしてきた人間が、同じ場所にもうひとり来たことを淡々と受け入れるような響き。

ここでどんなに待っても、この雨は止まないのに……。


凪沙は、寄り添うように語り出す。

「人間は、皆それぞれ、“自分の中の自分”を潜ませています。

僕たちは、それが少々他人よりも“濃い”のです。

身体に納まりきらなくなった意思は、影へと映り、深淵となる。

そしていつしか、あるはずもない自我を持ち、名前を欲しがるのです。

“もうひとつの生命”でありたいと……」


凪沙の言葉に、瑞希はゆっくりと立ち上がった。

影は静かだ。

何も動かない。何も語らない。

ただ、瑞希の足元に置かれたように、濃く、深く、そこにある。


 瑞希の心も、不思議と静まる。

「……これから、どうなるの?」

問いは自然だった。

凪沙は感情を滲ませず、瑞希をまっすぐと見つめた。

「それを決めるのは、あなたです。

影に触れるのか。距離を置くのか。

名を呼ぶのか。

呼ばれたと感じても、拒むのか」


曖昧で、しかしどこか重い言葉だった。


 瑞希は足元を見る。

どんなに見つめても、影は、ただの影にしか見えない。


それでも——

瑞希の心のどこかで、影が“こちらを見ているような気配”は消えない。

あの囁きが、耳の奥でかすかに揺れ続ける。


 ――“みず……”


音にもならない空気。

言葉にもならない名前の欠片。

牢獄からの叫び。


——私が封じ込めた、もうひとりの私——


瑞希はゆっくりと目を閉じた。

深呼吸を一度だけして、影と向き合う。


聞こえぬ台詞。

届かぬ想いと漂う哀愁。

当てもなく流れる懺悔……。


目を開けると、影は静かに揺れた。

それが風のせいなのか、錯覚なのか、それとも未だに“呼んでいる”のか……分からない。


 ただ、ひとつだけ確かだった。

——これから長い旅が、始まるのだ――

そう思った。




【固定】

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