もうひとつの影
【固定】
始めまして、三軒長屋 与太郎です。
ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。
私が最初に“それ”をはっきりと見たのは、放課後の校舎でも、夢の中でもなく、地下鉄のホームだった。
冬に向かう手前の夕方は、いつも妙に時間の感覚を狂わせる。
外はまだかろうじて明るいのに、地下に潜り込んだ途端、世界は濡れたコンクリートと白い蛍光灯だけになる。
放課後の図書委員の仕事を終えて、私はいつものように乗り慣れた路線のホームに立っていました。
スマホの画面にはメッセージアプリの通知がいくつか並んでいるけれど、開く気にはなれない。
制服のスカートのポケットに押し込んで、視線だけをホームの端から端へと滑らせる。
人の数は多くも少なくもない。
仕事帰りの会社員、買い物袋を下げた主婦、イヤホンを耳に差した大学生。
その誰もが、同じように疲れた顔で、同じように電車を待っている。
だけど、私が見ているのは顔ではなく、それぞれの足元に伸びる“影”でした。
ホームの天井にずらりと並んだ蛍光灯は、白い光を無遠慮に叩きつけている。
その光に押し潰されるように、人々の影が床の上に重なり合っている。
くっきりした輪郭のものもあれば、形が分からないほど薄く伸びたものもある。
その中に、ひとつだけ、明らかにおかしな影が紛れ込んでいたんです――。
スーツ姿の男の人でした。
年齢は四十前後でしょうか。
仕事は終えているはずなのに、ネクタイを固く締め、肩にかけたコートが重たそうに揺れている。
彼自身は、どこにでもいるような、疲れた会社員にしか見えない。
帰路という長い旅路に向けて、ただぼんやりと空を見つめている。
けれど、足元に落ちた影だけが、違いました――。
光源の位置からすれば、影はもっと奥の方へと細長く伸びるはずなのに、彼の影は、足のすぐそばで、妙に濃く、丸く溜まっている。
黒い水たまりがそこだけ滲んでいるような、不自然な形。
じっと見つめていると、その黒の中で何かが揺れました。
——角。
一瞬そう思いました。
影の中から、細く尖った“なにか”が、ぴくり、と持ち上がったように見えたのです。
鹿の角に似ているようでもあり、枝分かれした木の枝のようでもあり、それでいてどこか、もっと別の、見たこともない生き物の骨格を連想させる形。
私は思わず大袈裟なまばたきをしました。
そして、もう一度見る。
しかし、そこにあるのはただの影でした。
濃く、暗く、丸く溜まった影。
揺れました……。
——また、だ。
胸の奥で、見慣れた種類のざわめきが立ち上がるのを感じる。
幼いころから、他の人が気づかない“違和感”を、私だけはやたらと見つけてしまうことがあったのです。
誰もいない廊下に伸びる、あり得ない向きの影。
真昼なのに、そこだけ夜みたく暗く沈んだ植え込みの隙間。
教室の隅で、誰かの影と重なったまま動かない、もうひとつの影。
怖くて、誰にも言わないまま、ここまで来てしまった。
言ったところで、どうせ「気のせい」で片づけられる。
実際、何度も“気のせいだったこと”にしてきた。
けれど、今ホームの床に溜まっている男の影は、視線を離しても、また戻しても、そこにある。
そこで、揺れている。
さっき見えた“角”の残像が、じんわりと目の奥に焼き付いて離れない。
ホームに、風が吹きました。
トンネルの暗闇から、低い唸りが近づいてくる。
レールの上を駆け抜ける振動が足の裏に伝わってきます。
電車の到着を告げるアナウンスが、少し遅れて空気を震わせる。
鉄と鉄が擦れ合う、甲高くて冷たい音が鳴り響く。
私のすぐ隣で、ブレーキ音に顔をしかめた男子高校生が、イヤホンの音量を上げたのを感じる。
アナウンスにかき消されそうなほど小さな、誰かのため息が聞こえた気がする。
その時です。
天井の蛍光灯が、一斉に、ちらりと瞬いた。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬の暗転で、世界の輪郭がふっと緩む。
床の上に押しつけられていた影たちが、揺らぐ。
まるで、水面を撫でる風に波紋が走るみたいに。
私は息を呑んだ。
あの男の足元の影だけが、他の影とは逆方向に揺れたのを見たからです。
光に従うことなく、摂理に遵うことなく、人の動きに合わせるでもなく……影そのものが、何かを“こちら側”に向かって伸ばそうとしている。
不思議とそう感じました。
黒い塊の中から、再び角のような輪郭が突き出す。
今度ははっきりと、二本。
角……いや、細くて長い指?
手のひらを大きく広げるように、左右にゆっくりと持ち上がる。
あり得ないこと……。
影に高さなんて、出せるわけもないのに。
私が凍りついた瞬間、風が変わった。
トンネルから吹き込んでいた風とは違う、ひやりとした冷たさが、足元から這い上がってくる。
冬の水に足を入れたみたいな、真っ直ぐな冷たさ。
それに、何よりも匂い。
腐敗臭でも下卑た香水でもない、息苦しく酸味がかった独特な匂い。
次の瞬間、男が、ふらりと揺れた。
足を取られたように、前のめりに。
誰かが声を上げるより早く、彼の身体がホームの縁を越え、空中に投げ出される。
時間が、伸びた。
私の視界の中で、世界が極端にゆっくりになる。
落ちていく男の肉体。
咄嗟に伸ばされる周囲の手。
それよりも多い後ずさる脚。
開きかけた口。
そして、その足元に、最後までまとわりついて離れなかった、黒い影。
——押された?
そう思いました。
いや、そう自分自身に思い込ませたかったのです。
こんなにもはっきりと、私の三半規管がそれを否定しているのに。
誰かが背中を突いたのではない。
足元から、何かに“掴まれて”引きずり込まれたように思えたのです。
実際、ホームの縁には誰もいない。
男のすぐ後ろにいたはずの人々は、一様に目を見開き、後ずさっている。
誰も手を伸ばしていない。
誰も、触れていない。
耳をつんざくブレーキ音が、伸びきった時間を乱暴に引き戻す。
悲鳴。
金属の軋む音。
駆け寄る駅員の声。
ひどく冷静な車掌の顔。
世界が一気に現実に戻る中で、私だけが、ホームの床を見ていました。
男が立っていた場所。
その足元には、もう何の影も残っていない。
ただ、蛍光灯に照らされた、平らな床が広がっているだけ。
ただひとつ、私の頭の中に、さっきの感覚だけがこびりついている。
——あれは、きっと“気のせい”じゃない。
そう思ってしまった瞬間、背筋をなぞるように、ひやりとした寒気が走る。
自分の足元から、視線を感じました。
◆◇◆
事故のアナウンスがくり返し流れ、警備員がホームにロープを張り始めても、“瑞希”はその場から動けなかった。
彼女の中で、耳鳴りのような音が反響し続けている。
激しく脈打つ鼓動に紛れて、体の芯だけが薄く震えているのを、彼女自身も理解できた。
しかし、そこにはまた違う理性も混在した。
――男はホームの上から押されたんじゃない。
線路へと引っ張り込まれたんだ——
頭のどこかでそう言葉にしながら、瑞希は視線を落とし、そしてまた上げた。
男が立っていた位置。
そこにあったはずの影は、勿論、跡形もない。
男の身体ごと世界が“消しゴムをかけた”みたいに、きれいに塗りつぶしてしまったようだった。
震える指先を、瑞希は制服の袖でぎゅっと握った。
考えるな。落ち着け。
でも、考えずにはいられなかった。
幸いなのか、このホームは4車線。
事故が起きたのは反対側。
瑞希を家へと運ぶ電車は、ごく僅かな遅延の後、ホームへと入ってきた。
——あれは何だったの?
帰りの電車に揺られながら、先ほどのことをぼんやりと思い浮かべる。
確かに、人が亡くなる瞬間を見るのは初めてだった。
それ故に、自分自身が混乱しているのも、不思議と納得していた。
だけど、あの影を見たあとで誰かの足元を見るのが、今はひどく怖かった。
◆◇◆
家に帰り着いたころには、外はすっかり暗くなっていた。
母と父はまだ仕事から戻っていない。
いつもの日常。当たり前の光景。
リビングの照明をつけると、何故か暗闇だった時にも増して、部屋の隅まで一気に静けさが押し寄せてくる。
瑞希はコートを脱ぎ捨て、まっすぐに自分の部屋へと向かった。
鞄を机の上に置き、制服のままベッドに腰を下ろす。
目を閉じると、あの黒い影が浮かぶ。
丸く、濃く、淀んだ影の色。
その中から持ち上がった“角の輪郭”。
あれが光の加減で見えた錯覚だとは、どうしても思えなかった。
深呼吸をひとつして、瑞希はポケットに押し込んだスマホを取り出した。
検索アプリを開き、指を迷わせながら文字を打つ。
『地下鉄 影 事故』
『影が濃い 原因』
『動く影 角 見た』
出てくるのはどれも、心霊系のまとめ記事か、低解像度の動画ばかり。
瑞希の見た“影”の真相を説明できるものは何ひとつなかった。
——やっぱり、おかしいのは私なんじゃ……。
そこで思考が止まりかけたとき、画面に一件だけ引っかかった記事のタイトルが目に留まった。
『光源とは一致しない“逆向きの影”が見える現象』
瑞希は反射的にタップした。
大学院生らしき人物が書いた観察記録のようだった。
光の当たり方と逆方向に流れる“影の揺らぎ”が撮影できたかもしれない、という写真が添えられている。
古い記事なのか、解像度は粗くて、ほとんど黒い塊にしか見えないけれど、添えられた文章に瑞希の心臓が跳ねた。
『僕が観測した限り、この揺らぎは“人間の影”ではない。
むしろ、影の奥に別の影が潜んでいるようだ。
まるで、そこに“もうひとつの輪郭”が重なっているように……』
息をのむ。
文章の言葉が、先の瞬間と重なっていく。
それだけではない。
瑞希が今まで感じて来た“他人とは違う感覚”——
更に読み進めようとしたその時、スマホの画面が照明の光を反射して、ふと部屋の隅が視界に入った。
机の脚元──
瑞希の影が、ほんのわずかに揺れた。
風はない。
カーテンも閉めている。
照明は安定して、明滅なんてしていない。
なのに……。
自分の影だけが、瑞希の動きとは関係なく、ひと呼吸ぶんだけ“波打った”。
全身が固まる。
喉に冷たい空気が貼り付いたように、声が出ない。
しっかりと見つめてはいけない気がして、ぼんやりと視界の隅で影を捉える。
次の瞬間には、影は元に戻った。
ただの影。ただの濃淡。ただの現実。
——違う。
その“ただの影”に戻った直後の、ほんの一瞬、瑞希には確かに感じ取れた。
影が、瑞希の位置を“探して”いるような気配を。
自身の影から向けられた視線を……。
瑞希は反射的に部屋の照明を一段階明るくした。
影は薄れ、足元から遠ざかる。
やっと、息ができる。
気のせいだと片づけようとする意識と、それを激しく拒む直感が、胸の奥でぶつかり合った。
地下鉄のホームで見たもの。
あの影と、今の影。
無関係とはどうしても思えなかった。
そのとき、玄関のドアが小さく軋む音がした。
母が帰ってきたのかと思ったが、瑞希の胸はなぜか、安堵ではなく“別の感覚”で満たされる。
足音。
ゆっくりとした、しかし迷いのない足取り。
聞き慣れていないリズム。
ドアの淵の隙間で、廊下の電気が、ふっと陰った。
照明自体は点いているのに、光が壁に吸われるような妙な暗さが生まれる。
瑞希は息を呑み、ドアに向けて視線を上げた。
コン、と、扉が軽くノックされた。
「瑞希さん、ですよね?」
低く静かな声だった。
男の人の声。
けれど、驚くべきことに、瑞希はその声に“聞き覚えがあるような気”がしてしまった。
“決して開けてはいけない”
瑞希の直感が悲鳴のように張り詰める。
しかし、身体がそれを許してはくれない。
ゆっくりとドアを開ける。
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
「突然すみません。……あなたに、少しだけ話がありまして」
淡々とした表情。
落ち着いた瞳。
青年の黒いコートの裾が、風もないのにゆらりと揺れた。
瑞希は、言葉を失った。
玄関灯に照らされた青年の足元を、つい見てしまう。
そこに落ちる影は……他の人と、同じように見える。
そのはずなのに、青年の影だけが、ほんの“数センチだけ”、光源の方向とずれていた。
青年は、瑞希の反応をゆっくりと観察するように、穏やかな視線を向けてきた。
その目は、年齢の割に静かすぎる。
不思議すぎるほどに不信感が芽生えず、まるで、ずっと昔から人の表情を見てきたような、深い諦観の色すら宿しているように見えた。
「少し……お話を伺っても、いいですか?」
瑞希は一歩だけ後ずさった。
当たり前だ。
両親が不在のタイミングで、見知らぬ男が家に入り込んで来たのだから。
しかし、声は出ない。
断るべきなのに、喉が閉じてしまったようで、息だけが浅く抜ける。
それに……断ってはいけない気がした。
青年は慌てる様子もなく、「ここでは落ち着かないでしょうから」とだけ言い、廊下の手前まで下がった。
「あなたが嫌でなければ、リビングでも……」
瑞希よりこの家を知り尽くしたような言い草。
まるで瑞希が、青年の家に招かれたような感覚。
ただ、その声音は、瑞希を脅すでも、追い詰めるでもない。
むしろ、“逃げてもいい”と言っているような柔らかさがあった。
「……少しだけなら」
そう答えた自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
◆◇◆
リビングに移ると、青年は部屋の隅に立ったまま、瑞希から一定の距離を保った。
椅子に座れとも、向かい合えとも言わない。
ただ、光の届く場所を選ぶように、壁際に寄り添う。
「まず……自己紹介をしておきますね」
青年は軽く頭を下げた。
「僕は凪沙といいます。あなたと同じ、“影の中”が視える人間です」
瑞希の心臓が跳ねた。
「……影の中が視えるって、何のことですか」
問いながら、自分自身の声が震えているのが分かった。
何にも知らないフリをした。
凪沙はその不安を和らげようとするでもなく、ただ淡々と答える。
「影の奥にある、もうひとつの輪郭。
科学では説明のつかない揺らぎ。
あなたが今日……いえ、きっともっと前から見てきたものです」
瑞希は大きく喉を鳴らす。
「どうして、それを……」
「僕も今日、同じ電車を待っていました。勿論、それは偶然です」
凪沙はわずかに微笑んだ。
「“視える人”は、自分が視ているものを、誰かに悟られまいとします。
でも、今日のあなたは逆でした。
“誰かに気づいてほしい”という葛藤が滲んでいた」
瑞希は返す言葉を失った。
しかし懸命に絞り出す。
「……あれは、何なんですか?
ホームで見たあの影……あの男の人の影。
あれは、普通の影じゃない……ですよね?」
凪沙は静かに目を伏せる。
「普通ではありません。
でも、“何か”と断定することもできません。
影とは、ただ光を失った場所のはずなのに……時折、そこに“本来存在しない形”が現れることがある」
凪沙の言葉は、説明というより、“観測の共有”に近かった。
それが余計に瑞希の不安を煽る。
「じゃあ、あの事故は……」
「彼は、おそらく“触れた”のです」
凪沙の声は泥濘んだ水面に石を落とすように静かだった。
そして、一滴の波紋を飛ばす。
「影の……向こう側に」
瑞希の背中に、冷たいものが走る。
「向こう側……?」
「——世界と世界の継ぎ目——と、言えばいいでしょうか。
ただ、誤解しないでください。
誰にでも見えるものではありません。
見える者は、限られている。
あなたのように」
「私……?」
「ええ。あなたは“見すぎて”しまう体質なんです」
その言葉が引っかかった。
「……見すぎる?」
「影というのは、本来“見えてしまうもの”です。
でも、あなたは“見えなくていい部分”まで視てしまう。
人と影の境界。光と闇の接点。
そして……」
凪沙の視線が、瑞希の足元へゆっくり落ちた。
「あなた自身の影も、もう揺れ始めている」
瑞希は反射的に足元を見た。
照明は変わらず部屋を明るく照らし、影は薄い。
それでも、瑞希には分かった。
またしてもほんの一瞬、自分の影が“瑞希の立つ位置を探した”ような動きをしたことに。
「どうして……どうしてこんなものが視えるんですか。
私、何もしてないのに……!」
瑞希の声は震えていた。
不安、恐怖、怒り、それらが混ざった響き。
凪沙は少しだけ視線を逸らし、そしてゆっくりと告げた。
「あなたに理由はありません。
これはただ、持って生まれたものなんです。
“視えてしまう血筋”とでも言えばいいでしょうか」
「血筋……?」
「本当に信じる必要はありません。」
凪沙は淡々と続けた。
「でも、あなたが今日視たものは、決して錯覚ではない。
そして、これは忠告ですが……」
凪沙は一歩、瑞希に近づいた。
光が揺れ、瑞希の影がそれを嫌がるように、床の上でわずかに震える。
「影の奥にいる“何か”に、名前を与えてはいけません」
瑞希は再び息を呑む。
「名前……?」
「名前は“形”です。
形は“証明”を与える。
証明は“橋”になる。
“向こう側”のものが、こちらに渡ってこられる唯一の手段だから」
瑞希の背中を、氷の針でなぞられたみたいな寒気が走った。
「……じゃあ、私はどうすれば……」
凪沙は答えようとした。
しかし、その瞬間──
リビングの灯りが、唐突にふっと陰った。
風も音もない。
電圧の不調とも違う。
ただ光だけが、まるで何かに吸い取られるように弱まった。
瑞希は即座に足元を見た。
自分の影が、さっきよりも“濃く”なっている。
濃く、深く、まるで暗闇そのものを掬い取ったみたいに……。
そして──
現われてしまった。
影の中から、なにか細長い“指”のような形が、静かに持ち上がろうとしていた。
近くで目の当たりにしても、それが指なのか角なのかは分からない。
だが、避けられぬ事実。
目を逸らせぬ現実。
それはもう、決められた形を縁取るだけの“いつもの影”ではない。
瑞希はついに呼吸を失う。
凪沙がずいと歩み寄る。
それと同時に、瑞希と凪沙の影が絡み合う。
互いの濃さを競い合うように、渦となり、溶け合う。
凪沙はさらに一歩踏み出し、瑞希の両肩を掴んだ。
「まだ、触れてはダメだ!」
その声は、先ほどまでの静かさとは違う、明確な緊張が滲んでいた。
しかし、肝心の言葉の意味が理解出来ない。
凪沙の手に掴まれた肩が熱を帯び、瑞希は一瞬だけ呼吸を取り戻した。
だが、足元に広がる影は、依然として濃さを増してゆく。
光が弱まったからではない。
今や凪沙の影すらも呑み込まんとする勢い。
影そのものが“瑞希を起点に深くなっている”としか思えなかった。
「どうして……私の影が……」
「揺らぎが始まってしまったからです」
凪沙は低い声で言った。
「あなたは今日、あれをハッキリと視てしまった。
一度見てしまうと、向こう側のものは“こちら”を探し始める。
ときどき……呼ばれるように」
「呼ばれる……?」
その言葉の響きが、瑞希の肌の上でひやりと広がる。
影は混ざり合いを緩め、じっとりと床に沈み、微かな震えを繰り返していた。
「あなたに害を与えようとしているのか、それとも、別の意味があるのか……私にも分かりません。
ひとつ言えることがあるとするならば、あなたの影は、あなたに執着しているのです。
まさか、あなた自身であるかのように……」
凪沙の視線には迷いがあった。
それは知識の欠落ではなく、“判断できないもの”を前にした人間の目だった。
「言っておきますが……影の奥にいるものは、悪いものとは限りません」
凪沙はあくまで淡々と続ける。
「ただ、こちらから手を伸ばすべきではない。
境界は、一度でも触れれば壊れる可能性がある」
瑞希は唇を噛んだ。
胸の中の恐怖と、説明のつかない“別の感情”が混ざり合って、心が締め付けられる。
「……私は、どうすれば……」
擦れる問いは、ほとんど祈りのようだった。
またひとつ、ふっと照明が揺れた。
次の瞬間には部屋全体が元の明るさに戻ったが、影だけは——瑞希の影だけは——濃いままだった。
瑞希はゆっくりと、その影を見下ろした。
すると、影が“呼吸をした”ように、一度だけ波打った。
まるで、そこに何かが潜んでいて、瑞希の存在を確認するかのように。
見つめ返されているかのように。
声にならない空気が胸の奥で暴れる。
「……あなたの名前を……」
凪沙の声が、一段低く響いた。
瑞希は反射的に凪沙を見つめる。
「絶対に言ってはいけません。
影の向こうにいる存在に、名前を与えることだけは」
「……言わない……言うわけない……」
そう言おうとした。
言おうとしたのに。
影が、ハッキリと形を変えた。
瑞希の足元に落ちていた黒が、ほんの少しだけ“人の輪郭”に近づく。
部屋の照明では出来得ない影の形。
目とも口ともつかない暗い窪みが、瑞希の方へわずかに傾いた気がした。
その瞬間だった。
――“みず……”
声だった。
確かに声だった。
耳ではなく、胸の内側に直接落ちてくるような、小さな囁き。
瑞希の全身が強張る。
自分の名前を呼ばれたわけではない。
呼ばれかけた、というべきだろう。
言い切られなかった“途切れた音”。
幻聴だと、片づけようとする理性が頼りなく働く。
だが、それは瑞希が聞いたことのない種類の音だった。
言葉の形になる直前の、意味だけを帯びたさざ波のような“気配”だった。
影が、瑞希の方へ触れようと伸びかけた。
「やめろ!」
凪沙の声が鋭く響くと同時に、瑞希は凪沙に突き飛ばされ、身体は後ろのソファへと不時着した。
足が地面から離れ、影から距離が生まれる。
影はふっと元の形に戻った。
ただの濃淡……ただの黒。
そこには何の意志も宿っていないように見えた。
瑞希は荒い呼吸のままひじ掛けに手をつき、顔を上げる。
「今の……何……?」
凪沙は瑞希にゆっくりと近づき、しかし距離を詰めすぎない位置で立ち止まった。
「答えは……僕にも分かりません。
ただ、あなたの影は間違いなくあなたを“見つけた”。
今日限りで終わる可能性もあるし、これからもっと強くなる可能性もある」
「そんな……どうなるんですか? 私は……」
凪沙はしばらく黙った。
何かを選び取るように、慎重に言葉を探している。
「影が形を持ちすぎなければ、何も起こらないはずです。ただ……」
「ただ……?」
「あなたが“名付けてしまえば”、向こう側のものは確実にこちら側に渡ってきます」
「名付けてなんかいません!」
瑞希は抵抗した。
「今後も、自分の影に名前なんて付けません!」
当たり前だ。名付けるつもりなどない。
それなのに——
あの囁きは、瑞希の名前の“欠片”に触れようとしていた。
「どうして……私なんですか?」
瑞希は疲れたように呟く。
凪沙はわずかに目を細めた。
その表情は、やはりどこか寂しげだった。
「先ほども言いましたが、決して選ばれたわけではありません。
たまたま……“視えてしまう側”に生まれただけです。
それは祝福でも呪いでもなく……ただの事実です」
その言葉は残酷ではない。
けれど、優しさとも違った。
まるで、長いあいだ一人で雨宿りをしてきた人間が、同じ場所にもうひとり来たことを淡々と受け入れるような響き。
ここでどんなに待っても、この雨は止まないのに……。
凪沙は、寄り添うように語り出す。
「人間は、皆それぞれ、“自分の中の自分”を潜ませています。
僕たちは、それが少々他人よりも“濃い”のです。
身体に納まりきらなくなった意思は、影へと映り、深淵となる。
そしていつしか、あるはずもない自我を持ち、名前を欲しがるのです。
“もうひとつの生命”でありたいと……」
凪沙の言葉に、瑞希はゆっくりと立ち上がった。
影は静かだ。
何も動かない。何も語らない。
ただ、瑞希の足元に置かれたように、濃く、深く、そこにある。
瑞希の心も、不思議と静まる。
「……これから、どうなるの?」
問いは自然だった。
凪沙は感情を滲ませず、瑞希をまっすぐと見つめた。
「それを決めるのは、あなたです。
影に触れるのか。距離を置くのか。
名を呼ぶのか。
呼ばれたと感じても、拒むのか」
曖昧で、しかしどこか重い言葉だった。
瑞希は足元を見る。
どんなに見つめても、影は、ただの影にしか見えない。
それでも——
瑞希の心のどこかで、影が“こちらを見ているような気配”は消えない。
あの囁きが、耳の奥でかすかに揺れ続ける。
――“みず……”
音にもならない空気。
言葉にもならない名前の欠片。
牢獄からの叫び。
——私が封じ込めた、もうひとりの私——
瑞希はゆっくりと目を閉じた。
深呼吸を一度だけして、影と向き合う。
聞こえぬ台詞。
届かぬ想いと漂う哀愁。
当てもなく流れる懺悔……。
目を開けると、影は静かに揺れた。
それが風のせいなのか、錯覚なのか、それとも未だに“呼んでいる”のか……分からない。
ただ、ひとつだけ確かだった。
——これから長い旅が、始まるのだ――
そう思った。
【固定】
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